第21話 瘴気の畑から、魔物が来る
警鐘の音には、種類がある。
火事を知らせる鐘。
山崩れを知らせる鐘。
盗賊を知らせる鐘。
そして、魔物を知らせる鐘。
グランベル領の鐘は、短く三度、長く一度鳴った。
魔物襲来。
それも、村の外縁ではない。
北斜面の薬草畑。
つい先ほど封鎖したばかりの、瘴気を蓄積していた畑の方角からだった。
クラリスは、黒檀の杖を手にした。
書類鞄はセバスへ渡す。
「裏帳簿を保全してください」
「承知いたしました」
セバスは、慌てもしない。
手早く裏帳簿、密書、帝国通貨の支払い証明を防水布で包み、革鞄へ納める。
魔物の襲来より、紙の保管を優先しているように見えるが、それは違う。
魔物は今、目の前に来る。
だが、証拠は一度失えば戻らない。
どちらも守る必要がある。
「クラリス嬢」
ヴィクトルが短く呼んだ。
「はい」
「領主館の地下保管庫を使え。書類はそこへ」
「助かります」
「セバス、行けるか」
セバスは一礼した。
「書類を守りながら、首も守る程度でしたら」
ヴィクトルが一瞬だけ眉を動かした。
今の返答で、何かを察したらしい。
だが、問い詰める時間はない。
ヴィクトルはすぐに兵へ命じた。
「第一隊、東の村道を封鎖。住民を教会裏へ誘導しろ。第二隊、水門を守れ。水門を壊されたら下流が終わる。第三隊、薬草畑の南側へ。火は使うな。瘴気にどう反応するか分からん」
兵たちが動く。
迷いが少ない。
王宮の会議室では、誰が責任者かを確認するだけで時間が溶けた。
ここでは命令が先に出る。
その速さは、少し羨ましかった。
「私は」
クラリスが言いかけると、ヴィクトルが彼女を見た。
「後方で指示を」
「お断りします」
即答だった。
ヴィクトルの目が細くなる。
「前に出る必要はない」
「前に出すぎるつもりもありません」
クラリスは黒檀の杖を持ち直す。
「ですが、薬草畑の配置、水路の流れ、瘴気の発生点を記録したのは私です。どこを止めれば被害が減るか、現場で見ます」
「危険だ」
「存じております」
「なら」
「危険だからこそ、間違った場所へ兵を置くわけにはいきません」
ヴィクトルは、ほんの一拍だけ黙った。
そして、短く息を吐く。
「俺の横から離れるな」
「指揮の邪魔はしません」
「違う」
ヴィクトルは剣を抜いた。
「守りにくい」
クラリスは返答に困った。
そういう言い方は、少しずるい。
「では、守りやすい位置を指定してください」
「俺の左後ろ三歩」
「承知しました」
セバスが、後ろで静かに言う。
「たいへん実務的な護衛距離でございます」
「セバス」
「はい」
「あなたは書類を」
「心得ております」
セバスは一礼した。
その時、窓際にいたヨルが跳ねるように立ち上がった。
前足に包帯。
薬湯後。
安静指示中。
そのすべてを無視して、ヨルは外へ走ろうとする。
「ヨル」
クラリスが呼ぶと、ヨルは一度だけ振り返った。
その目は、いつもの子犬の目ではなかった。
黒曜石の奥に、紫黒い光が揺れている。
低い唸り声。
窓の外。
瘴気の匂いを嗅いでいる。
「あなたは」
安静です、と言おうとした。
しかし、言葉が止まった。
ヨルは震えていた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
使命に近いもの。
小さな体の奥で、何か古いものが目を覚ましている。
魔獣医の老女が言った。
「行かせな」
「怪我をしています」
「それでも行くよ。黒曜餓狼は、瘴気を見つけたら止まれない」
「幼体でしょう」
「幼体だから危ない」
「なら、なおさら」
「止めたら、もっと危ない」
老女は、ヨルを見つめた。
「あの子は、喰わなきゃならないんだ。瘴気を」
クラリスはヨルと目を合わせた。
ヨルは、逃げるようには見えなかった。
むしろ、許可を待っている。
勝手に荷馬車へ潜んだ時とは違う。
今は、クラリスの言葉を待っている。
それが分かってしまったから、困る。
「ヨル」
クラリスは言った。
「単独行動は禁止します」
ヨルの耳が動く。
「私の視界内。ヴィクトル様の隊列の内側。瘴気を喰う場合は、魔獣医の確認後」
ヨルは、分かったような、分かっていないような顔をした。
セバスがすかさず記録する。
ヨル様、戦時同行条件。
一、単独行動禁止。
二、クラリス様の視界内。
三、辺境伯隊列内。
四、瘴気摂取は要管理。
「摂取という言葉はどうかしら」
「他に適切な語が見当たりません」
「……保留で」
ヨルは、短く鳴いた。
まるで、承認印の代わりのようだった。
北斜面へ向かう道は、すでに騒然としていた。
村人たちは兵に誘導され、荷車に子どもと老人を乗せている。
誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが祈っていた。
だが、兵たちは動きを止めない。
ヴィクトルの命令が行き届いている。
「畑側の避難は?」
ヴィクトルが問う。
「作業小屋周辺、全員確認済み!」
「下流三村は?」
「教会裏へ誘導中!」
「水門は?」
「第二隊が到着!」
ヴィクトルは頷いた。
「第三隊、槍を横列。弓兵は後ろへ。魔術師は水路側を固めろ。火は使うな。繰り返す、火は使うな」
クラリスは薬草畑を見た。
紫の葉が、風もないのに揺れている。
畑の中央から、黒紫の煙が立ち上っていた。
封鎖した排水路のあたりだ。
瘴気が流れる場所を失い、畑の中に溜まっている。
溜まったものは、いずれ漏れる。
それは帳簿でも水でも同じだ。
「来ます」
クラリスが言った。
地面が、低く唸った。
薬草畑の縁から、何かが這い出してくる。
一体。
二体。
三体。
森狼に似ているが、体が歪んでいた。
背中に紫の薬草の根のようなものが絡み、目は濁っている。
瘴気を吸った森狼。
それだけではない。
畑の土の中から、猪のような魔物が顔を出した。
角が黒く濡れている。
さらに、小さな影がいくつも動く。
野鼠かと思ったが、違う。
瘴気を含んだ小型魔獣。
数が多い。
「多いな」
ヴィクトルが言った。
「薬草畑全体が、巣のようになっています」
クラリスは周囲を見た。
水路。
畑。
森。
村道。
魔物は、村へ向かいやすい斜面を選んでいる。
偶然ではない。
瘴気は低い方へ流れ、魔物もその匂いを追う。
「村道側へ流れます」
クラリスが言った。
「第三隊を右へ」
ヴィクトルは即座に叫んだ。
「第三隊、右へ半円! 村道を空けるな!」
兵が動く。
魔物が走り出した。
最初に飛び込んできた森狼を、ヴィクトルが正面から受ける。
剣が一閃。
首を狙わず、前脚を斬った。
魔物の勢いが崩れる。
すぐ後ろの兵が槍で押し返す。
「殺し切るな! 倒して止めろ! 瘴気の処理は魔獣医の指示を待て!」
ヴィクトルの声が飛ぶ。
領主の声だ。
前に出ている。
だから兵がついてくる。
だが、前に出すぎない。
後ろを見ている。
クラリスは、自分の位置を確認した。
ヴィクトルの左後ろ三歩。
約束通り。
そこへ、小型魔獣が兵の足元を抜けてきた。
鼠に似た体。
だが、歯が長い。
狙いは、避難中の子どもたちの方角。
クラリスは杖を構えた。
礼法の杖ではない。
実戦の杖。
相手を倒すためではなく、道を変えるための杖。
踏み込み半歩。
杖先で地面を叩く。
魔獣の視線がこちらへ向く。
「こちらです」
クラリスは静かに言った。
魔獣が飛びかかる。
杖を縦に立て、牙を逸らす。
そのまま横へ滑らせ、魔獣の前足を払う。
体勢を崩した魔獣が水路際へ転がる。
待機していた兵が網を投げた。
「捕獲!」
「魔獣医へ!」
クラリスは息を整えた。
殺す必要はない。
すべてを殺すには数が多すぎる。
今は、村へ行かせないことが第一。
もう一体が来る。
今度は低く飛んだ。
クラリスは杖を短く持ち替え、横面ではなく顎下を上げる。
魔獣の進行方向が変わり、空中で横へ流れる。
水路の浅瀬へ落ちた。
泥が跳ねる。
「お嬢様」
後ろからセバスの声がした。
いつの間にか戻っている。
「書類は?」
「地下保管庫へ。鍵は三重。ついでに裏口を一つ塞いでおきました」
「ついでとは」
「昔の癖でございます」
セバスは銀の短杖を持っていた。
銀盆ではない。
どこから出したのかは分からない。
聞く時間もない。
彼はクラリスの背後へ回り、飛び込んできた小型魔獣の顎を、短杖の柄で正確に打った。
魔獣が気絶する。
「セバス」
「はい」
「あなた、本当に執事ですか」
「現在は」
現在は。
その言い方は、やはりおかしい。
だが、今は助かる。
非常に助かる。
ヨルが走った。
包帯の前足をかばいながら、それでも速い。
小さな黒い体が、瘴気の濃い場所へ飛び込む。
「ヨル!」
クラリスが叫ぶ。
ヨルは薬草畑の縁で立ち止まった。
口を開く。
すると、黒紫の煙が細い糸のようにヨルへ吸い込まれた。
魔物たちの動きが、一瞬鈍る。
兵がその隙に槍を入れる。
「今だ! 押し返せ!」
ヴィクトルが叫ぶ。
隊列が前へ出る。
ヨルの周囲に、黒い影が広がった。
子犬の影ではない。
巨大な狼の輪郭。
背中の毛が逆立ち、紫の光が目の奥に宿る。
黒曜餓狼。
その名が、ただの伝承でなかったことを、誰もが理解した。
村人の誰かが叫ぶ。
「守り獣だ……!」
しかし、ヨルの体は小さい。
吸い込んだ瘴気の量に耐えきれないのか、足元がふらついた。
クラリスは駆け寄ろうとした。
だが、その瞬間、畑の中央が裂けた。
土が盛り上がる。
紫の根が絡み合い、巨大な獣の形を作っていく。
狼でも猪でもない。
根と瘴気と骨の混じったような魔物。
薬草畑そのものが、魔物を吐き出している。
「下がれ!」
ヴィクトルの声。
巨大魔物が前脚を振る。
隊列の前衛が吹き飛ばされた。
「負傷者を後ろへ! 穴を埋めろ!」
ヴィクトルがすぐに指示を出す。
だが、巨大魔物の後ろから、さらに小型魔獣が湧いた。
倒しても、次が出る。
止めても、次が抜ける。
これは戦いではない。
漏水に近い。
穴を塞がなければ、いくら水を掻き出しても終わらない。
「発生点は畑中央です」
クラリスが言った。
「分かるのか」
「瘴気の流れが、そこから外へ広がっています」
「止められるか」
「原因を断てば」
「どうやって」
クラリスは畑中央を見た。
紫の薬草。
封鎖した排水。
蓄積した瘴気。
地中の根。
火は使えない。
水を流せば瘴気が森へ行く。
物理的に根を断つ必要がある。
「水路を一時的に逆流させます」
ヴィクトルが彼女を見る。
「逆流?」
「第二水門を閉じ、上流側の調整板を開けます。畑側ではなく旧本流へ水を戻す。その圧で脇水路の根を洗い出し、発生点を露出させます」
「危険は」
「下流へ濁り水が出ます。ですが、今のままよりはましです」
「やる」
ヴィクトルは即断した。
「第二隊へ伝令! 第二水門を閉じろ! 上流調整板を開ける! クラリス嬢の指示に従え!」
兵が走る。
だが、巨大魔物がその伝令へ向かって動いた。
クラリスは杖を構える。
遠い。
間に合わない。
その時、セバスが消えた。
いや、走ったのだ。
速すぎて、消えたように見えた。
セバスは伝令兵の前に入り、短杖で巨大魔物の爪を逸らした。
完全に受けたのではない。
角度を変えた。
爪が地面をえぐる。
セバスの手袋が裂ける。
だが、彼の表情は変わらない。
「走りなさい」
伝令兵が息を呑み、走る。
セバスは一歩下がった。
クラリスはその背中を見た。
ただの執事ではない。
やはり、ただの執事ではない。
「セバス!」
「少々、爪の長いお客様でございます」
「無理は」
「昔より、少し体が重くなりました」
「そういう問題ではありません」
クラリスが言い返す間もなく、巨大魔物が再び動いた。
ヴィクトルが前へ出る。
剣を振るい、魔物の注意を自分へ向ける。
「こっちだ!」
領主が囮になる。
兵たちが動揺する。
「隊列を崩すな!」
ヴィクトルの声が飛ぶ。
「俺を見るな! 前を見ろ!」
その一言で、兵が戻る。
見事だった。
前に立つ者が、見られすぎる危険も分かっている。
ヴィクトルは統率を知っている。
クラリスは杖を握り直した。
自分がやるべきことも、分かっている。
巨大魔物を倒すことではない。
発生点を止めること。
そして、道を作ること。
「ヨル」
クラリスは叫んだ。
「瘴気を全部喰わないでください。道だけ、開けられますか」
ヨルはふらつきながら、こちらを見た。
理解したのかは分からない。
だが、小さな体が一歩、前へ出る。
黒い影が、再び狼の形に広がった。
薬草畑の瘴気が、細く割れる。
まるで、霧の中に一筋の道ができたようだった。
「十分です」
クラリスは走った。
ヴィクトルの左後ろ三歩を離れる。
約束違反だ。
だが、今は道が開いている。
巨大魔物の横を抜ける。
小型魔獣が飛びかかる。
杖で逸らす。
もう一体。
足を払う。
泥が跳ねる。
紫の葉が頬をかすめる。
畑中央へ。
そこには、根が絡み合った瘴気の塊があった。
まるで黒い心臓。
脈打っている。
クラリスは杖を構えた。
黒檀の杖の先端には、公爵家の紋が刻まれている。
礼法のための紋。
だが、礼法とは距離の技術である。
踏み込みを誤らないこと。
相手を見誤らないこと。
入るべき間合いを間違えないこと。
「失礼いたします」
クラリスは、瘴気の塊へ向かって言った。
そして、杖を突き込んだ。
中心ではない。
中心を突けば、瘴気が弾ける。
狙うのは、根の結び目。
流れを束ねている箇所。
帳簿でいうなら、合計欄ではなく、参照元の数式。
杖先が根を裂く。
黒紫の煙が噴き出した。
ヨルが吠える。
影の狼が煙を噛む。
同時に、遠くで水音が変わった。
第二水門が閉じたのだ。
上流調整板が開いたのだろう。
水路の音が太くなる。
水が、本来の道へ戻り始めた。
畑の脇水路へ流れ込んでいた水が止まり、逆に溜まっていた泥水が引き剥がされるように動く。
根が露出する。
瘴気の塊が震える。
魔物たちの動きが乱れた。
「今だ!」
ヴィクトルの声が響く。
「押し返せ!」
兵たちが一斉に動く。
クラリスは杖を抜こうとした。
だが、根が絡んだ。
杖が抜けない。
「……これは」
非常によくない。
巨大魔物が、クラリスへ向きを変えた。
ヴィクトルが叫ぶ。
「クラリス!」
距離がある。
間に合わない。
セバスも、負傷者の前で小型魔獣を止めている。
ヨルは瘴気を喰いすぎて、足元がふらついている。
巨大魔物の前脚が上がる。
クラリスは杖を手放すか、一瞬迷った。
黒檀の杖を捨てれば身は避けられる。
だが、杖は根の結び目を押さえている。
今抜けば、瘴気が戻る。
ならば。
クラリスは杖を握ったまま、身を沈めた。
前脚を完全に避けるのではなく、衝撃を流す。
間に合うか。
その時だった。
空気が、急に冷えた。
夏の土と瘴気の匂いの中に、冬の硝子のような冷気が走る。
クラリスの足元に、青白い魔法陣が広がった。
巨大魔物の前脚が、空中で凍る。
根も、泥も、瘴気も。
一瞬だけ、世界が止まった。
高い声が響いた。
「氷結結界、展開」
畑の上空に、白銀の光が走る。
魔法陣が幾重にも重なり、巨大魔物の足元を封じた。
クラリスは顔を上げた。
村道の向こう。
白い外套を翻し、銀色の杖を持った少年が立っていた。
まだ幼さの残る顔。
けれど、その目には王家の色がある。
ルシアン・レーヴェン王子。
王太子レオンハルトの弟。
王宮で、クラリスを姉のように慕っていた天才少年魔術師。
ルシアンは息を切らしていた。
額に汗を浮かべ、今にも泣きそうな顔で、それでも魔法陣を維持している。
「クラリス姉様」
その声は、戦場に似合わないほど、まっすぐだった。
「もう、会えないかと思いました」
クラリスは、凍った根の中心で杖を握ったまま、少しだけ目を見開いた。
そして、いつものように答えた。
「ルシアン殿下」
「はい」
「再会の挨拶は、戦闘終了後にお願いします」
ルシアンは、一瞬だけぽかんとした。
それから、泣きそうな顔のまま笑った。
「はい、姉様」
「公務中です」
「はい、クラリス様」
ヴィクトルが巨大魔物へ剣を向ける。
「助かった、王子殿下」
ルシアンは魔法陣を強めた。
「まだです。これは、帝国式の魔力汚染です」
クラリスの手が、杖を握り直す。
「帝国式」
「はい」
ルシアンの声が、少年のものから魔術師のものへ変わった。
「この畑、ただ瘴気を溜めているだけじゃありません。魔物を呼ぶように、魔力の流れが組まれています」
風が止まった。
倒しても倒しても魔物が来る理由。
薬草が育ちすぎた理由。
瘴気がただ溜まるだけでなく、魔物を呼んでいた理由。
ルシアンは、魔法陣の向こうから言った。
「クラリス様、発生点を押さえてください」
「押さえています」
「さすがです」
「褒め言葉は後で」
「はい!」
クラリスは、凍った根を見た。
帳簿は王宮へ戻る道を知っていた。
そして瘴気の畑は、帝国へ続く魔術の道を隠していた。
悪女令嬢の領地再建は、いつの間にか戦場の中央に立っている。
それでも、やることは変わらない。
原因を確認し、流れを止め、責任の所在を明らかにする。
たとえ目の前に、魔物の群れがいても。




