第6話 侍女たちは、全部見ていました
王宮で一番よく歩く者は、王ではない。
王太子でもない。
王妃でもない。
ましてや、華やかな貴族たちでもない。
侍女である。
朝、誰よりも早く廊下を渡り、夜、誰よりも遅く燭台の火を落とす。
茶を運び、花瓶の水を替え、落ちた手袋を拾い、皺になった卓布を伸ばす。
彼女たちは、王宮の床に落ちたものを知っている。
涙。
嘘。
言い訳。
割れたグラス。
捨てられた手紙。
そして、誰かがこっそり踏みつけた責任。
だから、侍女たちは知っている。
ただし、知っていることと、話せることは違う。
その日、王宮北棟の資料室には、いつもより椅子が多く並べられていた。
長机の上には、王宮侍女および下働きへの聞き取り記録。
奥には会計院長と監査官ユリウス。
王妃エレノア、王太子レオンハルト、聖女候補リリアもいる。
そして、クラリス・フォン・アルベルティーナ。
彼女は今日、いつもの深紅ではなく、墨色に近い紫のドレスを着ていた。
セバス曰く、
「証言を聞く日ですので、インクが飛んでも目立ちません」
とのことだった。
王宮に長く仕える老執事は、時々、やけに実務的な詩人になる。
「本日の確認は、王宮侍女および下働きの聞き取りです」
クラリスは資料を開いた。
「目的は三つ。王宮内での悪評の流通経路。慈善基金関連業務の実態。そして、リリア様滞在以降に発生した追加業務の確認です」
レオンハルトが不満げに口を開く。
「侍女たちの噂話まで、正式な確認に使うつもりか」
「いいえ」
クラリスは答えた。
「噂話は使いません。見たこと、聞いたこと、運んだもの、記録した時刻のみ確認します」
「同じようなものだろう」
「違います」
クラリスは静かに言った。
「『クラリス様は冷たい』は噂です。『クラリス様が二十二時三十分に侍女の勤務表修正を命じた』は記録です」
会計院長が頷いた。
「事実と感想を分ける。基本だ」
レオンハルトは黙った。
王妃エレノアは、いつものように優雅に座っている。
だが今日は、少しだけ顔色が硬い。
慈善基金の件で、第一書記マルティナ・ヴェルシュが会計院の調査対象となった。
ローゼン商会にも正式照会が出されている。
王妃の名で行われてきた慈善が、誰かの商売道具になっていた可能性は、もはや噂ではなかった。
美しい花瓶の下に、ひびが見え始めている。
「では、第一証人を」
会計院長が言った。
扉が開く。
入ってきたのは、三十代半ばの侍女だった。
濃紺の侍女服。
髪はきっちりとまとめられ、背筋はよく伸びている。
だが、指先は少し震えていた。
「名を」
ユリウスが尋ねる。
「エマ・ローレンでございます」
リリアが、小さく顔を上げた。
第4話で名前が出た侍女。
クラリスが「休憩時間まで監視する冷酷な令嬢だ」とリリアに伝えた人物である。
エマは一瞬だけリリアを見た。
それから、すぐに視線を落とした。
「エマ・ローレン」
クラリスは資料を見た。
「あなたは過去に、私について『休憩時間まで口を出す方だから気をつけて』とリリア様へ話しましたか」
エマの顔がこわばった。
「……申し上げました」
「理由は」
「その……当時、侍女部屋で、そのように言われておりましたので」
「最初に言ったのは誰ですか」
エマは黙った。
沈黙は、部屋の中で一番重い物になることがある。
クラリスは急かさなかった。
証言は、無理に引っ張ると形が歪む。
少し待つ。
すると、エマは小さく息を吸った。
「叔母です」
「侍女長ですね」
「はい」
「なぜ侍女長は、そう言ったのでしょう」
エマの指が、さらに震えた。
「休憩記録の件で……クラリス様が、侍女長に報告書を求められたからです」
「実際、休憩は取れていましたか」
「いいえ」
即答だった。
その速さに、レオンハルトが顔を上げた。
エマは続けた。
「特に夜会前は、昼食も立ったまま済ませる者が多くいました。けれど勤務表には、休憩済みと記されていました」
会計院長がユリウスへ目配せする。
ユリウスは記録を取る。
「クラリス様が修正を求められてから、何が変わりましたか」
エマは唇を噛んだ。
「人員が増えました。夜会準備の前日には、交代制で休憩が取れるようになりました」
「侍女たちは困りましたか」
「いいえ」
エマは、ゆっくり首を横に振った。
「助かりました」
部屋が静かになった。
「では、なぜ悪評として広めたのですか」
クラリスの声は、怒っていなかった。
だから、エマは余計に苦しそうだった。
「叔母に言われました。クラリス様が余計なことをしたせいで、侍女部屋の管理に口を出されるようになったと。若い侍女たちが甘えるようになったと。だから、あの方は厳しい方だと、近づきすぎないように言っておけと」
「あなた自身は、どう思っていましたか」
エマは、そこで初めてクラリスを見た。
目が赤い。
「本当は……助かっていました」
その声は小さかった。
「でも、叔母には逆らえませんでした」
「そうですか」
クラリスは、ただ頷いた。
責めてもよかった。
あなたの一言で、リリア様の中に私への恐怖が植えつけられました。
あなたの一言が、王太子殿下の怒りの材料になりました。
あなたの一言は、私の悪評の一部になりました。
そう言うこともできた。
だが、クラリスは言わなかった。
エマもまた、王宮の空気に押されていた一人だからだ。
押された者が、さらに弱い方へ押す。
王宮では、よくある。
だからこそ、止めなければならない。
「エマ」
クラリスは言った。
「今後は、見たことと聞いたことを分けて話してください」
「はい……」
「そして、誰かの休憩が消えている時は、勤務表ではなく本人を見てください」
エマは深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
クラリスは少しだけ目を伏せた。
「謝罪は受け取ります」
リリアが、資料を抱えたままエマを見ていた。
「エマさん」
「はい」
「私、あなたの言葉を、そのまま信じました」
エマの肩が震えた。
「申し訳ございません」
「でも、私も確認しませんでした」
リリアは小さく言った。
「これからは、聞いた話をすぐ人の形にしないようにします」
クラリスはリリアを見た。
よい言葉だった。
少し不器用で、まだ頼りない。
でも、前に進んでいる。
レオンハルトだけが、その変化を面白くなさそうに見ていた。
「次の証人を」
会計院長が言った。
エマが退室し、次に入ってきたのは、まだ十代後半の下働きの少女だった。
小柄で、頬にそばかすがある。
両手を前で握りしめている。
「名を」
「ミラでございます。姓はございません」
資料室の空気が少し変わった。
姓がない。
王宮では珍しくない。
下働きの中には孤児院出身の者も多い。
ミラは、掃除係だった。
廊下、階段、応接室、資料室。
王宮の低い場所を、一番よく見ている者である。
クラリスは、資料を確認した。
「ミラ。あなたは三年前から王宮北棟の清掃を担当していますね」
「はい」
「慈善委員会応接室にも入っていましたか」
「はい。朝と夕方に」
「そこで、何を見ましたか」
ミラは、王妃をちらりと見た。
王妃は何も言わない。
ミラは、震える声で答えた。
「花が、たくさん捨てられていました」
レオンハルトが眉をひそめる。
「花?」
「はい。まだ枯れていない花です。毎日、替えるようにと言われていました」
王妃の表情は動かない。
クラリスは尋ねる。
「誰に」
「マルティナ様です」
その名が出ると、部屋の空気が重くなる。
慈善委員会第一書記。
ローゼン商会と繋がっていた可能性のある人物。
「捨てられていた花は、どのようなものでしたか」
「白百合と、薔薇と、薄桃色の花です。香りが強くて、掃除をしていると少し頭が痛くなりました」
リリアが、前回と同じように小さく呟いた。
「夜会と同じ花……」
クラリスは頷いた。
「記録します」
ユリウスが書き取る。
ミラは続けた。
「あと……」
「大丈夫です。見たことだけで構いません」
「はい。花の箱に、ローゼン花苑の印がありました」
会計院長の目が鋭くなる。
「毎日か」
「はい。ほとんど毎日です。でも、委員会のない日も届いていました」
「委員会のない日にも」
ユリウスが復唱する。
「はい。マルティナ様が、王妃陛下のお部屋にも飾るからと言っていました」
王妃の扇が、ぴたりと止まった。
「私の部屋に?」
ミラは真っ青になる。
「す、すみません。私は、そう聞いて……」
王妃は静かに言った。
「私の私室に、毎日その花は届いていません」
資料室の空気が凍った。
クラリスは、静かに紙を一枚出した。
「慈善基金から支出された装花費の中に、『王妃陛下ご私室用装花』という項目が複数あります」
「私は承認していません」
王妃の声は、これまでで一番低かった。
会計院長がユリウスを見る。
「承認印の照合を」
「はい」
ユリウスの顔も厳しい。
王妃の名が、勝手に使われている可能性がある。
それは、慈善の不正だけでは済まない。
王家の権威を使った偽装だ。
ミラは震えていた。
「わ、私、変なことを言いましたか」
「いいえ」
クラリスは答えた。
「大事なことを言いました」
ミラの目が揺れた。
「私、掃除しかできません」
「掃除をする人は、誰よりも落ちているものを見ます」
クラリスは言った。
「王宮には、落ちているものを拾う人が必要です」
ミラの目に、じわりと涙が浮かんだ。
でも、彼女は泣かなかった。
泣かずに、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ミラが退室すると、レオンハルトが苛立ったように言った。
「下働きの証言だけで、母上の承認印まで疑うのか」
「殿下」
会計院長が、ゆっくり口を開いた。
「監査とは、そういうものです」
「何?」
「大きな不正は、立派な部屋ではなく、廊下の端に落ちていることが多い」
会計院長は、レオンハルトをまっすぐ見た。
「床を拭く者の目を軽んじる王宮は、いずれ足元から腐ります」
レオンハルトは黙った。
王妃も黙っている。
ただ、その沈黙は先ほどとは違った。
王妃の怒りが、静かに深くなっている。
「次の証人を」
クラリスは言った。
三人目に入ってきたのは、王宮厨房の給仕係だった。
丸顔で、少し気の強そうな女性。
名はベティ。
彼女は入ってくるなり、クラリスに向かって深く礼をした。
「クラリス様。以前は、ありがとうございました」
レオンハルトが眉をひそめた。
「何の話だ」
クラリスも少し驚いた。
「ベティ。今は証言を」
「はい。でも、その前に言わせてください」
ベティは、まっすぐクラリスを見た。
「三年前、厨房の見習いが熱を出した時、クラリス様が勤務表を止めてくださいました」
クラリスは、記憶を探る。
三年前。
夏の夜会前。
厨房見習いの少年が高熱を出し、それでも出勤させられようとしていた件だ。
「ああ。ありましたね」
「はい。厨房長は、人手が足りないから少し休ませれば大丈夫だと言いました。でもクラリス様が、食品を扱う者に無理をさせれば全員に危険が及ぶと、医師を呼んでくださった」
クラリスは頷いた。
「衛生上、当然の判断です」
「当然ではありませんでした」
ベティの声が、少し震えた。
「私たちの中では、具合が悪くても立つのが当たり前でした」
資料室が静まる。
「その後、厨房では体調不良時の報告表ができました。最初は面倒だと言う者もいました。でも、倒れる者が減りました」
ベティは深く頭を下げた。
「あの見習いは、今も厨房で働いています。今はパン係の副責任者です」
クラリスは、言葉に詰まった。
こういう時、何と言えばいいか分からない。
数字なら扱える。
契約なら読める。
請求書なら切れる。
けれど、感謝は少し困る。
領収書より、保管場所が難しい。
「それは、よかったです」
ようやく言った。
セバスが後ろで、たいへん満足そうに頷いている。
ベティは本題へ入った。
「慈善晩餐会の件ですが、厨房にもおかしなことがありました」
「何でしょう」
「寄付者向けの晩餐では、高価な食材が多く使われます。それ自体は分かります。貴族を呼ぶには、それなりの料理が必要ですから」
「はい」
「ですが、余った料理の扱いが妙でした」
会計院長の目が光る。
「続けて」
「普通、余った料理は使用可能なものを下働きの食事に回すか、救貧院に運びます。けれど慈善委員会の晩餐会では、マルティナ様の指示で、箱詰めにして外へ運ぶことがありました」
「どこへ」
「ローゼン商会の馬車でした」
資料室の空気が、もう一度凍る。
ローゼン。
またその名だ。
「料理の量は」
「大きな箱で、六つほど。高級菓子、乾燥肉、香辛料を使った料理、保存のきくものが多かったです」
「記録はありますか」
ベティは、少し得意げに小さな帳面を取り出した。
「厨房の廃棄・転用記録です」
ユリウスが身を乗り出した。
「見せてください」
ベティは帳面を渡す。
そこには、日付、品目、数量、行き先が細かく記されていた。
字は少し丸い。
でも、丁寧だった。
会計院長が目を通す。
「これは助かる」
ベティは、少し誇らしげに胸を張った。
「クラリス様が、余り物にも行き先を書けとおっしゃったので」
また、部屋の空気が変わった。
レオンハルトが、クラリスを見る。
「君は……そんなことまで口を出していたのか」
「はい」
「なぜ」
「食材は、放っておくと消えます」
クラリスは答えた。
「消えるものほど、記録が必要です」
ベティが頷く。
「最初は厨房長も嫌がっていました。クラリス様は残り物まで監視するのかと。でも記録を始めてから、妙な持ち出しが減ったんです」
「妙な持ち出し」
「はい。誰かの親戚に流れたり、勝手に売られたり」
会計院長が、深くため息をつく。
「王宮というのは、穴だらけだな」
セバスが静かに言った。
「広い建物でございますので」
誰も笑わなかった。
笑えなかった。
王妃エレノアは、ベティの帳面をじっと見ていた。
「あなたは、なぜこの記録を残し続けたのです」
ベティは、少し戸惑いながら答えた。
「クラリス様が、言ったからです」
「何と」
「厨房の残り物は、誰かの明日の朝食になるかもしれない。だから捨てるにも、渡すにも、行き先を書きなさいと」
王妃は黙った。
リリアは、その言葉を聞いて、また目を伏せた。
砂糖菓子。
黒パン。
干し果物。
彼女の中で、少しずつ繋がっているのだろう。
クラリスは思った。
人は、すぐには変わらない。
でも、見なかったものを一度見てしまえば、前と同じには戻れない。
それは苦しい。
けれど、たぶん良い苦しさだ。
「ベティ。記録を提出できますか」
ユリウスが尋ねる。
「もちろんです。写しも作ってあります」
「写しも?」
「クラリス様が、記録は一箇所に置くと燃えたら終わりだと」
会計院長が、今度こそ笑った。
「クラリス嬢。君は厨房にも監査官を育てていたのか」
「育てたつもりはございません」
「結果として育っている」
クラリスは少し困った。
ベティは満足げに退室した。
その背中は、入ってきた時より少し大きく見えた。
証言とは、人を小さくするものばかりではない。
自分が見てきたものに意味があったと分かると、人は少し背筋が伸びる。
「本日の証言は、ここまでです」
クラリスは言った。
レオンハルトが驚いたように顔を上げる。
「まだいるのだろう」
「はい」
「なぜ続けない」
「一度に聞けば、証言が雑になります」
クラリスは資料を閉じた。
「それに、王妃陛下にも確認すべき書類が増えました」
王妃エレノアは、静かに頷いた。
「私室装花費の承認印。余剰料理の持ち出し。ローゼン商会系列との取引。すべて確認します」
その声には、冷たい芯があった。
レオンハルトは困惑している。
母がクラリスに乗せられているように見えるのだろう。
だが、違う。
王妃は乗せられているのではない。
自分の馬車の車輪が泥にはまっていたことに気づいただけだ。
そして気づいた以上、彼女はきっと降りる。
泥を見て、誰が押したのか確認する。
そういう人だ。
「クラリス」
王妃が言った。
「はい」
「侍女たちは、本当に全部見ているのですね」
「全部ではございません」
クラリスは答えた。
「ですが、王宮が見られたくないものほど、侍女たちの仕事場に落ちています」
王妃は、しばらく黙った。
それから、小さく言った。
「覚えておきます」
会議が終わり、王妃と王太子が退室する。
レオンハルトはリリアを促したが、リリアはすぐには立たなかった。
「リリア?」
「先に行ってください」
「なぜ」
「クラリス様に、聞きたいことがあります」
レオンハルトの顔が曇る。
だが王妃が短く言った。
「行きますよ、レオンハルト」
王太子は不満そうにしながらも、母に従った。
資料室には、クラリス、リリア、セバスだけが残る。
ユリウスと会計院長も、書類保全のために退室していた。
リリアは、しばらく資料を抱えたまま立っていた。
「クラリス様」
「はい」
「私は、侍女たちのことを、ちゃんと見ていませんでした」
クラリスは何も言わなかった。
「いつも、茶を出してくれる人。ドレスを整えてくれる人。部屋を掃除してくれる人。そういうふうにしか、見ていませんでした」
「多くの貴族がそうです」
「クラリス様も?」
その問いは、意外だった。
クラリスは少し考えた。
「私も、最初はそうでした」
リリアの目が揺れる。
「最初は?」
「王太子妃教育の一環で、王宮の運営を学びました。そこで初めて、花瓶の花が勝手に替わるのではないと知りました」
「花瓶の花」
「はい。誰かが水を替え、茎を切り、枯れた花を抜きます」
クラリスは窓の外を見た。
「王宮は、美しいものほど、人の手を隠します」
リリアは、その言葉を静かに聞いていた。
「私も、見たいです」
「何を」
「隠れている手を」
クラリスは、リリアを見た。
泣きそうな顔ではなかった。
怖がっている。
でも、見ようとしている。
「では、まず名前を覚えてください」
「名前」
「はい。茶を運ぶ方にも、床を磨く方にも、厨房でパンを焼く方にも、名前があります」
リリアは頷いた。
「はい」
「それから、お願いをする時は、誰の時間を借りるのか考えてください」
「はい」
「そして、泣く時は」
クラリスは少しだけ間を置いた。
「泣いても構いません。ただし、泣いたあとに書類を読んでください」
リリアは、きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「難しいです」
「ええ」
「でも、やってみます」
「結構です」
クラリスは頷いた。
リリアは深く頭を下げ、資料室を出ていった。
その背中は、まだ細い。
けれど、以前のように王太子の影に隠れてはいなかった。
セバスが静かに近づく。
「お嬢様」
「何かしら」
「聖女候補様、少し変わられましたな」
「そうね」
「育てておいでで?」
「違います」
クラリスは即答した。
「私は婚約破棄された悪女です。聖女候補を育てる義務はありません」
「では」
「見捨てるほど、暇でもありません」
セバスは、たいへん満足そうに微笑んだ。
「お嬢様らしいことで」
クラリスは資料をまとめた。
侍女たちの証言は、まだ半分も終わっていない。
廊下係。
衣装係。
馬車係。
洗濯場の女たち。
書庫番。
夜警。
王宮には、まだ声がある。
長く、低く、誰にも聞かれなかった声が。
それらを拾うのは、華やかな仕事ではない。
誰も拍手しない。
物語にもなりにくい。
悪女らしい勝利とも少し違う。
それでも、必要だった。
王宮は、美しい。
だからこそ、床に落ちたものを見なければならない。
侍女たちは、全部見ていた。
そして今日、少しだけ話した。
ならば次は、聞いた者が記録する番だ。
クラリスは羽根ペンを取り、次の頁に日付を書いた。
証言は、花より長く残る。
少なくとも、残す者がいれば。




