幕間 王宮の廊下は、少しだけ静かになった
王宮の廊下は、よく喋る。
もちろん、石の壁が口を開くわけではない。
絨毯が噂を運ぶわけでもない。
喋るのは、そこを歩く人間だ。
侍女。
下働き。
文官。
近衛兵。
給仕係。
洗濯場の女たち。
王宮に住む偉い人たちは、自分たちが王宮を動かしていると思っている。
だが実際には、王宮を動かしているのは、朝早くから湯を沸かし、花瓶の水を替え、皿を下げ、帳簿を綴じ、床に落ちた花びらを拾う者たちだった。
そして彼らは、全部とは言わないまでも、かなりのものを見ている。
王太子殿下が大広間で婚約破棄を宣言した翌朝から、王宮の廊下は騒がしかった。
「請求書を出したらしいわよ」
「王太子殿下に?」
「そう。しかも十年分ですって」
「十年分って、家賃でもそんなに溜めないわ」
「しっ。聞こえるわよ」
最初は、笑い混じりだった。
氷の悪女が、断罪式で請求書を出した。
王太子殿下が固まった。
聖女候補様が泣きそびれた。
老執事が銀のワゴンで資料を運んできた。
その話は、厨房では鍋より早く煮え、洗濯場では白布より早く広がった。
けれど、三日ほど経つと、廊下の声は少し変わった。
「クラリス様って、本当に悪女なのかしら」
誰かが、ぽつりと言った。
それは、王宮北棟の裏廊下だった。
言ったのは、掃除係のミラである。
彼女は第六資料室の床を磨きながら、手を止めた。
隣で花瓶を運んでいた若い侍女が、慌てて周囲を見る。
「ちょっと、そんなこと言って大丈夫?」
「だって」
ミラは小さな声で続けた。
「私、昨日話したの。クラリス様の前で。花がたくさん捨てられていたって」
「ああ、聞き取りの」
「うん。怒られると思った。余計なことを言うなって」
「言われなかったの?」
「言われなかった」
ミラは、少しだけ不思議そうに言った。
「大事なことを言いました、って」
若い侍女は黙った。
大事なこと。
王宮では、下働きの声がそう呼ばれることは少ない。
大事なのは、王族の言葉。
貴族の署名。
大臣の決裁。
商会の納品書。
床を磨く者の見たものは、たいてい「気のせい」か「噂話」として片づけられる。
けれど、クラリスは違った。
床に落ちていたものを、拾った者の声として記録した。
「悪女って、ああいう人のことなのかな」
ミラが言った。
若い侍女は少し考えた。
「分からない。でも、悪女なら、もう少し楽な悪いことをしそう」
「楽な悪いこと?」
「人を泣かせるとか、誰かのドレスを破るとか」
「クラリス様、帳簿ばっかり読んでる」
「悪女というより、会計院の人みたいよね」
二人は、少しだけ笑った。
その笑いは、誰かを馬鹿にするためのものではなかった。
怖かったものが、少しだけ別の形に見え始めた時の笑いだった。
同じ頃。
王宮会計院の小部屋では、ユリウス監査官が机に突っ伏していた。
目の前には、慈善基金の複写。
ローゼン商会の納品記録。
侍女たちの聞き取り書。
厨房の余剰食材転用記録。
そして、クラリス・フォン・アルベルティーナが過去に提出していた改善案の写し。
山である。
紙の山。
山というより、紙でできた小さな山脈だった。
「終わらない……」
ユリウスは、誰にともなく呟いた。
会計院長が、隣の机で茶をすすっている。
「若いのに情けない」
「院長。この量は若さでどうにかなるものではありません」
「どうにかするのが会計院だ」
「それはそうですが」
ユリウスは一枚の書類を手に取った。
そこには、三年前の日付で、クラリスの署名がある。
王宮慈善事業における支出承認簡略化および事後報告制度案。
内容は明快だった。
少額支出は現場判断。
一定額を超える支出は責任者記名。
緊急支援の場合は仮払い可。
ただし後日、現場受領記録を添付。
厳しいだけではない。
現場が動けるようにしている。
それでいて、あとから確認できるようにもしている。
ユリウスは、思わずため息をついた。
「これ、採用されていたら、だいぶ違いましたよね」
「そうだな」
会計院長は短く答えた。
「なぜ採用されなかったんでしょう」
「煙たかったのだろう」
「誰に」
「煙の出どころを調べるのが、今のお前の仕事だ」
ユリウスは黙った。
会計院長は茶碗を置いた。
「ユリウス」
「はい」
「クラリス嬢は、正しいことを言っている。だが、正しいことを言う者が守られるとは限らない」
ユリウスは顔を上げた。
「分かっています」
「本当に分かっているか?」
「……たぶん、今分かり始めています」
会計院長は、少しだけ笑った。
「なら、よろしい」
ユリウスは、机の上の書類を見た。
記録。
これまで彼は、記録とは過去を残すものだと思っていた。
だが、クラリスの記録は少し違う。
過去を残すだけではない。
過去に押し潰されそうな人間の背中を、未来側から支えている。
侍女の休憩。
厨房の見習い。
孤児院のパン。
届かなかった毛布。
そこに名前をつけ、数字をつけ、消えないようにしている。
「悪女、か」
ユリウスは小さく呟いた。
会計院長が片眉を上げる。
「何か言ったか」
「いえ」
「惚れるなよ」
「違います!」
ユリウスは椅子ごと跳ねた。
会計院長は、今度こそ少し笑った。
その頃、聖女候補リリア・メルクールは、自室で一冊の資料を読んでいた。
窓辺には花が飾られている。
以前なら、彼女はその花を見て、きれいだと思っただろう。
今も、きれいだとは思う。
けれど、その花を誰が運んだのか。
誰が水を替えたのか。
いくらかかったのか。
どこから来たのか。
そういうことまで、少しだけ考えるようになってしまった。
考えると、疲れる。
でも、考えない方がもっと怖い。
リリアは、資料の一行を指でなぞった。
北方救貧院。
毛布百二十枚。
受領記録八十枚。
四十枚。
数字は小さいようで、大きい。
毛布一枚に、何人がくるまれるのだろう。
子どもなら二人。
小さな子なら三人かもしれない。
では四十枚なら。
リリアは、そこで数えるのをやめた。
胸が苦しくなった。
泣きそうになった。
でも、泣く前に、資料をもう一度見た。
クラリス様は言った。
泣いても構わない。
ただし、泣いたあとに書類を読んでください。
ひどい言葉だと思った。
でも、不思議と逃げ道のある言葉でもあった。
泣くな、とは言われなかった。
泣いたまま終わるな、と言われた。
リリアは、机の上の小さな紙に名前を書き始めた。
エマ。
ミラ。
ベティ。
ユリウス。
セバス。
それから、少し迷って、こう書いた。
クラリス様。
リリアは、その名前をじっと見た。
自分は、彼女を怖い人だと思っていた。
冷たい人だと思っていた。
殿下を縛る人だと思っていた。
でも、もしかしたら違う。
クラリス様は、人を縛っていたのではない。
ほどけないように、結び目を作っていたのかもしれない。
リリアには、まだ分からない。
分からないけれど、分からないまま嫌うことは、もうしたくなかった。
扉が叩かれた。
「リリア。私だ」
レオンハルトの声だった。
リリアは、反射的に立ち上がりかけた。
けれど、途中で止まった。
机の上には資料が広がっている。
読みかけの頁。
書きかけの名前。
以前なら、慌てて隠したかもしれない。
殿下に心配をかけたくないから。
殿下に難しい顔をされたくないから。
でも今日は、隠さなかった。
「どうぞ」
扉が開き、レオンハルトが入ってくる。
彼はリリアの机を見て、眉をひそめた。
「また、そのようなものを読んでいるのか」
「はい」
「君が読む必要はない」
以前なら、その言葉に安心した。
守られている気がした。
でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
読む必要はない。
それは、見なくていいという意味でもある。
考えなくていいという意味でもある。
リリアは、資料に手を置いた。
「読みたいんです」
「なぜ」
「知らないまま、笑いたくないから」
レオンハルトは、困ったような顔をした。
そんな顔をさせたいわけではなかった。
でも、リリアはもう言葉を飲み込まなかった。
「殿下。私、クラリス様のこと、ちゃんと知りませんでした」
「リリア」
「それなのに、怖い人だと思いました。冷たい人だと思いました。殿下も、そう言ってくださったから」
「私は君を守ろうとしただけだ」
「はい」
リリアは頷いた。
「でも、守られると、見えなくなるものもあるんですね」
レオンハルトは、何も言わなかった。
リリアは、初めて思った。
殿下は、王子様みたいに美しい。
けれど、美しい人がいつも正しいとは限らない。
それは、自分自身にも言えることだった。
窓辺の花が、微かに揺れた。
一方その頃、クラリスは自室で手紙を書いていた。
宛先は、アルベルティーナ公爵。
父である。
内容は短い。
王太子殿下との婚約破棄に伴う精算手続きについて。
公爵家立替金管理帳簿の提出依頼。
過去十年間の王宮関連支出記録。
慈善基金への一時補填分。
外交調整費。
夜会準備費。
その他、王家負担とすべき未精算費用。
最後に、クラリスは一行を書き添えた。
お父様。
ここからは、公爵家の名をお借りします。
書いてから、少し考えた。
借りる、という言葉は正確ではない。
自分は、アルベルティーナ公爵家の娘だ。
王太子の婚約者である前に。
悪女と呼ばれる前に。
父の娘だった。
クラリスは、新しい紙に書き直した。
お父様。
ここからは、公爵家の名で参ります。
それでよかった。
しばらくして、セバスが静かに入ってきた。
「お嬢様。馬車の準備が整いました」
「ありがとう」
「公爵閣下へは、早馬も出してございます」
「早いわね」
「旦那様は、お待ちかねかと」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
父は、怒っているだろう。
たぶん、とても。
それでも今まで表に出てこなかったのは、クラリスが自分で処理すると言ったからだ。
父は怖い人だ。
だが、娘の案件を奪う人ではない。
「セバス」
「はい」
「お父様は、何と言うかしら」
「おそらく」
セバスは、少し考えるふりをした。
「我が娘を悪女と呼ぶなら、この国はよほど善人が足りんらしい、と」
クラリスは思わず笑った。
「言いそうね」
「はい。たいへん言いそうでございます」
窓の外では、夕暮れが王宮の屋根を赤く染めていた。
廊下は、少しだけ静かになっている。
噂が消えたわけではない。
むしろ増えた。
だが、その質が変わり始めていた。
氷の悪女。
冷たい令嬢。
王太子を縛った女。
その言葉の隣に、少しずつ別の言葉が置かれ始めている。
侍女を休ませた人。
厨房の見習いを救った人。
届かなかった毛布を数えた人。
泣いた子に、書類を読ませた人。
まだ小さい。
すぐに消えるかもしれない。
それでも、言葉は置かれた。
王宮の廊下は、よく喋る。
ならばいつか、噂ではなく記録も歩くだろう。
クラリスは封をした手紙をセバスへ渡した。
「公爵家へ」
「かしこまりました」
セバスは深く礼をした。
扉が閉まる。
クラリスは机の上に残った帳簿を見た。
次に開くのは、公爵家の帳簿。
王宮より古く、王家より融通が利かず、父より嘘を嫌う帳簿である。
クラリスは羽根ペンを置き、静かに呟いた。
「次は、家の数字ね」
夕暮れの光が、窓から差し込む。
悪女の影は、少し長く伸びていた。
けれどその影の先には、もう一つの家紋があった。
アルベルティーナ公爵家。
王宮が花で隠したものを、帳簿で照らす家である。




