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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第二章 悪女令嬢は、領地を再建する
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21/48

第18話 薬草畑の水は、どこから来ましたか


 水は、低い方へ流れる。


 それは自然の理である。


 だが、人の欲は、時々それを曲げる。


 山から流れた水は、本来、下流三村の畑へ向かうはずだった。


 麦畑。

 豆畑。

 根菜畑。


 領民の食卓へつながる水である。


 けれど、その一部はいつの間にか脇水路へ逸らされ、北斜面の薬草畑へ流れていた。


 帳簿には載っていない水。


 地図にも載っていない水。


 だが、畑は青々としていた。


 翌朝、クラリスは朝食前に水路図を広げていた。


 机の左側には、第二水門周辺の略図。

 右側には、薬草畑の出荷控え。

 中央には、ヨル記録。


 ヨルは机の端に敷かれた布の上で丸まっている。


 前足には包帯。


 しかし昨夜、安静指示を破って証拠らしき紙を持ってきたため、セバスの記録にはこう追記されていた。


 安静指示違反。

 ただし、証拠提出あり。

 処遇、保留。


 ヨルは、その記録に不満があるらしく、時折しっぽを一度だけ動かしていた。


「お嬢様」


 セバスが言った。


「何かしら」


「ヨル様が、朝食の肉を凝視しております」


「まだ薬湯の後です」


「たいへん強い凝視でございます」


「凝視では食事内容は変更されません」


 ヨルは、くう、と小さく鳴いた。


 クラリスは羽根ペンを止めた。


 不合理である。


 神獣の幼体かもしれない存在が、朝食の肉片一つで交渉を始めている。


「ほんの少量だけ」


「承知いたしました」


 セバスは、すでに用意していた小皿を差し出した。


 クラリスは目を細める。


「用意していましたね」


「想定される支出でございます」


「支出ではありません」


「では、給餌記録へ」


 ヨルは、小さな肉片を食べると満足したように目を細めた。


 その顔だけ見れば、ただの子犬である。


 だが、昨夜この子犬は、薬草畑の出荷控えを咥えて現れた。


 出荷先。


 ローゼン商会北方支店。


 王宮で慈善物資を横流ししていたローゼン商会。


 その名が、今度は辺境の水路不正の先に出てきた。


 偶然と片づけるには、少し水の流れが整いすぎている。


 扉が叩かれた。


「入れ」


 ヴィクトル・グランベル辺境伯が入ってくる。


 昨日と同じく、飾り気のない服装だった。


 ただ、外套には朝露がついている。


 すでに外を見てきたのだろう。


「北斜面を確認した」


 挨拶より先に、彼は言った。


「薬草畑ですか」


「ああ。水が多すぎる」


「畑の状態は」


「青い。下流の畑よりもずっとな」


 ヴィクトルの声には、静かな怒りが含まれていた。


 領主として、下流の畑を見ている男の怒りだ。


「薬草の種類は?」


「瘴気浄化草、と帳簿にはある」


 セバスが、すっと別紙を差し出した。


「昨日ヨル様がお持ちくださった出荷控えにも、同じ品名がございました」


 瘴気浄化草。


 クラリスは、その文字を見た。


 名前だけなら、たいへん立派である。


 瘴気を浄化する草。


 領地の役に立つ薬草。


 王宮の慈善と同じだ。


 言葉は美しい。


 問題は、どこで、誰が、いくらで、何を犠牲にして育てたかである。


「帳簿上の収益は?」


 クラリスが尋ねる。


 ヴィクトルは一枚の紙を置いた。


「これだ」


 薬草畑収益報告。


 品目、瘴気浄化草。

 出荷量、中程度。

 収益、微少。

 理由、初年度につき品質安定せず。


 クラリスは、その紙をしばらく見た。


「微少」


「そう書いてある」


「出荷控えでは、大量とあります」


「ああ」


「王宮でも見ました」


 クラリスは静かに言った。


「現場では届いていないのに、帳簿では納品済み。今回は逆です。現場では大量に出ているのに、帳簿では微少」


 セバスが頷く。


「出るべきものが消え、消えるべきでないものが出ておりますな」


「ええ」


 クラリスは、薬草畑収益報告の下部を見た。


 提出者。


 代官補佐官、ミゲル・トーリ。


「ミゲル様は?」


「別室で待たせている」


「逃げませんか」


「逃がさない」


 ヴィクトルは短く言った。


 その返事には余計な飾りがない。


 クラリスは、少しだけ安心した。


 王宮では、逃げる前に礼儀が挟まる。


 辺境では、逃げる前に兵が立つ。


 どちらが美しいかは別として、後者は速い。


「まず薬草畑を見ます」


 クラリスは立ち上がった。


 ヨルも立ち上がろうとした。


「ヨル」


 クラリスが言う。


 ヨルは一度、動きを止めた。


「安静です」


 ヨルは、目を逸らした。


「安静です」


 もう一度言うと、ヨルはしぶしぶ布の上に伏せた。


 セバスが記録する。


 安静指示、二度目で受領。


 クラリスは、少しだけ眉を寄せた。


「その記録、必要ですか」


「後の健康管理に有用かと」


「……保管してください」


「承知いたしました」


 北斜面の薬草畑は、領主館からそう遠くなかった。


 森へ向かう緩やかな斜面に、濃い紫色の葉を持つ草が一面に植えられている。


 朝の光を受けて、葉の先がぬらりと光っていた。


 美しい。


 だが、クラリスは美しさだけを見なかった。


 畑の畝は整っている。

 土は黒く湿っている。

 水路から細い溝が引かれている。


 水は、十分すぎるほど来ていた。


 下流の農家の畑とはまるで違う。


「これが、微少な収益の畑ですか」


 クラリスが言うと、同行していた水路係が顔を伏せた。


 ヴィクトルは畑の端へ歩き、土を踏んだ。


「湿りすぎている」


「水が多いのですね」


「下流へ行く分を取っている」


 その声は低かった。


 怒りを抑えている。


 クラリスは畑の溝を見た。


 第二水門の脇水路から来た水は、ここへ流れ込んでいる。


 そして、余った水は森の方へ抜けていた。


「排水先は森ですか」


「ああ」


「森狼が瘴気を帯びていました」


 ヴィクトルが、森の方を見る。


「この畑から流れた水が、森へ入っている可能性か」


「可能性です」


 クラリスは葉を一枚見た。


 触れようとして、止める。


 魔獣医から、未知の薬草には素手で触れるなと言われていた。


「採取記録はありますか」


 クラリスが尋ねる。


 薬草畑の管理人らしき男が、慌てて答えた。


「畑小屋に、簡単なものなら」


「簡単で結構です」


 男は目を泳がせた。


 その反応だけで、簡単な記録も怪しいことが分かる。


 畑小屋へ向かう途中、クラリスは畦道の脇に置かれた木箱を見つけた。


 古い焼印が押されている。


 ローゼン商会の印。


「こちらは?」


 管理人の肩が跳ねた。


「出荷用の空箱です」


「空箱にしては、新しい土がついています」


「運ぶ時に」


「どこへ」


「北方支店へ」


「何箱出しましたか」


「先月は……」


 管理人の声が小さくなる。


「五箱ほど」


 セバスが、出荷控えを開いた。


「出荷控えでは、先月だけで二十箱となっております」


 管理人は黙った。


 ヴィクトルが一歩近づく。


「正確に答えろ」


 管理人は顔を青くした。


「わ、私は言われた通りに箱詰めを」


「誰に」


「ミゲル様の下役です」


 また、ミゲル・トーリ。


 クラリスは書き留めた。


 薬草畑管理人証言。

 箱詰め指示、ミゲル下役。

 出荷控えと申告数量に差異。


 畑小屋の中は、思ったより整っていた。


 壁には鎌。

 棚には乾燥中の薬草。

 床には木箱。

 机には一冊の薄い帳面がある。


 クラリスは帳面を開いた。


 日付。

 作業人数。

 収穫量。


 だが、途中から文字が変わっている。


 最初は不慣れな手。

 後半は整った文官の字。


「この帳面を書いたのは?」


「最初は私です」


 管理人が答える。


「途中からは?」


「代官補佐様の下役が、こちらで整理すると」


「整理」


 クラリスは、その言葉を拾った。


「書き換えではなく?」


「わ、私はよく字が読めないので」


 王宮でも聞いた。


 現場の者が文字に弱いことを理由に、書類が誰かの手へ渡る。


 そして、現場が見たものではなく、都合のよい文字が残る。


「原本はありますか」


 管理人は、目を泳がせた。


 クラリスは黙って待った。


 沈黙は、時々、質問より有効である。


 やがて管理人は、小屋の隅にある古い肥料袋へ手を伸ばした。


 その下から、汚れた紙束が出てきた。


「捨てろと言われました。でも、何かあった時に怖くて」


「よく残しました」


 クラリスは言った。


 管理人が、驚いた顔をする。


 叱られると思っていたのだろう。


「悪女ですので、捨てなかった紙は評価します」


 セバスが静かに頷いた。


「たいへんお嬢様らしいお褒めでございます」


 原本の紙束には、収穫量がかなり多く記されていた。


 初年度につき品質安定せず。


 帳簿上はそう書かれていた。


 しかし原本では、三か月目から収穫量が急増している。


 特に第二水門の脇水路が作られた時期から。


 水が増え、薬草が増え、出荷量が増えた。


 だが、領地収益にはほとんど入っていない。


「辺境伯様」


「何だ」


「この薬草畑の収益は、領地会計に十分反映されておりません」


「やはりか」


「はい」


「水を奪い、収益を隠している」


「現時点では、その疑いが強いです」


 ヴィクトルは、畑の向こうにある森を見た。


「そのうえ、瘴気か」


 クラリスは薬草の束を見た。


 乾燥中の葉の一部に、黒い斑点がある。


 瘴気浄化草。


 本当に瘴気を浄化するのか。


 それとも、瘴気を吸って別のものに変えるのか。


 魔獣医の確認が必要だった。


「薬草の性質確認を」


 クラリスが言うと、セバスがすでに布袋を用意していた。


「採取いたしますか」


「手袋を二重に。葉、根、土、水をそれぞれ別に」


「承知いたしました」


 管理人が小さく言った。


「あの草、よく育つんです」


 クラリスは彼を見る。


「水をやればやるほど。普通の薬草より、ずっと早く」


「いつからですか」


「去年の秋からです」


「何か変わりましたか」


 管理人は迷った。


「ローゼン商会の人が、種を変えたと」


 ヴィクトルの目が鋭くなる。


「種?」


「はい。北方支店の人が、『よく効く新種だ』って。育てれば領の収益になるって」


「ミゲルは知っていたか」


「ミゲル様の紹介でした」


 点が線になる音がした。


 水路修繕費の増加。

 第二水門の未記載脇水路。

 薬草畑への水の横流し。

 収穫量の書き換え。

 ローゼン商会北方支店。

 新種の瘴気浄化草。

 森へ流れる排水。

 瘴気を帯びた森狼。

 ヨル。


 まだ断定はしない。


 だが、疑う理由は十分すぎる。


「ミゲル様をこちらへ」


 クラリスは言った。


 ヴィクトルが兵へ合図する。


 ほどなくして、ミゲル・トーリが畑へ連れてこられた。


 昨日の応接室で見せた柔らかな笑みは、今日は少し薄い。


 それでも彼は整った礼をした。


「クラリス様。畑までご足労いただいたとは」


「ええ」


 クラリスは薬草畑を指した。


「よく育っていますね」


「ありがたいことに」


「収益報告では微少とありました」


「初年度は経費がかさみますので」


「原本では収穫量が三か月目から急増しています」


 ミゲルの顔から、笑みが消えた。


「原本?」


 クラリスは、汚れた紙束を見せた。


「こちらです」


 管理人が怯えたように下を向く。


 ミゲルは、その管理人をちらりと見た。


 その視線は短い。


 だが、脅しの匂いがした。


 その瞬間。


 領主館から連れてこられたヨルが、低く唸った。


 老女の魔獣医が抱いていたはずだが、どうやら彼女も同行していたらしい。


 ヨルは包帯を巻いた前足をかばいながら、クラリスの足元へ歩いてきた。


「ヨル」


 クラリスは言った。


「安静は?」


 ヨルは、聞こえないふりをした。


 セバスが静かに記録する。


 安静指示、三度目の違反。

 理由、現場確認への強い意思か。


「意思ではありません」


「では、習性でしょうか」


「分かりません」


「では、未確認として」


 そんなやり取りの間も、ヨルはミゲルを見ていた。


 唸り声は小さい。


 だが、明らかに警戒している。


 ミゲルは不快そうに眉をひそめた。


「その獣は何です」


「保護中の未確認生物です」


 クラリスが答える。


「畑に入れるのは衛生上」


「あなたの衛生管理を心配できる段階ではございません」


 ミゲルは口を閉じた。


 クラリスは書類を広げる。


「質問します。第二水門からこの薬草畑へ流れる脇水路は、誰の指示で作られましたか」


「古い排水路を活用しただけです」


「誰の指示ですか」


「現場判断です」


「現場とは、どなたですか」


 ミゲルは答えない。


 クラリスは次の紙を出す。


「薬草畑の出荷量が領地会計に反映されていません。出荷先はローゼン商会北方支店。こちらの契約書はどなたが承認しましたか」


「まだ試験栽培の段階で」


「承認者はどなたですか」


「正式な契約ではなく」


「では、非正式に領地の水を使い、非正式に薬草を出荷し、非正式に収益を処理したということですか」


 ミゲルの額に汗が浮かぶ。


 ヴィクトルが低く言った。


「答えろ」


 ミゲルは、しばらく黙った。


 そして、ゆっくり口を開いた。


「領のためでございます」


 出た。


 クラリスは、心の中で羽根ペンを置いた。


 王宮でも聞いた。


 王宮のため。

 慈善のため。

 殿下のため。

 民のため。


 大きな言葉は、個人の利益を隠す時によく使われる。


「この新種薬草が軌道に乗れば、グランベル領の収益は大きく伸びます。北方支店は販路を持っている。多少の水の調整は、将来への投資です」


「下流三村の収穫減は」


「一時的なものです」


「種貸しを減らすと脅した件は」


「下役が行きすぎたのでしょう」


「収益報告を書き換えた件は」


「初年度の混乱です」


「森狼の瘴気は」


「畑とは無関係です」


 クラリスは静かに頷いた。


「承知しました」


 ミゲルの表情に、ほんの少し安堵が浮かぶ。


 だが、クラリスは続けた。


「では、それぞれ別件として記録いたします」


 安堵が消えた。


「別件?」


「はい」


 クラリスは指を折る。


「無許可水路変更。領地収益未計上。出荷契約未承認。農民への圧力。記録改ざん。瘴気発生源確認妨害の可能性」


 セバスが優雅に書き留める。


「ひとつにまとめて『領のため』とすると軽くなりますので、分けます」


 ヴィクトルが、低く笑った。


「なるほど」


 ミゲルの顔が青くなる。


「クラリス様、それはあまりに」


「重いですか」


「はい」


「下流の畑も、重かったと思います」


 風が吹いた。


 薬草畑の紫の葉が揺れる。


 美しい畑だった。


 だが、その美しさの下には、誰かの水が流れている。


 クラリスは、ヴィクトルを見た。


「辺境伯様」


「何だ」


「この畑の出荷を一時停止してください。水路の使用も停止。薬草の性質確認が終わるまで、排水を森へ流さないよう仮堰を」


「分かった」


「ミゲル様には、関連書類の提出と、調査終了までの職務停止を」


「そうする」


 ミゲルが声を荒げた。


「領主様! 私を外せば、現場が混乱します!」


 ヴィクトルは、冷たい声で答えた。


「すでに混乱している」


「私は領のために」


「領のためなら、なぜ俺に報告しなかった」


 ミゲルは黙った。


「領のためなら、なぜ収益を隠した」


「それは」


「領のためなら、なぜ下流の農民を黙らせた」


 ヴィクトルの声は大きくない。


 だが、一問ごとに重さが増した。


 ミゲルは、もう答えられなかった。


 クラリスは、その横顔を見て思った。


 ヴィクトルは帳簿を読むのは苦手かもしれない。


 だが、責任から逃げる言葉には鋭い。


 それで十分だ。


 数字は、クラリスが読む。


 現場は、彼が見る。


 役割が分かれている関係は、悪くない。


 その時、ヨルが小さくくしゃみをした。


 すると、薬草畑の端に溜まっていた黒っぽい水が、ふっと薄く揺れた。


 魔獣医の老女が目を細める。


「やっぱりね」


「何がですか」


 クラリスが尋ねる。


「この草、瘴気を浄化してない。吸って溜めてる」


 ヴィクトルの表情が険しくなる。


「では、森へ流れていた排水は」


「薄い瘴気を含んでる可能性がある」


 老女は、紫の葉を睨んだ。


「そりゃ、森狼も狂う」


 畑の周囲がざわめく。


 クラリスはヨルを見る。


 ヨルは、小さな体で薬草畑を睨んでいた。


 ただの子犬ではない。


 そして、ただの神獣でもない。


 この子は、瘴気の存在を知っている。


 クラリスは静かに言った。


「追加記録を」


 セバスが羽根ペンを構える。


「瘴気浄化草、名称に疑義あり」


「はい」


「現時点では、瘴気蓄積草の可能性」


「たいへん嫌な名前でございます」


「事実確認前です。仮称で」


「承知いたしました」


 ヴィクトルが兵へ命じる。


「畑を封鎖。排水路を止めろ。下流へも森へも流すな。魔獣医の指示を受けろ」


 兵たちが動いた。


 薬草畑の管理人は、その場に膝をついた。


「すみません、領主様。俺、そんな草だとは知らなくて」


 ヴィクトルは彼を見た。


「知っていたことと、知らなかったことを分けて話せ」


 クラリスは、少しだけ顔を上げた。


 その言い方は、彼女が昨日使ったものだった。


 ヴィクトルはそれに気づいているのか、いないのか。


 どちらでもよかった。


 言葉が現場へ移った。


 それだけで意味がある。


 ヨルが、クラリスの足元へ寄り添う。


 前足が痛むのか、少しふらついた。


 クラリスは身をかがめる。


「だから安静だと言いました」


 ヨルは、申し訳なさそうに耳を伏せた。


「謝意は受け取ります。ですが、次回から従ってください」


 ヨルは小さく鳴いた。


 本当に理解しているのかは分からない。


 ただ、尻尾は少し揺れていた。


 セバスが、横から静かに言う。


「お嬢様」


「何かしら」


「ヨル様の項目は、未確認生物保護費から、調査協力費へ移しますか」


「移しません」


「では」


「治療優先対象です」


 ヨルの耳が立った。


 クラリスは視線を逸らす。


「怪我をしているので」


「もちろんでございます」


 セバスは、たいへん温かい目で頷いた。


 薬草畑には、仮の封鎖縄が張られた。


 未記載の脇水路は閉じられ、森へ流れる排水は土嚢で止められた。


 下流へ向かう本流には、少しずつ水が戻り始めている。


 まだ十分ではない。


 だが、音が違う。


 水が、自分の道を思い出し始めたような音だった。


 クラリスは、水路図の余白に新しく書き込んだ。


 北斜面薬草畑。

 水源、第二水門脇水路。

 出荷先、ローゼン商会北方支店。

 収益報告に疑義。

 薬草性質、瘴気蓄積の可能性。

 森狼魔物化との関連、調査中。


 書き終えて、ふと王宮のことを思い出した。


 届かなかった毛布。


 削られた焼印。


 王妃の署名。


 あの時も、便利な言葉の裏に、誰かの寒さがあった。


 ここでは、便利な薬草の裏に、誰かの水と森の瘴気がある。


 場所が変わっても、構造は似ている。


 だが、似ているからこそ対応できる。


 クラリスは羽根ペンをしまった。


「辺境伯様」


「何だ」


「次は、ローゼン商会北方支店です」


 ヴィクトルは頷いた。


「行くか」


「はい」


 ヨルが、すぐに一歩前へ出ようとした。


「あなたは領主館へ戻ります」


 クラリスが言うと、ヨルは固まった。


 それから、きゅう、と不満そうに鳴いた。


「不満は記録します」


 ヨルは、さらに不満そうな顔をした。


 セバスが微笑みながら帳面を開く。


「ヨル記録、追記いたします。ローゼン商会北方支店同行希望。クラリス様により却下」


 ヨルは、まるで抗議するように前足で地面を叩いた。


 包帯が汚れた。


 クラリスは、深く息を吐いた。


「却下理由、前足治療中」


 セバスが書き足す。


「承知いたしました」


 ヴィクトルが、少しだけ笑った。


「強情だな」


「ヨルがですか」


「どちらも」


 クラリスは、返答しなかった。


 領地再建は、始まったばかりである。


 水路を戻し、帳簿を直し、薬草畑を止め、ローゼン商会を追う。


 そして、黒い子犬を安静にさせる。


 最後の項目が、思ったより難しい。


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