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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第二章 悪女令嬢は、領地を再建する
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第20話 裏帳簿は、王宮へ戻る道を知っている

 帳簿には、表の顔と裏の顔がある。


 表の帳簿は、人に見せるために整えられる。


 日付。

 品目。

 数量。

 金額。

 承認印。


 それらは、きちんと並んでいる。


 並んでいるものは、人を安心させる。


 だが、安心させるために並べられたものが、真実とは限らない。


 ローゼン商会北方支店の隠し部屋で見つかった帳簿は、表紙に何も書かれていなかった。


 革表紙。

 黒い紐。

 留め金は古く、だが頻繁に開閉された跡がある。


 クラリスは、グランベル領主館の一室で、その帳簿を机の中央に置いた。


 向かいにはヴィクトル・グランベル辺境伯。


 横にはセバス。


 少し離れた場所には魔獣医の老女。


 そして、窓際の布の上にはヨルがいた。


 ヨルは前足に包帯を巻かれたまま、こちらをじっと見ている。


 安静のはずだ。


 ただし、今のところ「窓際で見ているだけ」なので、セバスの記録では違反扱いにはなっていない。


「お嬢様」


 セバスが言った。


「何かしら」


「ヨル様が、裏帳簿をたいへん強く見つめておられます」


「読めるのですか」


「少なくとも、好意的ではなさそうです」


 ヨルは、低く鼻を鳴らした。


 クラリスは帳簿へ目を落とす。


「では、好意的ではない帳簿を読みましょう」


 最初の数頁は、符丁だった。


 毛布は「白」。

 乾燥肉は「赤」。

 薬草は「緑」。

 濃縮液は「黒」。

 王宮は「塔」。

 北方支店は「森」。

 王都本店は「庭」。


 王宮慈善委員会の物資が、白や赤として記されている。


 北斜面薬草畑の瘴気浄化草は、緑。


 そこから抽出された黒紫の液は、黒。


 クラリスは、羽根ペンで別紙に対応表を作った。


「符丁ですね」


「ああ」


 ヴィクトルが腕を組む。


「読めるか」


「読めます」


「なぜ」


「王宮の婉曲表現よりは、まだ正直です」


 セバスが少しだけ微笑んだ。


「たしかに、王宮の『円滑化費』よりは分かりやすうございます」


「問題は、流れです」


 クラリスは頁をめくった。


 そこには、通常帳簿には載っていない取引が記されていた。


 白、十二。

 赤、八。

 森より庭へ。

 庭より西へ。

 差益、銀貨百四十。


 毛布十二枚。

 乾燥肉八箱。


 聖マルタ救貧院で不足していた数量と一致する。


「王宮で消えた慈善物資の一部が、北方支店を経由しています」


 クラリスは言った。


 ヴィクトルの眉が動く。


「王都から辺境へ来て、また王都へ?」


「一部は北方へ流れ、一部は王都へ戻っています。慈善物資を余剰品として売却し、さらに商流を分けていたのでしょう」


「なぜそんな面倒を」


「流れを薄めるためです」


 クラリスは言った。


「一度で売れば目立ちます。複数の倉庫、支店、市を経由すれば、元の名前が薄くなります」


 セバスが頷く。


「人も品も、道を曲げられるほど追いにくくなります」


「経験談ですか」


「昔は少々、道に詳しゅうございました」


 セバスは穏やかに答えた。


 クラリスは一瞬だけ目を細めた。


 今の言い方は、少し引っかかる。


 だが、今は裏帳簿が先である。


 セバスの過去は、あとで分類すればよい。


 次の頁には、薬草の記録があった。


 緑、二十。

 森より塔へ。

 黒、六。

 塔、試験。

 戻り、三。


 クラリスは、その文字を指で押さえた。


「王宮薬草局へ、瘴気浄化草が送られています」


「塔、というのが王宮か」


「はい」


「黒は」


「瘴気濃縮液でしょう」


 魔獣医の老女が、顔をしかめた。


「あんなものを王宮薬草局へ送ったのかい」


「試験、とあります」


「何を試したんだか」


「確認が必要です」


 クラリスは別紙へ書き出す。


 王宮薬草局。

 瘴気浄化草、受領の有無。

 濃縮液、試験内容。

 戻り三、返送または再出荷の可能性。


 ヴィクトルが言った。


「王宮に照会を出す」


「王妃陛下と会計院長宛てがよろしいかと」


「王太子殿下には?」


 クラリスは少しだけ沈黙した。


「現時点では、王妃陛下へ」


 ヴィクトルは、それ以上聞かなかった。


 聞かないことができる男は、悪くない。


 帳簿をさらに読むと、見慣れない記号が出てきた。


 日付の横に、小さな斜線と三点。


 金額欄の末尾には、王国通貨とは違う単位。


 帝国通貨。


 クラリスは、指を止めた。


「辺境伯様」


「何だ」


「この記号に見覚えはありますか」


 ヴィクトルは帳簿を覗き込む。


 しばらく見てから、顔を険しくした。


「帝国式の商取引記号だ」


 室内の空気が、わずかに冷えた。


 帝国。


 王国の東に広がる、大きな国。


 直接戦火を交えてはいない。


 だが、国境では常に緊張がある。


 商人、傭兵、薬師、鉱石商、情報屋。


 剣を抜かない者たちが、剣より先に国境を越える。


「帝国式ですか」


 クラリスは静かに言った。


「なぜ、ローゼン商会の裏帳簿に帝国式記号が」


 ヴィクトルが低く答える。


「帝国商会と取引があれば使うこともある」


「合法ですか」


「届け出があればな」


「届け出は?」


 セバスが、北方支店から押収した書類の束を確認する。


「現時点では見当たりません」


「では、未届けの帝国取引」


「可能性です」


 クラリスは頷く。


「断定は、帝国商会名と決済記録を照合してからです」


 ヨルが、窓際で低く唸った。


 まるで、断定してもよいと言いたげだった。


「ヨル」


 クラリスは言った。


「証拠能力はありません」


 ヨルは不満そうに鼻を鳴らした。


 セバスが記録する。


 ヨル様、帝国式記号へ不快反応。

 証拠能力なし。

 ただし、参考所見。


「参考所見はよろしいでしょうか」


「保留で」


「承知いたしました」


 クラリスは、帝国式記号のある頁を読み進める。


 緑、増産。

 黒、安定化。

 森、試験地。

 塔、販路。

 東、出資。


 東。


 帝国を指す符丁の可能性がある。


 出資。


 つまり、ローゼン商会北方支店は、帝国側から資金を受けていたかもしれない。


 クラリスは、ゆっくり息を吐いた。


「これは、単なる横流しではない可能性があります」


 ヴィクトルが問う。


「どういう意味だ」


「王宮の慈善物資、薬草流通、水路変更、瘴気濃縮液、魔物避け香。すべて別々の不正に見えます」


「違うのか」


「別々ではあります」


 クラリスは、頁を指で押さえた。


「ですが、結果として王国の基礎を削っています」


 慈善物資が届かなければ、救貧院や孤児院が弱る。


 水路が曲げられれば、農村が弱る。


 薬草が偽装されれば、医療と魔物対策が弱る。


 瘴気を含んだ香が広まれば、警備隊や村が危険にさらされる。


 王宮薬草局がそれを試験していたなら、中央まで汚染される。


「ローゼン商会は、利益を得ています」


 クラリスは言った。


「同時に、王国の弱い場所へ、細い傷を増やしています」


 ヴィクトルの目が冷えた。


「帝国の傀儡か」


「まだ断定できません」


「だが、疑う理由はある」


「はい」


 クラリスは帳簿を閉じた。


「十分に」


 その時、扉が叩かれた。


 兵士が入ってくる。


「辺境伯様。北方支店長カイル・ローゼンが、面会を求めております」


 ヴィクトルの表情が変わらない。


「何のために」


「取引停止を解いていただきたいと。辺境の流通が滞る、と」


 クラリスは、机の上の裏帳簿を見た。


 流通。


 また便利な言葉である。


 物が流れれば人は助かる。


 だが、何をどこへ流すかによって、人は壊れる。


「会います」


 クラリスが言った。


 ヴィクトルは彼女を見る。


「今か」


「はい」


「疲れていないか」


「疲れています」


 ヴィクトルは、少し驚いた顔をした。


 クラリスは続ける。


「ですが、疲れている時にこそ、相手が何を急いでいるか分かります」


 セバスが静かに頷いた。


「お嬢様、たいへん実務的なお疲れでございます」


「褒めていますか」


「もちろんでございます」


 カイル・ローゼンは、別室に通された。


 昨日よりも顔色が悪い。


 だが、服装は整えている。


 商人は、負ける時ほど襟を正すのかもしれない。


「辺境伯様、クラリス様」


 カイルは深く頭を下げた。


「支店封鎖は、どうかご再考を。北方の村々への薬、塩、保存食の供給が滞ります」


「供給を止めたのは、こちらではありません」


 クラリスは言った。


「不正の疑いがある流通を止めたのです」


「不正と断定されたわけでは」


「その通りです」


 クラリスは頷いた。


「ですので、あなたに確認します」


 カイルの喉が動く。


「帝国商会からの出資はありますか」


 その瞬間、カイルの顔から色が消えた。


 答えは返ってこない。


 沈黙が、最初の証言になることもある。


「帝国商会からの出資はありますか」


 クラリスはもう一度聞いた。


「……商会同士の国際取引は珍しいことではございません」


「出資はありますか」


「投資です」


「つまり、ありますね」


 カイルは唇を噛んだ。


「合法的な商取引です」


「届け出は」


「本店が」


「北方支店では確認できておりません」


「本店が管理しているはずです」


「王都本店は、現在、王妃慈善委員会物資横流しの件で調査対象です」


 カイルは黙った。


 クラリスは裏帳簿の一頁を開く。


「こちらの『東、出資』は、帝国系商会からの資金提供を意味しますか」


「……」


「こちらの『森、試験地』は、グランベル領を示しますか」


「……」


「こちらの『塔、販路』は、王宮薬草局を示しますか」


「違います」


 カイルがようやく言った。


「では、何を示しますか」


「それは」


「説明を」


 カイルは答えられなかった。


 ヴィクトルが低く言う。


「カイル・ローゼン。お前たちは、俺の領地を試験地にしたのか」


「違います! 辺境に新しい産業を」


「水を盗んでか」


「薬草が育てば、領の収益に」


「収益は領に入っていない」


「将来的には」


「将来のために、今の畑を枯らしたのか」


 カイルは、言葉を失った。


 ヴィクトルは怒鳴っていない。


 だが、怒鳴らない怒りのほうが、時に重い。


 クラリスは、静かに言った。


「カイル様」


「……はい」


「あなた方は、商人として利益を得たかったのですか。それとも、王国を弱らせたかったのですか」


 カイルの顔が歪む。


「我々は商人です。国をどうこうなど」


「では、帝国側が王国を弱らせる意図を持っていた場合、あなた方は自分の利益のために、それに加担したことになります」


「そんなことは」


「慈善物資は救貧院に届きませんでした」


 クラリスは一つずつ言った。


「水路は下流の農村へ届きませんでした」


「薬草収益は領地会計に届きませんでした」


「瘴気を含む液体は、魔物避けとして王宮と警備隊へ届く予定でした」


「届くべきものが届かず、届いてはいけないものが届こうとしていた」


 室内が、深く静まった。


「これを偶然と呼ぶには、流れが整いすぎています」


 カイルは震える息を吐いた。


「私は……本店の指示で」


「指示書は」


「口頭です」


「残念です」


 クラリスは言った。


「口頭では、あなたしか守れません」


 カイルの顔が青くなる。


 その意味を理解したのだろう。


 本店は、彼を切る。


 帝国側も、おそらく切る。


 口頭の指示は、上にとってたいへん便利だ。


 責任が下に落ちる。


 まるで、水が低い方へ流れるように。


「記録はありませんか」


 クラリスは尋ねた。


「本店からの密書、帝国商会との取り決め、支払い証明。何か」


 カイルは黙った。


 その沈黙は、先ほどとは違う。


 迷っている沈黙だった。


 クラリスは待つ。


 待つことも、監査の一部である。


 やがて、カイルは小さく言った。


「……三階の私室に、控えがあります」


 ヴィクトルが兵へ目配せする。


「誰にも触らせるな。今すぐ押収」


「はっ」


 カイルは椅子に沈み込んだ。


「私は、王国を裏切るつもりでは」


「つもりは、帳簿に載りません」


 クラリスは言った。


「載るのは、金の流れと物の流れです」


 カイルは何も言えなかった。


 しばらくして、兵が戻ってきた。


 持っていたのは、小さな鉄箱。


 中には、密書が数通。


 帝国式の封蝋。

 王国では使わない硬い紙。

 そして、帝国通貨での支払い証明。


 ヴィクトルの顔が険しくなる。


 セバスが、封蝋を見て静かに言った。


「これは、東帝国商務庁の外郭印でございますな」


 クラリスはセバスを見た。


「なぜ、ご存じなのですか」


「昔、少々、印章に詳しい仕事をしておりました」


「後で詳しく聞きます」


「お手柔らかにお願いいたします」


 セバスは穏やかに微笑んだ。


 クラリスは密書を開いた。


 そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。


 森の試験地、順調。

 塔への浸透、継続。

 黒の香、警備隊経由で拡散予定。

 水の調整、農村反発は局所的。

 庭の件は切り捨て可。


 庭。


 王都本店。


 切り捨て可。


 ローゼン商会本店すら、帝国側から見れば使い捨てだった。


 クラリスは、手紙を机に置いた。


「辺境伯様」


「ああ」


「これは、会計不正の範囲を超えます」


「外患だな」


「はい」


 言葉は重かった。


 だが、言わなければならない。


「王妃陛下、会計院長、そして国防会議へ至急報告を」


「分かった」


「ただし、情報の出し方には注意が必要です」


「なぜ」


「王宮薬草局が関わっています。どこまで浸透しているか分かりません」


 ヴィクトルの目が細くなる。


「王宮にも内通者がいる可能性か」


「はい」


 王宮を出たばかりなのに。


 また、王宮へ戻る道が見えてしまった。


 クラリスは心の中で、静かにため息をついた。


 退職とは、難しい。


 セバスが封書を用意する。


「お嬢様、暗号化なさいますか」


「通常の公爵家暗号で」


「王妃陛下宛て、会計院長宛て、アルベルティーナ公爵閣下宛てでよろしいでしょうか」


「はい」


「王太子殿下宛ては」


 クラリスは少し考えた。


「王妃陛下経由で」


「承知いたしました」


 その時、窓の外でヨルが吠えた。


 短く、鋭い声。


 今までの小さな鳴き声とは違う。


 ヴィクトルがすぐに窓へ向かう。


 遠く、北斜面の方向。


 薄い紫色の煙が上がっていた。


 薬草畑のあたりだ。


 魔獣医の老女が顔色を変える。


「瘴気だよ」


「畑は封鎖したはずです」


 クラリスが言う。


「封鎖したから、溜まったんだ」


 老女は杖を掴んだ。


「あれだけ蓄積してりゃ、逃げ場を失った瘴気が暴れる」


 外で、警鐘が鳴った。


 領主館の鐘ではない。


 村からの警鐘。


 魔物の襲来を告げる音。


 ヨルが、もう一度吠えた。


 その小さな体の影が、夕陽の中で一瞬、大きな狼の形に見えた。


 ヴィクトルは剣帯を締め直す。


「兵を集める」


 クラリスは、黒檀の杖を手に取った。


 裏帳簿は王宮へ戻る道を知っていた。


 だが、その前に。


 瘴気の畑が、領地へ魔物を呼び始めた。

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