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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第一章 断罪式のあとで、王宮を精算する
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8/25

幕間 王宮の廊下は、少しだけ静かになった

 王宮の廊下は、よく喋る。


 もちろん、石の壁が口を開くわけではない。

 絨毯が噂を運ぶわけでもない。


 喋るのは、そこを歩く人間だ。


 侍女。

 下働き。

 文官。

 近衛兵。

 給仕係。

 洗濯場の女たち。


 王宮に住む偉い人たちは、自分たちが王宮を動かしていると思っている。


 だが実際には、王宮を動かしているのは、朝早くから湯を沸かし、花瓶の水を替え、皿を下げ、帳簿を綴じ、床に落ちた花びらを拾う者たちだった。


 そして彼らは、全部とは言わないまでも、かなりのものを見ている。


 王太子殿下が大広間で婚約破棄を宣言した翌朝から、王宮の廊下は騒がしかった。


「請求書を出したらしいわよ」


「王太子殿下に?」


「そう。しかも十年分ですって」


「十年分って、家賃でもそんなに溜めないわ」


「しっ。聞こえるわよ」


 最初は、笑い混じりだった。


 氷の悪女が、断罪式で請求書を出した。

 王太子殿下が固まった。

 聖女候補様が泣きそびれた。

 老執事が銀のワゴンで資料を運んできた。


 その話は、厨房では鍋より早く煮え、洗濯場では白布より早く広がった。


 けれど、三日ほど経つと、廊下の声は少し変わった。


「クラリス様って、本当に悪女なのかしら」


 誰かが、ぽつりと言った。


 それは、王宮北棟の裏廊下だった。


 言ったのは、掃除係のミラである。


 彼女は第六資料室の床を磨きながら、手を止めた。


 隣で花瓶を運んでいた若い侍女が、慌てて周囲を見る。


「ちょっと、そんなこと言って大丈夫?」


「だって」


 ミラは小さな声で続けた。


「私、昨日話したの。クラリス様の前で。花がたくさん捨てられていたって」


「ああ、聞き取りの」


「うん。怒られると思った。余計なことを言うなって」


「言われなかったの?」


「言われなかった」


 ミラは、少しだけ不思議そうに言った。


「大事なことを言いました、って」


 若い侍女は黙った。


 大事なこと。


 王宮では、下働きの声がそう呼ばれることは少ない。


 大事なのは、王族の言葉。

 貴族の署名。

 大臣の決裁。

 商会の納品書。


 床を磨く者の見たものは、たいてい「気のせい」か「噂話」として片づけられる。


 けれど、クラリスは違った。


 床に落ちていたものを、拾った者の声として記録した。


「悪女って、ああいう人のことなのかな」


 ミラが言った。


 若い侍女は少し考えた。


「分からない。でも、悪女なら、もう少し楽な悪いことをしそう」


「楽な悪いこと?」


「人を泣かせるとか、誰かのドレスを破るとか」


「クラリス様、帳簿ばっかり読んでる」


「悪女というより、会計院の人みたいよね」


 二人は、少しだけ笑った。


 その笑いは、誰かを馬鹿にするためのものではなかった。


 怖かったものが、少しだけ別の形に見え始めた時の笑いだった。


 同じ頃。


 王宮会計院の小部屋では、ユリウス監査官が机に突っ伏していた。


 目の前には、慈善基金の複写。

 ローゼン商会の納品記録。

 侍女たちの聞き取り書。

 厨房の余剰食材転用記録。


 そして、クラリス・フォン・アルベルティーナが過去に提出していた改善案の写し。


 山である。


 紙の山。


 山というより、紙でできた小さな山脈だった。


「終わらない……」


 ユリウスは、誰にともなく呟いた。


 会計院長が、隣の机で茶をすすっている。


「若いのに情けない」


「院長。この量は若さでどうにかなるものではありません」


「どうにかするのが会計院だ」


「それはそうですが」


 ユリウスは一枚の書類を手に取った。


 そこには、三年前の日付で、クラリスの署名がある。


 王宮慈善事業における支出承認簡略化および事後報告制度案。


 内容は明快だった。


 少額支出は現場判断。

 一定額を超える支出は責任者記名。

 緊急支援の場合は仮払い可。

 ただし後日、現場受領記録を添付。


 厳しいだけではない。


 現場が動けるようにしている。


 それでいて、あとから確認できるようにもしている。


 ユリウスは、思わずため息をついた。


「これ、採用されていたら、だいぶ違いましたよね」


「そうだな」


 会計院長は短く答えた。


「なぜ採用されなかったんでしょう」


「煙たかったのだろう」


「誰に」


「煙の出どころを調べるのが、今のお前の仕事だ」


 ユリウスは黙った。


 会計院長は茶碗を置いた。


「ユリウス」


「はい」


「クラリス嬢は、正しいことを言っている。だが、正しいことを言う者が守られるとは限らない」


 ユリウスは顔を上げた。


「分かっています」


「本当に分かっているか?」


「……たぶん、今分かり始めています」


 会計院長は、少しだけ笑った。


「なら、よろしい」


 ユリウスは、机の上の書類を見た。


 記録。


 これまで彼は、記録とは過去を残すものだと思っていた。


 だが、クラリスの記録は少し違う。


 過去を残すだけではない。


 過去に押し潰されそうな人間の背中を、未来側から支えている。


 侍女の休憩。

 厨房の見習い。

 孤児院のパン。

 届かなかった毛布。


 そこに名前をつけ、数字をつけ、消えないようにしている。


「悪女、か」


 ユリウスは小さく呟いた。


 会計院長が片眉を上げる。


「何か言ったか」


「いえ」


「惚れるなよ」


「違います!」


 ユリウスは椅子ごと跳ねた。


 会計院長は、今度こそ少し笑った。


 その頃、聖女候補リリア・メルクールは、自室で一冊の資料を読んでいた。


 窓辺には花が飾られている。


 以前なら、彼女はその花を見て、きれいだと思っただろう。


 今も、きれいだとは思う。


 けれど、その花を誰が運んだのか。

 誰が水を替えたのか。

 いくらかかったのか。

 どこから来たのか。


 そういうことまで、少しだけ考えるようになってしまった。


 考えると、疲れる。


 でも、考えない方がもっと怖い。


 リリアは、資料の一行を指でなぞった。


 北方救貧院。

 毛布百二十枚。

 受領記録八十枚。


 四十枚。


 数字は小さいようで、大きい。


 毛布一枚に、何人がくるまれるのだろう。


 子どもなら二人。

 小さな子なら三人かもしれない。


 では四十枚なら。


 リリアは、そこで数えるのをやめた。


 胸が苦しくなった。


 泣きそうになった。


 でも、泣く前に、資料をもう一度見た。


 クラリス様は言った。


 泣いても構わない。

 ただし、泣いたあとに書類を読んでください。


 ひどい言葉だと思った。


 でも、不思議と逃げ道のある言葉でもあった。


 泣くな、とは言われなかった。


 泣いたまま終わるな、と言われた。


 リリアは、机の上の小さな紙に名前を書き始めた。


 エマ。

 ミラ。

 ベティ。

 ユリウス。

 セバス。


 それから、少し迷って、こう書いた。


 クラリス様。


 リリアは、その名前をじっと見た。


 自分は、彼女を怖い人だと思っていた。


 冷たい人だと思っていた。


 殿下を縛る人だと思っていた。


 でも、もしかしたら違う。


 クラリス様は、人を縛っていたのではない。


 ほどけないように、結び目を作っていたのかもしれない。


 リリアには、まだ分からない。


 分からないけれど、分からないまま嫌うことは、もうしたくなかった。


 扉が叩かれた。


「リリア。私だ」


 レオンハルトの声だった。


 リリアは、反射的に立ち上がりかけた。


 けれど、途中で止まった。


 机の上には資料が広がっている。


 読みかけの頁。

 書きかけの名前。


 以前なら、慌てて隠したかもしれない。


 殿下に心配をかけたくないから。

 殿下に難しい顔をされたくないから。


 でも今日は、隠さなかった。


「どうぞ」


 扉が開き、レオンハルトが入ってくる。


 彼はリリアの机を見て、眉をひそめた。


「また、そのようなものを読んでいるのか」


「はい」


「君が読む必要はない」


 以前なら、その言葉に安心した。


 守られている気がした。


 でも今日は、少しだけ違って聞こえた。


 読む必要はない。


 それは、見なくていいという意味でもある。


 考えなくていいという意味でもある。


 リリアは、資料に手を置いた。


「読みたいんです」


「なぜ」


「知らないまま、笑いたくないから」


 レオンハルトは、困ったような顔をした。


 そんな顔をさせたいわけではなかった。


 でも、リリアはもう言葉を飲み込まなかった。


「殿下。私、クラリス様のこと、ちゃんと知りませんでした」


「リリア」


「それなのに、怖い人だと思いました。冷たい人だと思いました。殿下も、そう言ってくださったから」


「私は君を守ろうとしただけだ」


「はい」


 リリアは頷いた。


「でも、守られると、見えなくなるものもあるんですね」


 レオンハルトは、何も言わなかった。


 リリアは、初めて思った。


 殿下は、王子様みたいに美しい。


 けれど、美しい人がいつも正しいとは限らない。


 それは、自分自身にも言えることだった。


 窓辺の花が、微かに揺れた。


 一方その頃、クラリスは自室で手紙を書いていた。


 宛先は、アルベルティーナ公爵。


 父である。


 内容は短い。


 王太子殿下との婚約破棄に伴う精算手続きについて。

 公爵家立替金管理帳簿の提出依頼。

 過去十年間の王宮関連支出記録。

 慈善基金への一時補填分。

 外交調整費。

 夜会準備費。

 その他、王家負担とすべき未精算費用。


 最後に、クラリスは一行を書き添えた。


 お父様。

 ここからは、公爵家の名をお借りします。


 書いてから、少し考えた。


 借りる、という言葉は正確ではない。


 自分は、アルベルティーナ公爵家の娘だ。


 王太子の婚約者である前に。


 悪女と呼ばれる前に。


 父の娘だった。


 クラリスは、新しい紙に書き直した。


 お父様。

 ここからは、公爵家の名で参ります。


 それでよかった。


 しばらくして、セバスが静かに入ってきた。


「お嬢様。馬車の準備が整いました」


「ありがとう」


「公爵閣下へは、早馬も出してございます」


「早いわね」


「旦那様は、お待ちかねかと」


 クラリスは、少しだけ目を伏せた。


 父は、怒っているだろう。


 たぶん、とても。


 それでも今まで表に出てこなかったのは、クラリスが自分で処理すると言ったからだ。


 父は怖い人だ。


 だが、娘の案件を奪う人ではない。


「セバス」


「はい」


「お父様は、何と言うかしら」


「おそらく」


 セバスは、少し考えるふりをした。


「我が娘を悪女と呼ぶなら、この国はよほど善人が足りんらしい、と」


 クラリスは思わず笑った。


「言いそうね」


「はい。たいへん言いそうでございます」


 窓の外では、夕暮れが王宮の屋根を赤く染めていた。


 廊下は、少しだけ静かになっている。


 噂が消えたわけではない。


 むしろ増えた。


 だが、その質が変わり始めていた。


 氷の悪女。


 冷たい令嬢。


 王太子を縛った女。


 その言葉の隣に、少しずつ別の言葉が置かれ始めている。


 侍女を休ませた人。

 厨房の見習いを救った人。

 届かなかった毛布を数えた人。

 泣いた子に、書類を読ませた人。


 まだ小さい。


 すぐに消えるかもしれない。


 それでも、言葉は置かれた。


 王宮の廊下は、よく喋る。


 ならばいつか、噂ではなく記録も歩くだろう。


 クラリスは封をした手紙をセバスへ渡した。


「公爵家へ」


「かしこまりました」


 セバスは深く礼をした。


 扉が閉まる。


 クラリスは机の上に残った帳簿を見た。


 次に開くのは、公爵家の帳簿。


 王宮より古く、王家より融通が利かず、父より嘘を嫌う帳簿である。


 クラリスは羽根ペンを置き、静かに呟いた。


「次は、家の数字ね」


 夕暮れの光が、窓から差し込む。


 悪女の影は、少し長く伸びていた。


 けれどその影の先には、もう一つの家紋があった。


 アルベルティーナ公爵家。


 王宮が花で隠したものを、帳簿で照らす家である。

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