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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第二章 悪女令嬢は、領地を再建する
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第17話 黒い子犬は、帳簿に載りません

 帳簿には、載るものと載らないものがある。


 毛布。

 薪。

 水路修繕費。

 薬草畑の収益。

 人足代。

 輸送費。


 それらは載る。


 載せようと思えば、数字にできる。


 だが、泥だらけの黒い子犬が膝の上で眠った場合、その扱いは少し難しい。


「お嬢様」


 セバスが言った。


「何かしら」


「ヨル様の治療費は、どの項目へ計上いたしましょう」


 グランベル領主館の客室。


 クラリスの前には、清潔な布、消毒液、包帯、小さな木皿に入った薬湯、そして黒い子犬がいた。


 子犬――ヨルは、机の上に敷かれた柔らかな布の上で丸まっている。


 前足には簡単な手当てが施され、黒い毛はまだところどころ泥で固まっていた。


 耳だけが時々、ぴくりと動く。


「治療費」


 クラリスは繰り返した。


「はい。水路不正調査費、魔獣対応費、未確認生物保護費、いずれも可能性がございます」


「未確認生物保護費は、まだ項目として存在しません」


「では、新設いたしますか」


「しません」


「では、仮でヨル記録へ」


「それで」


 セバスは真面目に頷き、手元の帳面へ書いた。


 ヨル記録。

 初期手当て。

 消毒液少量。

 包帯一巻。

 薬湯半量。

 焼き菓子一枚。


 クラリスは目を細めた。


「焼き菓子?」


「お召し上がりになりました」


「誰が」


「ヨル様が」


 クラリスはヨルを見る。


 ヨルは目を閉じたまま、尻尾を一度だけ動かした。


 知らないふりをしている。


 子犬にしては、たいへん態度が大きい。


「犬に焼き菓子はよくありません」


「魔獣医によれば、通常の犬ではない可能性が高いとのことでした」


「通常の犬でないなら焼き菓子がよい、という理屈にはなりません」


「ごもっともでございます」


 セバスは、真面目な顔で焼き菓子の項目に小さく注記した。


 次回以降、要確認。


 そこへ、扉を叩く音がした。


「入れ」


 クラリスが答える前に、ヴィクトル・グランベル辺境伯の声がした。


 この館では、主人が短く、周囲が速い。


 扉が開き、ヴィクトルが魔獣医を伴って入ってきた。


 魔獣医は、小柄な老女だった。


 灰色の髪を一つに束ね、腰に革袋を下げている。


 王宮の医師のような華やかさはない。


 だが、指先と目が鋭い。


「この子かい」


 老女は、ヨルを見た瞬間、顔を変えた。


 驚き。


 警戒。


 そして、ほんの少しの畏れ。


 クラリスはその変化を見逃さなかった。


「診ていただけますか」


「ああ。診るだけならね」


「診る以外に何か」


「分からないものは、治す前に敬うんだよ」


 老女は、そう言ってヨルの前で膝をついた。


 セバスほど優雅ではない。


 だが、その所作には不思議な礼があった。


 ヨルは目を開けた。


 黒曜石のような目。


 紫がかった光が、奥に沈んでいる。


 老女は小さく息を吸った。


「……黒曜餓狼」


 部屋の空気が止まった。


 ヴィクトルの目が細くなる。


「やはりか」


「やはり、と申しますと?」


 クラリスが尋ねる。


 ヴィクトルは腕を組んだ。


「グランベルの古い森に伝わる守り獣だ。黒い狼の姿をして、瘴気を喰らうと言われている」


「瘴気を喰らう」


「ただし、伝承上の話だ。俺も見たことはない」


 老女が、ヨルの前足をそっと見る。


「幼体だね。しかも、かなり弱ってる。傷は浅いが、瘴気を吸いすぎている」


「吸ったのですか」


「喰った、と言ったほうが近いかもしれないね」


 老女は薬草をすり潰しながら言った。


「森狼が狂っていたろう。あれの瘴気を、この子が少し抑えていたんだろうよ。だから完全に魔物化せずに済んだ」


 クラリスは、森で見た黒い泡を思い出した。


 ヨルがくしゃみをした時、泡が薄くなった。


 あれは偶然ではなかったらしい。


「黒曜餓狼は、人に懐くのですか」


 クラリスが尋ねる。


 老女は鼻で笑った。


「懐かないよ」


 部屋の全員が、ヨルを見る。


 ヨルはクラリスの袖を前足で押さえている。


 離す気はなさそうだった。


「これは、懐いているのでは?」


 セバスが穏やかに言う。


「だから妙なんだよ」


 老女は、クラリスをじっと見た。


「あんた、何をした」


「助けました」


「それだけかい」


「それだけです」


 老女は、しばらくクラリスを見ていた。


 そして、ふっと笑った。


「神獣ってやつはね、血筋や肩書きじゃ動かない。恩と匂いを覚える」


「匂い」


「悪意の匂い。瘴気の匂い。嘘の匂い。そういうものをね」


 クラリスは少し黙った。


 嘘の匂い。


 帳簿では、嘘は数字の歪みとして出る。


 だが、ヨルは別の形でそれを嗅ぐのかもしれない。


 そう考えると、少し厄介だった。


 便利すぎるものは危険である。


「ヨルを、調査に利用するつもりはありません」


 クラリスは言った。


 ヴィクトルが彼女を見る。


「なぜ」


「この子は証拠ではありません」


 クラリスは、ヨルの頭に手を置いた。


 今度は、自分が撫でていることを認めた。


「神獣が吠えたから有罪、では帳簿になりません。記録できる事実と照合できる証拠が必要です」


 老女が、愉快そうに笑った。


「変わった娘だね。神獣を拾っておいて、証拠能力を心配するのかい」


「当然です」


「気に入ったよ」


 老女は、ヨルの前足に薬草を塗り直した。


 ヨルは少しだけ身を震わせたが、逃げなかった。


 むしろ、クラリスの袖をさらに強く押さえた。


 セバスが記録する。


 薬草塗布。

 瘴気吸収の疑い。

 黒曜餓狼幼体の可能性。

 証拠能力なし。


 クラリスはその最後の一文を見て、頷いた。


「正確です」


「恐縮でございます」


 その時、ヨルが急に顔を上げた。


 耳が立つ。


 鼻先が窓の方を向いた。


 低く、くう、と鳴く。


 子犬らしい声ではなかった。


 細いが、奥に響く音。


 ヴィクトルがすぐに窓へ向かった。


「何だ」


 窓の外には、領主館の中庭が見える。


 その向こうに、代官補佐官ミゲル・トーリが立っていた。


 身なりの整った男である。


 柔らかな灰色の上着。

 磨かれた靴。

 薄く笑う口元。


 その周囲に、文官が二人。


 ミゲルは、こちらの窓に気づくと丁寧に頭を下げた。


「呼んだ覚えはない」


 ヴィクトルの声が低くなる。


 クラリスはヨルを見た。


 ヨルは、まだ窓の外を見ている。


 尻尾は丸まっていない。


 怯えているのではない。


 警戒している。


「ミゲル・トーリ様ですね」


「代官補佐だ」


「水路修繕工事の検査立会人」


「ああ」


 クラリスは机の上の水路資料を手に取った。


「予定より早いご挨拶です」


「呼ばれる前に来る者は、二種類おります」


 セバスが言った。


「誠実な者と、先に整えたい者でございます」


「今回は」


「これから確認いたしましょう」


 ヴィクトルは家令を呼び、短く命じた。


「ミゲルを応接室へ。茶は不要だ」


「は、はい」


 クラリスは立ち上がった。


 ヨルも立とうとした。


 前足を痛めているのに、布の上から降りようとする。


「ヨル」


 クラリスはその小さな体を押さえた。


「あなたは安静です」


 ヨルは不服そうに鼻を鳴らした。


「安静も記録対象です」


 ヨルは、なぜか少しだけ大人しくなった。


 セバスが感心している。


「お嬢様、神獣にも記録で説得なさるのですね」


「通じたかは分かりません」


「少なくとも、聞く姿勢はございます」


 老女は薬草袋をしまいながら言った。


「その子は、あんたについて行きたがるよ」


「困ります」


「困っても行く」


「安静が必要です」


「なら、あんたが早く戻ってくることだね」


 クラリスは、ヨルを見た。


 ヨルはじっとこちらを見ている。


 黒曜石の目。


 不思議と、置いていくことに少しだけ罪悪感が生じる。


 極めて不合理である。


「すぐ戻ります」


 クラリスは言った。


 言ってから、自分で少し驚いた。


 ヨルは、満足したように目を細めた。


 応接室には、ミゲル・トーリがすでに座っていた。


 彼はクラリスを見ると、丁寧に立ち上がる。


「クラリス様。遠路はるばる、ようこそグランベル領へ」


「ご挨拶痛み入ります」


「王宮でのご活躍、聞き及んでおります。まさかこのような辺境へお越しいただけるとは」


 言葉は滑らかだった。


 王宮にも通じる話し方である。


 だが、グランベル領の空気の中では、少し香水が強い。


「水路をご覧になったとか」


「はい」


「お恥ずかしい限りです。古い土地でして、どこもかしこも手がかかります」


「古い土地に手がかかることと、修繕済みの水門が動かないことは別です」


 ミゲルの笑みが、ほんの少し止まった。


 クラリスは机に書類を置く。


「第二水門に未記載の脇水路がございました。北斜面の薬草畑へ流れているとの証言もあります」


「古い排水路でしょう。農民は水の流れに敏感ですから、少しのことでも騒ぎます」


「少し」


 クラリスは繰り返した。


「下流三村の収穫量は、三年で平均二割落ちています」


「天候不順もございます」


「降水量記録を確認します」


「山の天気は記録しにくいものです」


「では、水門開度記録を」


「現場に任せております」


「では、現場責任者の記録を」


「水路係は、文字が得意ではなく」


 クラリスは、静かにミゲルを見た。


 言葉が、柔らかく逃げていく。


 天候。

 古い土地。

 現場。

 農民の騒ぎ。

 文字が得意ではない。


 責任の輪郭をぼかす言葉が多い。


 王宮でよく見た香りである。


「ミゲル様」


「はい」


「あなたが検査立会人として押印した完了報告では、第一から第三水門まで、軸受け交換、金具交換、土砂除去が完了したとあります」


「はい。業者からの報告に基づき」


「立ち会っていないのですか」


「確認はいたしました」


「何を」


 ミゲルは微笑んだ。


「外観を」


 ヴィクトルの表情が、完全に消えた。


 クラリスは頷いた。


「外観確認のみで、軸受け交換完了として押印したのですね」


「業者は長年取引のある信頼できる者で」


「信頼と検査は別です」


 ミゲルの笑みが薄くなる。


 クラリスは続けた。


「北斜面の薬草畑についても確認いたします。所有者はどなたですか」


「小作地ですので、細かな所有関係は」


「あなたの叔母上の婚家が関係していると聞いています」


「遠縁でございます」


「遠縁と無関係は別です」


 ミゲルは、ようやく黙った。


 ヴィクトルが低く言う。


「ミゲル。薬草畑の書類を出せ」


「領主様」


「今」


 短い命令だった。


 ミゲルは、一瞬だけクラリスを見た。


 その目に、初めて明確な敵意が浮かんだ。


 クラリスは思った。


 ようやく表情が現場に合ってきた。


 ミゲルが部屋を出て行った後、ヴィクトルは深く息を吐いた。


「すまない」


「何に対してでしょう」


「見落としていた」


「はい」


 クラリスは否定しなかった。


「ただし、見落としを認めるのは早い方がよろしいかと」


「そうだな」


「王宮では、そこに時間がかかりました」


 ヴィクトルは少しだけ苦い顔をした。


「俺は王太子殿下よりは速くありたい」


「比較対象としては、あまり高くありません」


 セバスが後ろで咳払いをした。


 笑いを隠したのかもしれない。


 ヴィクトルは一瞬だけクラリスを見て、それから小さく笑った。


「覚えておく」


 その時、廊下の向こうから小さな騒ぎが聞こえた。


 何かが走る音。


 使用人の慌てた声。


 そして、軽い爪音。


 クラリスは、嫌な予感がした。


 扉が少し開く。


 黒い小さな影が、するりと入ってきた。


 前足に包帯を巻いたヨルだった。


 口には、何か紙を咥えている。


「ヨル」


 クラリスの声に、ヨルはまっすぐ歩いてきた。


 怪我をしているはずなのに、妙に誇らしげである。


 そして、クラリスの足元に紙を置いた。


 それは、薬草畑の出荷控えだった。


 部屋の空気が、再び止まった。


 セバスが、たいへん静かに言った。


「お嬢様」


「何かしら」


「ヨル様は、帳簿に載らないだけで、帳簿を持ってくるようでございます」


 クラリスは紙を拾った。


 出荷先。


 ローゼン商会北方支店。


 その文字を見た瞬間、王宮の記録と辺境の水路が、細い線でつながった。


 クラリスは、ヨルを見下ろした。


 ヨルは、尻尾を一度だけ振った。


 まるで、証拠を受領せよと言っているようだった。


「ヨル」


 クラリスは言った。


「安静はどうしました」


 ヨルは、そっと目を逸らした。


 それはもう、ほとんど人間のような反応だった。


 クラリスは、深く息を吐く。


「セバス」


「はい」


「ヨル記録に追記を」


「内容は」


「安静指示違反。ただし、証拠提出あり」


「承知いたしました」


 ヴィクトルが、紙を見て低く言った。


「ローゼン商会か」


「はい」


 王宮で削られた慈善の焼印。


 辺境で流れを変えられた水路。


 薬草畑。


 瘴気を帯びた森狼。


 そして、ローゼン商会北方支店。


 帳簿に載るもの。

 載らないもの。


 その両方が、同じ場所を指し始めている。


 クラリスは、ヨルの頭を一度だけ撫でた。


「よく持ってきました」


 ヨルの耳が、ぴんと立つ。


 嬉しそうだった。


 認めたくないが、かわいい。


 クラリスは書類を机に置き、羽根ペンを取った。


「では、確認しましょう」


 応接室に、また紙の音が戻る。


 黒い子犬は、帳簿には載らない。


 けれど、帳簿に載らないものが、時々いちばん大事な証拠の匂いを嗅ぎつける。


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