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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第一章 断罪式のあとで、王宮を精算する
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6/23

第5話 慈善基金の帳簿は、花の香りがしました

 王宮には、花の部屋がある。


 正式名称は、王妃陛下主催慈善委員会応接室。


 しかし、そこで働く下級文官や侍女たちは、ひそかにそう呼んでいた。


 花の部屋。


 窓辺には季節の花。

 丸い卓上には香りの強い薔薇。

 壁際の花瓶には、遠方領から取り寄せた白百合。


 どこを見ても美しい。


 だから、息苦しい。


 花は、ひとつなら人を和ませる。


 けれど多すぎる花は、時々、匂いで何かをごまかす。


 その日、クラリスは花の部屋ではなく、王宮北棟の資料室にいた。


 窓は小さい。

 壁は石造り。

 椅子は硬い。

 花瓶はない。


 セバスの手配である。


「花瓶の少ない部屋を、というご要望でしたので」


 老執事は、いつも通り涼しい顔で言った。


「少ないというより、ひとつもないわね」


「割れる心配がございません」


「割れる前提なのね」


「王宮でございますので」


 クラリスは小さく息を吐いた。


 机の上には、王宮慈善基金の過去五年分の支出明細が積まれている。


 王国各地の孤児院、救貧院、施療院、未亡人支援、退役兵家族への援助。

 項目だけを見れば、立派なものだった。


 その表紙は、どれも美しい。


 王妃エレノアの署名。

 慈善委員会の封蝋。

 王家の紋章。


 だが帳簿は、表紙ではなく中身を見るものだ。


「お嬢様」


 セバスが一冊を差し出した。


「こちら、香りが強うございます」


「帳簿に?」


「はい。薔薇水の香りです」


 クラリスは受け取り、そっと頁を開いた。


 たしかに、ふわりと甘い匂いがした。


 普通、帳簿に香りは要らない。


 金額。

 日付。

 支出先。

 承認印。


 それらに薔薇の香りをつける必要はない。


 必要がないものが加えられている時は、たいてい必要なものが欠けている。


「始めましょう」


 クラリスは言った。


 資料室の扉が開いた。


 最初に入ってきたのは会計院長。

 その後ろに、若手監査官ユリウス。

 さらに王妃エレノア、王太子レオンハルト、聖女候補リリアが続いた。


 リリアは、前回渡された資料の写しを抱えている。


 目元は赤くない。


 泣いていない。


 その代わり、少し眠そうだった。


 おそらく読んだのだろう。


 読めば、疲れる。


 泣くより、読む方がずっと疲れる。


 けれど読むことは、自分の足で立つことに似ている。


「クラリス」


 王妃エレノアが部屋を見回し、眉をひそめた。


「このような部屋で行うのですか」


「はい」


「慈善委員会の応接室を使えばよろしいでしょう。あちらの方が整っています」


「花が多すぎますので」


 王妃の扇が止まった。


「花?」


「はい。帳簿確認には、香りの少ない部屋が向いております」


 会計院長が、杖の先で床を一度叩いた。


「よろしい。始めよう」


 王妃は何か言いたげだったが、席についた。


 レオンハルトは不機嫌そうに腕を組む。


 リリアは、資料を胸元に抱えたまま、クラリスの斜め向かいに座った。


 以前の彼女なら、王太子の隣にぴたりと寄り添っていたはずだ。


 今日は少しだけ距離がある。


 小さな距離だ。


 けれど、人が変わる時は、まず椅子一脚分くらいから始まる。


「本日の確認事項は、王妃陛下主催慈善基金の過去五年分の支出明細、および承認経路です」


 クラリスは一冊目の帳簿を開いた。


「まず、こちらをご覧ください」


 ユリウスが複写を各席に配る。


「三年前、冬。北方救貧院への防寒支援費。毛布百二十枚、薪二百束、乾燥肉三十箱。支出額は金貨百八十枚」


「何か問題があるのですか」


 王妃が静かに尋ねた。


「問題は、支援内容ではございません」


 クラリスは頁を指で押さえた。


「問題は、納入業者です」


 会計院長が複写を覗く。


「ローゼン商会」


「はい」


「王妃陛下の慈善委員会で、よく見る名前だな」


 王妃は微笑んだ。


「信頼できる商会です。王宮の基準に耐えうる品を、迅速に納めてくれます」


「はい。迅速です」


 クラリスは頷く。


「ただし、相場より三割ほど高い」


 空気が止まった。


 レオンハルトがすぐに言う。


「王宮に納める品だ。高品質なのだろう」


「そうですね」


 クラリスは、別紙を出した。


「こちらは、同じ年に西方騎士団が購入した毛布の単価です。こちらは、南部施療院が購入した薪の単価。こちらは、アルベルティーナ公爵領で同等品を調達した際の単価」


 ユリウスが淡々と配る。


 レオンハルトは受け取った紙を見て、眉をひそめた。


 数字は、飾らない。


 飾らないので、言い訳がしにくい。


「ローゼン商会は、すべてにおいて三割から四割高い」


 会計院長が言った。


「王宮価格でございます」


 王妃の声は揺れなかった。


「王宮に納入する品には、品質保証、運搬安全、緊急対応が含まれます」


「それ自体は理解いたします」


 クラリスは答えた。


「ですが、北方救貧院へ届いた毛布の品質記録がございません」


「記録漏れでしょう」


「はい」


 クラリスは次の紙を出した。


「さらに、救貧院側の受領記録では、毛布は百二十枚ではなく、八十枚です」


 王妃の表情が、ほんの少し変わった。


 リリアが資料から顔を上げる。


「四十枚、足りない……?」


「はい」


「でも、支払いは百二十枚分」


「そうです」


 リリアは、自分の手元の紙を見つめた。


 前回までなら、ここで「そんなのひどい」と泣いたかもしれない。


 でも今日は泣かなかった。


 数字を見ていた。


 クラリスは、少しだけそれを確認してから続ける。


「同様の差異が、北方救貧院だけでなく、東街区孤児院、港町施療院、退役兵寮にもございます」


 ユリウスが追加資料を配った。


 会計院長の目が、だんだん険しくなる。


「合計は」


「概算で、金貨三百二十枚」


 資料室が沈黙した。


 金貨三百二十枚。


 それは、王宮の夜会一回分から見れば小さいかもしれない。


 だが救貧院では、冬を越せる人数が変わる。


 孤児院では、パンの厚さが変わる。


 施療院では、薬瓶の数が変わる。


 つまり、生きる人間の数が変わる。


「そんな……」


 リリアが小さく言った。


「誰かが、抜いたということですか」


「まだ断定はいたしません」


 クラリスは答えた。


「ただ、帳簿上の数と、現場に届いた数が合っていません」


 レオンハルトが苛立ったように言う。


「現場側の記録が間違っている可能性もあるだろう」


「ございます」


「ならば――」


「ですので、現場側の署名者を確認しました」


 クラリスは、もう一枚の紙を置いた。


「四つの施設すべてで、受領記録には施設長、倉庫係、立会人の三名が署名しております。日付も一致。さらに、港町施療院については、納入当日の天候記録と馬車通行記録も残っています」


 レオンハルトは黙った。


 会計院長がユリウスを見る。


「監査官」


「はい。確認済みです。現場側の記録は、信頼性が高いと判断します」


 王妃エレノアは、表情を崩さない。


 ただ、扇を持つ指にわずかな力が入っていた。


「ローゼン商会に確認を」


「すでに書面を送っております」


 クラリスは言った。


 王妃の目が、クラリスへ向く。


「いつ」


「昨日の夕刻です」


「私に断りなく?」


「会計院長名義で」


 王妃が会計院長を見る。


 会計院長は涼しい顔で答えた。


「慈善基金に疑義が出た以上、会計院として照会は当然です」


 王妃は黙った。


 その沈黙に、レオンハルトが焦ったように口を挟む。


「母上が、そのようなことを知っているはずがない」


「もちろんです」


 クラリスは、あっさり頷いた。


 レオンハルトは拍子抜けした顔をした。


「王妃陛下が直接数量を抜いたとは、私も考えておりません」


「なら、なぜ母上を疑う」


「責任者だからです」


 部屋の空気が固まった。


 クラリスの声は、静かだった。


「知らなかったことと、責任がないことは別でございます」


 王妃エレノアの目が、わずかに細くなる。


 その言葉は、王妃だけに向けたものではなかった。


 リリアにも。

 レオンハルトにも。

 そして、かつてのクラリス自身にも。


 知らなかった。


 そんなつもりではなかった。


 任せていた。


 王宮では、そういう言葉がよく使われる。


 そのたびに、どこかの下働きが走る。

 どこかの文官が徹夜する。

 どこかの子どものパンが薄くなる。


 責任とは、気づいた時だけ発生するものではない。


 立場についてきてしまうものだ。


 少し重い荷物のように。


「クラリス様」


 リリアが、恐る恐る手を挙げた。


 クラリスは、彼女を見る。


「どうぞ」


「この、ローゼン商会というところは……誰が選んだのですか」


 会計院長が、ほう、と小さく息を漏らした。


 いい質問だった。


 クラリスは、資料の次頁を開く。


「選定理由は、『長年の実績と王妃陛下からの信頼』と記録されています」


「それを書いたのは?」


 リリアの声は、小さいが、逃げていなかった。


「慈善委員会第一書記、マルティナ・ヴェルシュ」


 王妃の扇が止まった。


 前回、悪評の流通経路にも出てきた名。


 リリアもそれに気づいたらしい。


「前の……」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「私が『慈善事業を嫌っている』という悪評を流した初期発言者でもあります」


 レオンハルトが顔をしかめる。


「偶然だろう」


「偶然かどうかは、確認いたします」


 クラリスは、もう一冊の帳簿を開く。


「次に、慈善晩餐会の装花費です」


 王妃の眉が、ほんのわずかに動いた。


 花。


 そこに来たか、という顔だった。


「二年前、春。王宮慈善晩餐会。目的は、南部洪水被害への寄付金募集。参加者百二十名。寄付総額は金貨八百枚」


「立派な成果です」


 王妃が言った。


「はい」


 クラリスは頷いた。


「しかし、晩餐会準備費が金貨四百九十枚」


 リリアが目を見開いた。


「半分以上、使っている……?」


「はい」


「寄付を集めるために?」


「そうです」


 レオンハルトが言う。


「貴族たちから寄付を集めるには、それなりの格式が必要だ。粗末な会では金は集まらない」


「ごもっともです」


 クラリスは答えた。


「ただし、装花費だけで金貨百六十枚です」


 会計院長が、深く息を吐いた。


「高いな」


「花は、王妃陛下が大切にされている演出です」


 レオンハルトはなおも食い下がる。


「慈善の心を引き出すには、美しい場が必要だ」


「では、こちらをご覧ください」


 クラリスは、薄い紙を一枚出した。


 花の納品書。


 そこには、美しい文字でこう書かれている。


 白百合、百本。

 薔薇、二百本。

 季節外れの薄桃花、八十本。

 銀葉飾り、五十束。


 リリアが、それをじっと見ていた。


「これ……」


「何かお気づきですか」


「第1話の夜会にも、同じ花がありました」


 レオンハルトがリリアを見る。


 リリアは、少し自信がなさそうに続けた。


「白百合と、薔薇と、季節外れの薄桃色の花。私、あの日きれいだなって思って……」


 クラリスは、わずかに目を細めた。


 よく見ている。


 リリアは、泣くだけではなく、見る力もある。


 ただ、それを今まで自分の不安にだけ使っていた。


「その通りです」


 クラリスは言った。


「王宮夜会および慈善晩餐会の装花は、同じ業者が担当しています」


「どこですか」


 リリアが尋ねる。


「ローゼン商会の系列花房、ローゼン花苑」


 会計院長が、杖を握り直した。


「ローゼン、か」


「はい」


 クラリスは続ける。


「さらに、慈善委員会第一書記マルティナ・ヴェルシュの妹が、ローゼン商会会計係の妻です」


 資料室に、重い沈黙が落ちた。


 今度は、誰もすぐに偶然とは言わなかった。


 王妃エレノアだけが、まだ美しく座っている。


 だが、その美しさの奥で、何かがひび割れ始めていた。


「クラリス」


 王妃が言った。


「あなたは、私の慈善が私腹を肥やすために使われたと?」


「まだ断定いたしません」


「その言い方は、断定しているのと同じです」


「いいえ」


 クラリスは、まっすぐ王妃を見る。


「私は、王妃陛下の慈善が、誰かに利用された可能性があると申し上げています」


 王妃の表情が、初めて明確に変わった。


 怒りではない。


 驚きでもない。


 屈辱。


 それに近かった。


「利用」


「はい」


「この私が?」


「はい」


 クラリスの返事は、遠慮がなかった。


「美しい慈善ほど、利用価値が高いのです」


 王妃は黙った。


 レオンハルトが立ち上がりかける。


「母上を侮辱するな!」


「座りなさい、レオンハルト」


 王妃の声が飛んだ。


 短い声だった。


 しかし、これまでで一番鋭かった。


 王太子は、驚いて座り直した。


 王妃は、クラリスだけを見ている。


「続けなさい」


「よろしいのですか」


「途中で止めれば、私が怯えたように見えます」


「承知しました」


 クラリスは、次の資料を開いた。


「ローゼン商会および系列業者への支出は、過去五年で慈善基金支出全体の四十二パーセントを占めます」


 会計院長が目を閉じた。


「偏っているな」


「はい」


「入札は」


「形式上は三社見積もりがございます。ただし、競合二社は提出日が同じ、筆跡が似ている、さらに封蝋の質が同一です」


 ユリウスが補足する。


「会計院で照合しました。架空見積もりの疑いがあります」


 レオンハルトの顔が青くなる。


 リリアは、資料を握りしめている。


「では……その分のお金は、本当はもっと困っている人に届くはずだったんですか」


 その声は震えていた。


 けれど、泣いていない。


「はい」


 クラリスは答えた。


「可能性が高いです」


 リリアは唇を噛んだ。


「私、前に……慈善礼拝で、子どもたちに砂糖菓子を配って、みんな笑ってくれて……嬉しかったんです」


「はい」


「でも、その前に、パンが減っていたかもしれない」


「そうです」


 リリアは目を伏せた。


「笑顔だけ見て、足りなかったものを見ていませんでした」


 クラリスは、少しだけ黙った。


 この少女は、思ったより早く変わっている。


 痛みに耐える力があるのかもしれない。


 今まで誰も、彼女に痛いものを見せなかっただけで。


「リリア様」


「はい」


「笑顔を見ることも、大切です」


 リリアが顔を上げる。


「ただ、笑顔の後ろにある空腹も見る。それができれば、あなたの善意は今よりずっと遠くまで届きます」


 リリアの目に涙が浮かんだ。


 けれど、こぼれなかった。


「はい」


 彼女は小さく頷いた。


 レオンハルトは、そのやりとりを理解できない顔で見ていた。


 彼にとってリリアは、守るべき可憐な少女だった。


 だが、可憐な少女が資料を読み、金額を追い、責任を考え始めている。


 それは、彼の物語にない展開なのだろう。


 王妃エレノアが、静かに口を開いた。


「マルティナを呼びなさい」


 部屋が止まった。


 クラリスは、王妃を見た。


「よろしいのですか」


「慈善委員会第一書記として、説明責任があります」


 その声は、いつもの王妃の声だった。


 優雅で、冷静で、逃げ場がない。


 ただ、わずかに別のものが混じっていた。


 怒り。


 自分が責められた怒りではない。


 自分の名で行われた慈善が、誰かの商売道具になっていた可能性への怒り。


 クラリスは思った。


 この人は、やはりただの敵ではない。


 怖い人だ。


 そして、怖い人が本気で怒ると、頼もしい時がある。


「ユリウス監査官」


 会計院長が言う。


「第一書記マルティナ・ヴェルシュを呼べ」


「はい」


 ユリウスはすぐに退出した。


 資料室に沈黙が落ちる。


 その間、誰も花の話をしなかった。


 やがて、廊下から慌ただしい足音が近づいてくる。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、四十前後の女性だった。


 深灰色の書記服。

 きっちり結われた髪。

 細い眼鏡。

 いかにも有能そうな顔。


 マルティナ・ヴェルシュ。


 彼女は部屋に入るなり、王妃へ深く礼をした。


「王妃陛下、お呼びと伺い――」


 言葉が途中で止まる。


 机の上の帳簿。

 会計院長。

 クラリス。

 ローゼン商会の納品書。


 状況を理解するのに、長い時間は要らなかった。


 有能な人間ほど、まずい時の顔色も早く変わる。


「マルティナ」


 王妃が言った。


「慈善基金の業者選定について、確認します」


「はい……」


「ローゼン商会を推したのは、あなたですか」


 マルティナは、一瞬だけ間を置いた。


「委員会として、最も信頼できる業者を選定いたしました」


 答えが、きれいすぎる。


 クラリスは、そう思った。


 きれいすぎる答えは、たいてい質問に答えていない。


「あなたですか」


 王妃の声が、少し低くなる。


 マルティナの額に、わずかな汗が浮かんだ。


「はい。私が候補として挙げました」


「理由は」


「長年の実績と、王宮への納入経験でございます」


 クラリスは、静かに紙を一枚差し出した。


「では、こちらの競合見積もり三通についてご説明を」


 マルティナの目が、その紙に吸い寄せられた。


「これは……」


「筆跡が似ています」


「偶然かと」


「封蝋の質が同一です」


「王宮に納める業者ですので、同じ封蝋職人を使った可能性が」


「提出時刻も同じです」


「使者がまとめて届けたのでは」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「説明が上手ですね」


 マルティナは黙った。


「では次です」


 クラリスは、別紙を置いた。


「あなたの妹君、カリナ・ヴェルシュは、ローゼン商会会計係の妻で間違いありませんか」


 マルティナの顔が、明らかに硬くなる。


「親族の婚姻先まで、調べたのですか」


「利益相反の確認です」


「失礼です」


「失礼で済めば、監査は要りません」


 会計院長が、低く頷いた。


「その通りだ」


 マルティナは王妃を見る。


「陛下、これはあまりにも」


 王妃は、彼女を見ていた。


 助け舟は出さない。


 そのことを理解した瞬間、マルティナの表情が変わった。


 ほんの少し、語気が荒くなる。


「私は、王妃陛下の慈善を支えてまいりました」


「ええ」


 王妃が言った。


「だから確認しています」


「昼夜を問わず、寄付者に手紙を書き、品物を手配し、現場と王宮の間に立ってまいりました。華やかな式典の裏で、どれだけの雑務があるか、皆様にはお分かりにならないでしょう」


 クラリスは、その言葉を黙って聞いた。


 それは本当だろう。


 マルティナは、おそらく働いてきた。


 有能で、気が利き、王妃の慈善事業を実務で支えた。


 だからこそ、誰も疑わなかった。


 働く人間が、正しいとは限らない。


 それでも、働いていた事実まで消してはいけない。


「分かります」


 クラリスは言った。


 マルティナが、意外そうにこちらを見る。


「あなたが多くの業務を担っていたことは、記録からも分かります」


「ならば」


「ですが」


 クラリスは続けた。


「忙しかったことと、帳簿を濁してよいことは別です」


 マルティナの唇が歪んだ。


「濁すだなんて」


「北方救貧院に届くはずだった毛布四十枚は、どこへ行きましたか」


 沈黙。


「港町施療院に届かなかった薬箱十二箱は」


 沈黙。


「南部洪水被害の寄付金から支出された装花費のうち、相場を超える金貨七十枚は」


 沈黙。


 マルティナは、答えなかった。


 答えないことは、時々、もっとも正直な返事になる。


 王妃エレノアは、扇を机に置いた。


「マルティナ」


 その声は、とても静かだった。


「私は、あなたを信頼していました」


 マルティナの顔が歪む。


「はい」


「その信頼を、あなたは慈善のために使いましたか」


 マルティナは、口を開いた。


 だが、すぐには声が出ない。


「それとも、ローゼン商会のために使いましたか」


 資料室の空気が、凍った。


 クラリスは王妃を見た。


 優雅な人だ。


 だが今、その優雅さの奥から、王妃ではなく一人の責任者が出てきていた。


 マルティナは、震える声で言った。


「最初は……本当に、迅速に届けるためでした」


 誰も遮らなかった。


「王宮の手続きは遅い。現場は急いでいる。ローゼン商会なら、無理を聞いてくれた。多少高くても、間に合うならいいと……」


 会計院長が目を閉じた。


「それが、いつからです」


 クラリスが尋ねる。


「いつから、多少ではなくなりましたか」


 マルティナの肩が震える。


「……分かりません」


「分からない?」


「最初は、手数料のようなものでした。急ぎの手配だからと。次に、礼金になりました。その次に、見積もりを整えるようになった」


「整える」


 クラリスは、その言葉を繰り返した。


 王宮では、よく聞く言葉だ。


 失言を整える。

 不都合を整える。

 帳尻を整える。


 整えるという言葉は、美しい。


 だが時々、腐ったものに布をかけるだけになる。


「気づいた時には、戻せなくなっていました」


 マルティナは、そう言った。


 その声に、涙はなかった。


 泣く余裕すらない者の声だった。


 リリアが、震える声で尋ねる。


「毛布は……どこへ行ったんですか」


 マルティナは、リリアを見た。


 なぜ聖女候補がそんなことを聞くのか、分からない顔だった。


 リリアはもう一度言った。


「北方の救貧院に届かなかった毛布は、どこへ行ったんですか」


 マルティナは、目を伏せた。


「ローゼン商会が、別の領へ転売したと聞いています」


 リリアの顔が、白くなった。


「では、寒かった人がいたんですね」


 その問いに、誰も答えられなかった。


 当たり前すぎて。


 重すぎて。


 資料室の小さな窓から、白い光が差し込んでいる。


 外では、今日も王宮の庭に花が咲いているのだろう。


 クラリスは思った。


 花は悪くない。


 美しい場を作ることも、悪ではない。


 でも、花で寒さは防げない。


 花で空腹は満たせない。


 花で帳簿の空白は埋まらない。


「王妃陛下」


 クラリスは言った。


「慈善基金の一部について、会計院による正式監査を求めます」


 王妃は、静かに頷いた。


「認めます」


 レオンハルトが驚いた顔をした。


「母上!」


「黙りなさい、レオンハルト」


 王妃は息子を見なかった。


「マルティナ・ヴェルシュ。あなたを慈善委員会第一書記の任から解きます。以後、会計院の調査に従いなさい」


 マルティナは、崩れるように膝をついた。


 泣きはしなかった。


 ただ、何かが終わった人の顔をしていた。


 会計院長がユリウスに指示を出す。


「関係書類を保全しろ。ローゼン商会へ正式照会。倉庫記録、輸送記録、親族関係、すべて確認だ」


「はい」


 ユリウスが動く。


 セバスも、いつの間にか扉の近くに立っていた。


 逃げ道を塞いでいる。


 老執事というより、礼儀正しい城壁だった。


 リリアは、まだ資料を見ていた。


 そして、小さな声で言った。


「私も、手伝えますか」


 全員が彼女を見る。


 レオンハルトが一番驚いていた。


「リリア、君が?」


「はい」


 リリアは震えていた。


 でも、逃げていなかった。


「私、今まで笑顔だけ見ていました。だから……届かなかったものを、見に行きたいです」


 王妃が、リリアを見た。


 クラリスも見た。


 少し前まで、涙で場を動かしていた少女が、帳簿の先にいる人間を見ようとしている。


 それは、聖女候補として正しい一歩なのかもしれない。


 少なくとも、王太子の腕の中で守られているよりは。


「リリア様」


 クラリスは言った。


「現場視察は、慰問ではありません」


「はい」


「行けば、感謝されるとは限りません」


「はい」


「あなたが配った砂糖菓子の裏で、パンが減ったことを責められるかもしれません」


 リリアの目に涙が浮かぶ。


 けれど、彼女は頷いた。


「それでも、見たいです」


 クラリスは、少しだけ息を吐いた。


「では、会計院の補助記録係として同行してください」


「補助……記録係」


「はい。泣く前に、まず数えてください」


 リリアは、一瞬ぽかんとした。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「はい」


 その笑顔は、以前のように周囲へ守ってもらうための笑顔ではなかった。


 自分で立つにはまだ頼りない。


 でも、最初の一歩としては十分だった。


 レオンハルトは、それを見て苦い顔をしていた。


 彼はまだ、リリアが成長することを喜べない。


 真実の愛とは、案外不便なものだ。


 相手が変わることまで愛せなければ、ただの所有になる。


「クラリス」


 王妃が言った。


「はい」


「あなたは、私も監査するつもりですね」


「必要があれば」


「本当に悪女ですね」


「よく言われます」


 王妃は、ほんの少しだけ笑った。


 それは皮肉か、悔しさか、あるいは認めたくない敬意か。


 クラリスには分からなかった。


 だが、王妃は逃げなかった。


 その一点で、クラリスはこの人をまだ見限らずに済むと思った。


 資料室の外で、王宮の鐘が鳴った。


 昼を告げる鐘。


 今日も誰かが食事を運び、誰かが花を替え、誰かが廊下を磨く。


 王宮は動く。


 どれほど帳簿が汚れていても、朝は来る。


 だからこそ、今日のうちに記録しなければならない。


 明日になれば、また新しい花が飾られてしまう。


 クラリスは、薔薇水の香りがする帳簿を閉じた。


「慈善基金の帳簿は、花の香りがしました」


 彼女は静かに言った。


「けれど、届かなかった毛布には、きっと何の香りもなかったでしょう」


 誰も言葉を返せなかった。


 それでよかった。


 言葉がない時は、記録すればいい。


 クラリスは、次の書類を手に取った。


 表紙には、こう記されている。


『王宮侍女および下働き聞き取り記録』


 セバスが、にこりと微笑んだ。


「次回は、少々にぎやかになりますな」


「なぜ」


「侍女たちは、全部見ておりますので」


 クラリスは、頁をめくる手を止めた。


 王宮の噂に足はない。


 足があるのは、人間だ。


 そして、王宮でもっともよく歩いているのは、たぶん侍女たちである。


 彼女たちは、見ている。


 花瓶の水を替えながら。

 茶を運びながら。

 廊下を磨きながら。

 誰が何を隠し、誰が何をこぼし、誰が誰に後始末を押しつけたのかを。


 クラリスは、少しだけ笑った。


「では、次は耳ではなく、足のある証言を聞きましょう」


 花の香りは、もういらない。


 必要なのは、歩いてきた人の声だった。

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