幕間 天才魔術師は、姉様を探していた
ルシアン・レーヴェン王子が、クラリスの退職を知ったのは、朝食の席だった。
知らせたのは、兄のレオンハルトではない。
王妃でもない。
食卓へ新しく配置された、業務引継ぎ一覧だった。
王太子公務補助。
外交調整。
慈善委員会再編。
王宮行事管理。
非公式対応記録。
担当者欄に並んでいたクラリスの名が、すべて横線で消されていた。
その下に、新しい担当者の名が書かれている。
何人も。
一人では足りなかったのだ。
ルシアンは、しばらくその紙を見ていた。
「クラリス姉様は、どこですか」
朝食の席が静かになった。
レオンハルトが、手にしていたカップを置く。
「アルベルティーナ公爵家へ戻った」
「いつ戻るのですか」
「戻らない」
ルシアンは顔を上げた。
「戻らない?」
「王宮を辞めた」
兄の声は、以前より小さくなっていた。
断罪式の夜より。
婚約破棄を宣言したあの時より。
「兄上が、追い出したのですか」
「……そうだ」
「なぜです」
レオンハルトは答えなかった。
答えられないのかもしれない。
ルシアンは、十一歳の頃から兄の沈黙を見てきた。
兄は、言葉に詰まると黙る。
そして、誰かが続きを説明してくれるのを待つ。
以前は、クラリスが説明していた。
もう、誰も説明しない。
「兄上は、クラリス姉様がいなくなってから、何をしているのですか」
「自分の公務を覚えている」
「遅いです」
王妃が目を伏せた。
侍従たちは息を止める。
だが、レオンハルトは怒らなかった。
「そうだな」
ルシアンは、むしろその返事に腹が立った。
昔の兄なら、王族へその口の利き方は何だと言っただろう。
今の兄は、否定しない。
少しずつ変わろうとしているのかもしれない。
それでも。
クラリスがいなくなった事実は変わらない。
「兄上が姉様を傷つけたことは、許せません」
「ああ」
「謝ったのですか」
「謝った」
「姉様は」
「受け取った」
ルシアンは少し安心しかけた。
だが、兄は続けた。
「だが、関係の復旧とは別だと言われた」
「当然です」
また、静かになった。
レオンハルトは、ほんの少しだけ笑った。
自嘲のような笑いだった。
「ルシアン」
「何です」
「私も、許してほしいとは思っていない」
「なら、働いてください」
「……そうする」
ルシアンは、それ以上兄を責めなかった。
責めてもクラリスは戻らない。
そんなことは分かっている。
分かっているから、余計に苦しかった。
ルシアンにとってクラリスは、兄の婚約者ではなかった。
王太子妃候補でもない。
もっと前から。
もっと個人的な場所にいた。
初めて魔術暴走を起こしたのは、八歳の時だった。
王宮西棟の魔術練習室。
簡単な灯火術の訓練だったはずが、魔力回路が止まらなくなった。
炎は壁を舐め、床の紋様を焼き、護衛の外套へ燃え移った。
幸い、大きな怪我人はいなかった。
だが、王宮の大人たちはルシアンを囲んだ。
危険だ。
制御できない。
天才だからこそ恐ろしい。
もっと厳しく管理すべきだ。
その言葉が、炎より怖かった。
ルシアンは何も言えなかった。
自分でも、何が起きたのか分からなかった。
ただ怖かった。
また起こるかもしれない。
誰かを傷つけるかもしれない。
そんな自分を、誰も近くへ置きたくないだろうと思った。
その時、クラリスが来た。
まだ王太子妃教育の途中だった。
今より少し若く、それでも今と同じように背筋が伸びていた。
焼けた床。
割れた魔石。
濡れた外套。
それらを見たあと、クラリスはルシアンの前へ膝をついた。
「怖かったのですね」
最初にそう言った。
怒らなかった。
叱らなかった。
天才とも危険とも言わなかった。
「……怒らないのですか」
「原因を確認してからにします」
「僕が失敗しました」
「失敗したことと、原因が分からないことは別です」
クラリスは、焼け残った紙を拾った。
「覚えている範囲で構いません。魔法陣を描き始めた時から、順番に教えてください」
「叱らないのですか」
「必要なら後で」
「怖くないのですか」
クラリスは、少し考えた。
「怖いです」
その答えに、ルシアンは驚いた。
大人たちは、怖くないふりをする。
王族は恐れを見せてはいけないと言う。
クラリスは違った。
「ですが、怖いからこそ記録します」
彼女は新しい紙を机に置いた。
魔力投入量。
魔石の反応。
詠唱の順番。
暴走直前の感覚。
ひとつずつ聞いた。
ルシアンが言葉に詰まると、待った。
泣いても、続きを急かさなかった。
最後にクラリスは言った。
「失敗は、記録すれば次の手順になります」
その言葉を、ルシアンはずっと覚えていた。
次の訓練では、クラリスが見学席にいた。
魔術師でもないのに。
魔力のことは分からないと言いながら。
それでも、記録係としてそこにいた。
暴走は起きなかった。
終わったあと、クラリスは手帳に書いた。
「成功、と」
ルシアンは、その一言が嬉しかった。
兄の婚約者だから慕ったのではない。
初めて自分を、危険物ではなく一人の子どもとして扱った人だった。
だから、姉様と呼んだ。
最初は、人のいないところだけだった。
「私はあなたの姉ではありません」
「でも、兄上と結婚したら姉になります」
「まだ結婚しておりません」
「予約です」
「人間関係は予約できません」
それでも、クラリスは強く止めなかった。
公務中は控えてください、と言っただけだった。
それがルシアンには、許可のように聞こえた。
その人が、いなくなった。
王宮を出た。
もう会えないかもしれない。
ルシアンは、そのことを誰にも言えなかった。
天才魔術師は、泣かない。
王子は、取り乱さない。
そう言われて育った。
だから研究室へこもった。
魔法陣を読み、帝国式術式の資料を開き、夜になるまで机に向かった。
見つかったのは、王宮薬草局へ納入された瘴気濃縮液の記録だった。
通常の浄化術式ではない。
魔力の流れが逆だ。
浄化するのではなく、集める。
しかも、集めた瘴気を一定方向へ漏らすための導線がある。
魔物を誘導する術式。
「これは……」
ルシアンは資料を何度も見返した。
帝国の公開術式ではない。
だが、記号の癖は帝国式だった。
その夜、王妃に呼ばれた。
執務室には、会計院長とレオンハルトもいた。
机の上には、グランベル領から届いた密書。
差出人はヴィクトル・グランベル辺境伯。
添付された調査記録の名を見た瞬間、ルシアンの胸が大きく鳴った。
クラリス・フォン・アルベルティーナ。
「姉様が、グランベル領に」
「ルシアン」
王妃は静かに言った。
「この報告にある術式を確認してほしいのです」
ルシアンは紙を読んだ。
瘴気浄化草。
濃縮液。
魔物避け香。
帝国式取引記号。
北斜面薬草畑。
魔力汚染の疑い。
最後まで読む前に分かった。
「魔物を呼びます」
王妃の顔が変わる。
「断定できますか」
「現物を見れば」
「行けますか」
王妃の問いに、ルシアンはすぐ答えた。
「行きます」
「これは調査任務です」
「分かっています」
「クラリスに会うためだけではありません」
ルシアンは、少しだけ黙った。
「それもあります」
王妃は目を閉じた。
叱られると思った。
だが、王妃は小さく息を吐いただけだった。
「正直でよろしい」
レオンハルトが言った。
「私も行く」
「兄上は駄目です」
ルシアンは即座に答えた。
「なぜだ」
「今、兄上が王宮を離れたら、公務が止まります」
レオンハルトは言葉を失った。
以前なら、クラリスが埋めていた。
今は誰も埋めない。
「それに」
ルシアンは続けた。
「姉様は、兄上に会いたいとは限りません」
レオンハルトの顔がわずかに歪んだ。
ルシアンも言い過ぎたと思った。
だが、訂正はしなかった。
事実だからだ。
「分かった」
レオンハルトは言った。
「行ってくれ」
「はい」
「クラリスに」
兄は一度、言葉を止めた。
「いや、何も伝えなくていい」
ルシアンは兄を見た。
何か言いたいことはあるのだろう。
謝罪か。
未練か。
仕事を始めた報告か。
だが、それを弟へ預けなかった。
その点だけは、少し大人になったのかもしれない。
ルシアンは、その日のうちに王宮を出た。
護衛二名。
宮廷魔術師一名。
王妃の密命書。
魔術解析用の銀杖。
正規の移動なら、グランベル領まで三日。
だが、二日目の夕刻。
ルシアンは、遠くに歪んだ魔力を感じた。
馬車の窓を開ける。
空の端が、薄く紫に染まっている。
帝国式の魔力導線。
しかも、乱れている。
「止めてください」
御者が馬車を止める。
護衛が駆け寄った。
「殿下、どうされました」
「発動しています」
「何が」
「魔物誘導術式です」
ルシアンは杖を握った。
場所は、グランベル領の方角。
クラリスがいる。
胸の奥が冷たくなる。
姉様は、危険な時ほど前へ出る。
自分は戦えないと言いながら。
必要だからと。
記録する者が必要だからと。
誰かが止める前に、自分でどうにかしてしまう。
「急ぎます」
「殿下、ここから先は転移補助を使っても距離が」
「重ねます」
「危険です」
「分かっています」
「魔力回路への負担が」
「記録してください」
護衛が言葉を失う。
ルシアンは、自分で少し笑った。
クラリスの言葉を借りた。
失敗は、記録すれば次の手順になる。
だが、失敗するつもりはない。
「殿下」
「間に合わなければ、記録する意味もありません」
銀杖を地面へ突く。
一つ目の魔法陣。
風。
二つ目。
距離短縮。
三つ目。
氷結属性による回路固定。
本来、重ねるべきではない。
それでも、ルシアンは術式を組んだ。
護衛が叫ぶ。
「ルシアン殿下!」
空気が裂ける。
景色が白く流れる。
魔力が腕を焼く。
呼吸が浅くなる。
それでも杖を離さなかった。
もう会えないかもしれないと思っていた。
王宮を出たと聞いた日から。
断罪式のあと、兄との縁が切れたなら、自分との縁も切れるのだと思った。
姉ではないと言われた。
家族でもない。
それでも。
ルシアンにとっては、姉だった。
初めて怖かったと言ってくれた人。
失敗を罪ではなく記録に変えてくれた人。
だから。
「間に合って」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
神か。
魔術か。
クラリスか。
白銀の光の向こうに、紫黒い瘴気が見えた。
魔物の群れ。
兵。
黒い狼の影。
黒檀の杖を握る、銀紫の髪。
巨大魔物の前脚が上がる。
クラリスは逃げない。
杖を手放さない。
やはり。
やはり、姉様はそうする。
誰かが来る前に。
自分で全部、支えようとする。
ルシアンは銀杖を振り上げた。
「氷結結界、展開」
魔法陣が大地へ広がる。
巨大魔物の脚が凍る。
根も、泥も、瘴気も止まる。
クラリスが顔を上げた。
その顔を見た瞬間。
王子でも。
天才魔術師でも。
調査官でもなくなった。
ただ、会いたかった少年に戻った。
「クラリス姉様」
声が震えた。
「もう、会えないかと思いました」
クラリスは少し目を見開いた。
それから、いつもと同じ顔で答えた。
「ルシアン殿下。再会の挨拶は、戦闘終了後にお願いします」
変わっていなかった。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「はい、姉様」
「公務中です」
「はい、クラリス様」
ルシアンは笑った。
今度こそ、間に合った。
ならば次は。
一緒に、この術式を止める。




