第19話 ローゼン商会北方支店へ、監査に参ります
商会の建物には、性格が出る。
王都のローゼン商会本店は、磨かれた硝子と金の看板でできていた。
いかにも王宮御用商会らしく、入り口には花があり、受付の声は甘く、待合室の椅子は深く沈む。
では、北方支店はどうか。
石造りの倉庫。
太い梁。
荷馬車の車輪跡。
積まれた木箱。
冷たい風に揺れる、濃紺の商会旗。
華やかではない。
だが、金の匂いはした。
飾られた金ではない。
流れている金の匂いだ。
「ここがローゼン商会北方支店だ」
ヴィクトル・グランベル辺境伯が言った。
領都の北端。
山道へ向かう荷馬車の集積地に、その支店はあった。
王都へ薬草を送り、山側から毛皮や鉱石を受け、北の小領地へ保存食や薬を流す。
辺境の商流の結び目。
帳簿の上では、たいへん便利な場所である。
便利な場所は、時々、不便な真実を隠す。
クラリスは馬車を降りた。
今日の服は、王宮用の絹ではない。
動きやすい濃紫の外套。
足元は泥道用の革靴。
手には資料鞄。
黒檀の杖は、セバスが持っている。
ヨルは、領主館で安静のはずだった。
はずだった。
「お嬢様」
セバスが静かに言った。
「何かしら」
「荷馬車の影から、たいへん黒い視線を感じます」
クラリスは、ゆっくりそちらを見た。
木箱の陰に、黒い耳が二つ見えた。
続いて、黒曜石のような目。
前足には、包帯。
ヨルだった。
「ヨル」
クラリスの声に、ヨルは一瞬だけ固まった。
その後、何事もなかったように木箱の影から出てきた。
堂々としている。
安静指示を破った者の態度ではない。
「領主館で安静と伝えました」
ヨルは、くう、と小さく鳴いた。
「返答になっていません」
ヨルは、ヴィクトルの方を見た。
ヴィクトルは腕を組む。
「俺は連れてきていない」
セバスが帳面を開いた。
「ヨル記録。安静指示四度目の違反。移動手段、荷馬車への無断潜伏と推定」
「推定ではなく、ほぼ確定です」
「では、確定で」
ヨルは不服そうに尻尾を振った。
クラリスは深く息を吐く。
「同行は認めません」
ヨルの耳が伏せる。
「ただし、すでに来てしまった以上、セバスの管理下で待機してください」
ヨルの耳が少し上がる。
「商会内へは入りません」
耳がまた下がった。
「不満は記録します」
セバスが頷く。
「ヨル様、不満表明。内容、商会監査への同行希望」
「希望だけです」
「承知いたしました」
そんなやり取りをしているうちに、ローゼン商会北方支店の扉が開いた。
出てきたのは、細身の男だった。
年は三十半ば。
身なりは整っているが、王都本店の商会長ほど脂ぎってはいない。
目がよく動く。
笑みは薄い。
帳簿より、人の顔を読んできた男の目だ。
「これはこれは、グランベル辺境伯様。突然のお越し、光栄にございます」
男は深く頭を下げた。
「ローゼン商会北方支店長、カイル・ローゼンでございます」
ローゼン。
クラリスは、その姓を聞き流さなかった。
「本店商会長とのご関係は?」
支店長カイルは、笑みを崩さない。
「従弟にあたります。もっとも、北方支店は独立採算で運営しておりますので」
「独立採算」
クラリスは繰り返した。
「便利な言葉ですね」
カイルの笑みが、ほんの少し浅くなった。
「こちらのご令嬢は?」
「クラリス・フォン・アルベルティーナ」
ヴィクトルが言った。
「本日、領主権限により、北方支店の取引記録を確認する」
「取引記録でございますか」
カイルは困ったように眉を下げた。
「商会の帳簿には、取引先の機密もございます。もちろん、辺境伯様に隠し立てするつもりはございませんが」
「では、出してください」
クラリスが言った。
カイルは、初めてクラリスを正面から見た。
「クラリス様。商会の帳簿は少々複雑でして」
「存じております」
「慣れない方がご覧になっても」
「慣れております」
「北方特有の取引も多く」
「説明をお願いします」
クラリスは淡々と言った。
「説明できる取引なら、問題ありません」
カイルの笑みが消えた。
ヴィクトルが短く告げる。
「帳簿を出せ」
支店の応接室に通されると、クラリスは最初に窓を見た。
外の倉庫へ続く中庭が見える。
木箱が積まれている。
薬草。
保存食。
毛皮。
薬瓶。
荷札には、北方支店の印。
そして、いくつかの箱には紫の染みがついていた。
瘴気浄化草の汁だろうか。
クラリスは席につき、資料を開いた。
「本日確認するのは、三点です」
カイルが向かいに座る。
ヴィクトルは横に立ったままだ。
セバスは後ろに控え、ヨルは扉の外で待機している。
待機している、はずである。
「第一に、北斜面薬草畑からの瘴気浄化草の仕入記録。第二に、販売先と販売価格。第三に、薬草畑整備および水路変更への関与」
カイルは、やわらかく笑った。
「水路変更ですか。弊商会は、領地の水路には関与しておりません」
「では、確認すればすぐ終わります」
クラリスは言った。
「よかったですね」
セバスが、小さく咳払いをした。
笑いを隠したのかもしれない。
カイルは、従業員に帳簿を持ってこさせた。
大きな革表紙の帳簿。
仕入帳。
売上帳。
倉庫出入記録。
見た目は整っている。
だが、クラリスは見た目を信じない。
見た目で信じるなら、王宮の帳簿はたいへん立派だった。
「まず、瘴気浄化草の仕入価格です」
クラリスは仕入帳を開いた。
「北斜面薬草畑より、試験栽培品として仕入れ。品質不安定につき、低価格で引き取り」
「その通りでございます」
カイルは頷く。
「新種でございますから、品質にばらつきがありまして」
「こちらが、出荷控えです」
クラリスはヨルが持ってきた紙を置いた。
「数量、大量。備考、機密取扱」
カイルの指が、ほんの少し動いた。
「現場の控えに過ぎません。正式な仕入帳が正でございます」
「では、なぜ控えの数量と仕入帳の数量が異なるのでしょう」
「現場の者が、予定数量を書いたのでは」
「出荷後の控えです」
「記載ミスでしょう」
「便利な言葉ですね」
クラリスは、仕入帳の頁をめくった。
「次に、販売価格です」
売上帳には、瘴気浄化草加工品として記録されている。
王都施療院。
北方貴族家。
王宮薬草局。
販売価格は高い。
仕入価格の、八倍。
「品質不安定な試験栽培品を、加工後とはいえ、八倍で販売しているのですね」
「加工には手間がかかります」
「加工記録は」
「別帳に」
「拝見します」
カイルは一瞬だけ沈黙した。
「現在、倉庫側に」
「取りに行きましょう」
クラリスは立ち上がった。
カイルが慌てる。
「いえ、お待ちいただければ」
「待つ理由がありません」
ヴィクトルが扉へ向かった。
「倉庫を開けろ」
その声に、外の従業員たちがざわめいた。
カイルは、笑みを貼り直した。
「辺境伯様、倉庫には危険な薬草もございます。ご令嬢をお連れするのは」
「危険なら、なおさら確認します」
クラリスが言う。
「危険なものを、誰が、どのように扱っているのか」
倉庫の扉が開くと、冷たい空気が流れた。
中には、薬草の強い匂い。
乾いた草、土、薬酒。
そして、かすかに焦げたような、黒い匂い。
クラリスは眉をひそめた。
ヨルが扉の外で低く唸る。
「待機です」
クラリスが振り向かずに言うと、ヨルは不満そうに鳴いた。
それでも入ってこない。
少しは学習している。
セバスが記録する。
待機指示、辛うじて遵守。
倉庫の奥には、紫色の葉を乾燥させた束が吊られていた。
その下に、木箱。
荷札には、ローゼン商会北方支店。
そして、別の札が重ねられている。
王宮薬草局向け。
クラリスは、一つの箱の前で止まった。
「この箱を開けてください」
カイルの顔がわずかに強張る。
「それは、出荷前の品で」
「開けてください」
ヴィクトルが低く言う。
「今すぐ」
従業員が箱を開けた。
中には、乾燥薬草の束。
その下に、細い瓶が並んでいる。
瓶の中には、黒紫色の液体。
魔獣医の老女が、一歩前へ出た。
今日、彼女も同行していた。
理由は、薬草の性質確認である。
老女は瓶を見て、顔をしかめた。
「瘴気を煮詰めてるね」
倉庫内が静まった。
カイルがすぐに言う。
「薬効成分の抽出液です」
「薬効成分?」
老女は鼻で笑った。
「これは浄化した液じゃない。瘴気を薄めて、安定させただけだ」
クラリスは瓶を見た。
「用途は?」
カイルは黙った。
代わりに、セバスが売上帳を確認する。
「王宮薬草局向け。名称、瘴気浄化濃縮液」
「浄化ではなく、蓄積した瘴気を濃縮した液」
クラリスは言った。
「名称に疑義があります」
セバスが即座に書く。
名称に疑義。
瘴気浄化濃縮液、実態は瘴気蓄積抽出液の可能性。
「たいへん嫌な商品名になってまいりました」
「事実確認前です」
「承知しております」
ヴィクトルはカイルを見た。
「説明を」
「我々は、薬草師の指示に従って加工しているだけです」
「薬草師の名は」
「契約上」
「名を」
ヴィクトルの声が低くなる。
カイルは、ゆっくり息を吐いた。
「王都薬草師組合所属、ダミアン・ローク」
クラリスは、その名を書き留めた。
「王宮薬草局との関係は?」
「納入先の一つでございます」
「王宮薬草局が、瘴気を蓄積した可能性のある液体を購入しているのですね」
「浄化濃縮液としてです」
「名前はそうですね」
クラリスは、箱の底を見た。
そこに、もう一枚の帳票が挟まっていた。
薄い紙。
納入予定表。
王宮薬草局。
北方貴族家。
辺境警備隊。
そして、用途欄。
魔物避け香。
クラリスは、老女を見る。
「瘴気を含んだ液を、魔物避け香に?」
老女は顔を歪めた。
「逆だよ」
「逆」
「薄い瘴気は、弱い魔物を引き寄せる。強い魔物避けにはならない。下手をすりゃ、魔物を寄せる香になる」
ヴィクトルの表情が変わった。
「辺境警備隊にも納入予定だと?」
クラリスは納入予定表を差し出した。
「はい」
「それを焚けば、警備隊の詰所に魔物が寄る可能性がある」
「可能性です」
「十分だ」
ヴィクトルは、カイルへ向き直った。
「この出荷を止める」
「辺境伯様、それは契約違反に」
「構わん」
「損害が出ます」
「領に魔物を寄せる損害より軽い」
カイルの顔から、商人の余裕が消えた。
クラリスは静かに言った。
「カイル様」
「……何でしょう」
「薬草畑から低価格で仕入れ、加工品として高額販売。領地会計には収益ほぼ未反映。水路変更で薬草の生産量を上げ、排水は森へ流れ、森狼が瘴気を帯びた。さらに加工品は魔物避けとして販売予定」
クラリスは一つずつ区切った。
「これらを、偶然と説明されますか」
カイルは黙った。
「または、独立採算の範囲ですか」
沈黙。
「もしくは、領のため、でしょうか」
カイルの眉が動いた。
図星だったのかもしれない。
便利な言葉は、使う前に顔へ出ることがある。
「我々は、辺境の新しい産業を育てようとしただけです」
カイルは言った。
「水路も、薬草も、魔物対策も、この土地のためになる。王都の者には分からない苦労がある」
「そうですね」
クラリスは頷いた。
「私は王都の者です」
カイルの表情に、わずかな勝ち気が戻る。
だが、クラリスは続けた。
「ですが、水の流れは見ました。畑も見ました。下流の農民の証言も聞きました。森狼の瘴気も確認しました。帳簿も見ています」
彼女は、カイルをまっすぐ見た。
「王都の者であることは、見たものを見なかったことにする理由にはなりません」
ヴィクトルが短く笑った。
「その通りだ」
倉庫の外で、ヨルがまた低く唸った。
今度は、扉ではない。
倉庫の奥。
積まれた空箱の陰だ。
クラリスは振り向いた。
「ヨル」
ヨルは待機している。
入ってはいない。
ただ、外から奥を見ている。
黒曜石の目が、細くなっていた。
「セバス」
「はい」
「奥の空箱を」
「確認いたします」
セバスが兵士と共に奥へ向かう。
カイルが一歩動いた。
ヴィクトルがその前に立つ。
「動くな」
空箱の陰には、小さな扉があった。
倉庫の図面にはない扉。
クラリスは、胸の奥で小さく息を吐いた。
未記載の脇水路。
未記載の扉。
隠す者は、どの場所でも似たようなことをする。
「開けてください」
カイルは答えない。
ヴィクトルが兵へ合図した。
扉が開かれる。
中は、小さな保管室だった。
棚には帳簿。
箱には封印付きの瓶。
そして、壁際に積まれた袋。
袋の紋章を見て、クラリスは目を細めた。
王妃慈善委員会の古い印。
削られていない。
王宮編で見た印だった。
「これは」
ヴィクトルが言う。
クラリスは袋を確認した。
中には、乾燥肉。
古いが、まだ保存状態は保たれている。
王宮慈善委員会冬期支援物資。
王都で行方を追っていた物資の一部。
王宮で消えた慈善物資が、北方支店の隠し部屋にある。
ローゼン商会は、王都だけで終わっていなかった。
枝が、辺境まで伸びていた。
「カイル様」
クラリスは振り向いた。
「この乾燥肉は、どちらのものですか」
カイルの顔は、もう笑っていなかった。
「古い在庫です」
「慈善委員会の印があります」
「誤って流れてきたものかと」
「誤って隠し部屋に?」
セバスが、たいへん穏やかに言った。
「迷子にしては、ずいぶん奥へ入られましたな」
クラリスは、隠し部屋の帳簿を一冊取った。
表紙には何も書かれていない。
だが、中には符丁が並んでいる。
毛布。
乾燥肉。
薬草。
濃縮液。
北方。
王都。
通常帳簿とは別の流れ。
裏帳簿。
クラリスは、一頁だけ見て閉じた。
「辺境伯様」
「何だ」
「監査から、押収へ移行すべきかと」
ヴィクトルは、すぐに頷いた。
「支店を封鎖する」
カイルが叫んだ。
「お待ちください! それは商会全体への攻撃です!」
「いいえ」
クラリスは言った。
「商会全体かどうかを確認するための手続きです」
「我々は辺境の流通を支えている!」
「支えていることと、盗むことは別です」
倉庫内が静まり返った。
クラリスは、裏帳簿を手に持つ。
王宮で、ローゼン商会長は毛布を売った。
北方支店では、水と薬草と瘴気と慈善物資が絡んでいる。
これは単なる地方不正ではない。
王宮から辺境へ、そしてまた王宮へ戻る循環だ。
悪い意味での流通。
水も、薬草も、慈善物資も。
流れるべき場所から外され、利益の流れへ変えられていた。
ヨルが、扉の外で小さく鳴いた。
今度は誇らしげではない。
少し、疲れた声だった。
クラリスは振り返る。
「ヨル」
ヨルは、前足をかばいながら座っていた。
待機指示は守っている。
ただ、ずっと奥の瘴気を嗅いでいたのだろう。
小さな体には負担だったはずだ。
クラリスは、倉庫から出てヨルの前に膝をついた。
「よく待ちました」
ヨルの耳が立つ。
「よく見つけました」
尻尾が一度だけ揺れた。
「ですが、領主館へ戻ったら薬湯です」
尻尾が止まった。
セバスが記録する。
ヨル様、功績あり。
薬湯への反応、著しく低下。
クラリスは、もう一度倉庫を見た。
「辺境伯様」
「ああ」
「次は、この裏帳簿を読みます」
「読めるか」
「読めます」
クラリスは答えた。
「ただし、少し時間がかかります」
「構わん」
「それから」
「何だ」
「ローゼン商会本店と、王宮薬草局への照会が必要です」
ヴィクトルは、低く息を吐いた。
「また王宮か」
「はい」
クラリスは、裏帳簿を胸に抱えた。
「王宮を退職したはずなのですが」
セバスが後ろで穏やかに言う。
「お嬢様、退職後も前職の不備が追ってくることはございます」
「たいへん嫌な言い方ね」
「事実でございます」
クラリスは否定しなかった。
王宮の帳簿は閉じた。
そう思っていた。
だが、閉じた帳簿の端から、まだ別の紙がはみ出していたらしい。
ならば、読むしかない。
悪女の得意分野は、断罪ではない。
監査である。




