第82話 聖女様は、偉くなると現場が減る
リリアが、自分を次期光秩院最高導師候補に推す署名が一万八千を超えていると知ったのは、北部診療所から帰ってきた翌朝だった。
「嫌です」
説明を最後まで聞く前に、そう答えた。
光秩院本部の応接室。
向かいには最高導師エレノア、その隣には実務官のルーメンが座っている。机の上には各地から届いた署名簿が積み上がり、さながら小さな城壁のようになっていた。
エレノアが茶を一口飲んだ。
「まだ何もお願いしていませんよ」
「最高導師候補になってください、ですよね?」
「そうです」
「嫌です」
「理由を聞いても?」
「現場が減るからです」
即答だった。
ルーメンが咳払いをする。
「普通は、責任が重すぎるとか、自分にはまだ早いとか、そういう理由を――」
「それもあります」
「ありますか」
「でも一番は現場です。最高導師って、一日どれくらい外へ出られるんです?」
今度はエレノアが黙った。
リリアが嫌な顔をする。
「その沈黙、嫌です」
「月に三日ほどでしょうか」
「三日!?」
「忙しい月は一日」
「絶対嫌です!」
「そこまでですか」
「私、今月十九日外にいましたよ!」
「知っています。だから皆、心配しています」
エレノアが穏やかに微笑んだ。
「十九日も外にいる特別救済監は、あなたくらいです」
「いいじゃないですか。特別なんだから」
「そういう意味の特別ではありません」
◇
リリアは署名簿を一冊開いた。
名前だけではない。
所属や地域も書かれている。
北部診療所の医師。
ミレア自治領の住民。
孤児院の職員。
難民居住区の女性。
井戸の場所を変えた南部の村人。
商人。
農民。
看護師。
そして。
「あ」
指が止まった。
《バルガス》
ミレア自治領。
最初に会った時、
――聖女はいらん。
そう言った老人だった。
「……バルガスさんまで」
「推薦理由も届いています」
「見せてください」
ルーメンが一枚の紙を渡した。
字は大きく、少し曲がっていた。
《あの娘は、嫌だと言えば止まる。だから偉くしてもいい。》
リリアはしばらく紙を見た。
「褒められてます?」
「かなり」
「もう少し綺麗に書けなかったのかな……」
「バルガス殿ですから」
でも。
リリアはその紙を、署名簿へ丁寧に挟んだ。
◇
「そもそも」
リリアはエレノアを見る。
「どうして私なんです?」
「本当に分かりませんか?」
「少しくらいは分かります」
「では?」
「いっぱい働いたから」
「小学生みたいな回答ですね」
「じゃあルーメンさんが答えてください」
「人に振らないでください」
エレノアが笑った。
「あなたが優秀だから、だけではありません」
リリアの顔から少し笑みが消える。
「あなたは、この一年で二十三の大きな救済事業に関わりました。その後も地域診療、孤児支援、難民衛生、食糧流通、女性の安全対策、災害復旧。成果だけを数えれば、十分すぎるほどです」
「でも、失敗もしてます」
「七件」
「数えてる!」
「最高導師ですから」
「怖いなあ……」
「その七件のうち、五件をあなた自身が中止、二件を修正しています」
エレノアは続けた。
「それが理由です」
リリアは目を瞬いた。
「成功したからじゃなく?」
「成功する人はいくらでもいます。成功した方法を、自分で止められる人は少ない」
リリアは何も言わなかった。
「あなたを推薦した人たちが評価しているのは、奇跡ではありません。自分たちの話を聞いたこと。間違えた時に戻ったこと。自分でできない仕事を他人へ任せたこと。そして、自分に反対した人を罰しなかったことです」
「……それ」
リリアが困ったように笑った。
「偉くなったら、一番難しくなるやつじゃないですか」
「その通りです」
エレノアは即答した。
◇
「だから、考えてほしいのです」
エレノアは署名簿を閉じた。
「あなたが最高導師になるべきかではありません」
「違うんですか?」
「最高導師という立場に、どれほどの力を持たせるべきなのかを」
リリアの表情が変わった。
「……制度の話?」
「ええ」
その言葉なら。
リリアは逃げなかった。
◇
現在の光秩院最高導師には、救済事業の優先順位を変更する権限がある。
災害時には予算を移すこともできる。
各地の診療所や孤児院への監督権。
緊急輸送の承認。
高位聖職者の任命。
そして、一部の案件については評議会の通常審査を飛ばすこともできる。
「強いですね」
「強いです」
「エレノア様、こんなの持ってたんですか?」
「持っていますよ」
「怖くないです?」
「毎日怖いですよ」
あっさり言われた。
リリアは少し驚いた。
エレノアは机の引き出しから、古い手帳を出した。
「私が最高導師になった日に、最初に書いたものです」
開く。
そこには。
《自分が善人であることを、制度の安全装置にしない。》
と書いてあった。
リリアは二度読んだ。
「……好きです、これ」
「ありがとうございます」
「もらっていいです?」
「駄目です」
「けち」
「最高導師の私物です」
◇
リリアは午後いっぱい、最高導師の権限表を読んだ。
そして翌朝。
もう一度読んだ。
三日目。
ルーメンが部屋へ入ると、机の上に紙が散乱していた。
「何をしているんです?」
「削ってます」
「何を?」
「最高導師の権限」
「勝手に!?」
「まだ案です!」
リリアが一枚を持ち上げる。
「緊急時の予算移動は必要。でも、一人で決められる金額に上限をつけたいです。それ以上なら、事後でもいいから複数人で確認する」
「なるほど」
「あと、人事。最高導師一人で地方責任者を任命できるの、やめません?」
「伝統的権限ですが」
「私、嫌いな人を飛ばせますよ?」
「リリア様はしないでしょう」
「そこです!」
机。
ばん。
「私がしない、を制度にしちゃ駄目なんです。」
ルーメンが黙った。
その顔を見て、リリアも少し落ち着いた。
「……クラリス様に、昔言われたんです。信頼って、何でも任せることじゃないって」
「監査できる関係」
「はい」
黒日宮事件のあと、三国共同監査の席でクラリスが言った言葉だった。
「だから最高導師も、監査される側にしましょう」
「現在も評議会への報告義務はあります」
「報告じゃなくて」
リリアは羽根ペンを回した。
「止められるようにしたいんです。」
◇
その日の昼。
食堂。
リリアの前には、豆のスープと黒パン。
そして大量の書類。
「食事中くらい書類を置いてください」
「時間が」
「置いてください」
「はい」
ルーメンに叱られた。
リリアは渋々書類を椅子へ移す。
すると今度は、若い修道女が駆け込んできた。
「リリア様!」
「はい?」
「東部の児童保護所から急報です。暖房用の薪が不足しているそうです」
「備蓄は?」
「あと五日ほど」
「補充申請は?」
「出ています。ただ、今年から森林伐採量の規制が強化されて、追加分の許可が――」
「待って」
リリアはパンを置いた。
「規制の理由は?」
「昨年の伐採過多です。土砂崩れ防止のためと」
「じゃあ、規制を外しちゃ駄目ですね」
「ですが子どもたちが」
「別の場所から運べません?」
「輸送費が」
「いくら?」
数字を聞く。
リリアが眉を寄せた。
安くはない。
だが払えない額でもない。
「予備費から出しましょう」
「財務局の承認が必要です」
「何日?」
「通常、十日ほど」
「薪は五日」
「はい」
まただ。
この形。
リリアは少しだけ嫌な顔をした。
「……私が言えば?」
修道女は答えにくそうにした。
ルーメンが代わりに答える。
「今日中でしょう」
便利。
本当に。
便利だった。
◇
リリアは立ち上がった。
「財務局へ行きます」
「昼食は?」
「戻って食べます」
「戻らないやつです」
「戻ります!」
「昨日もそう言いました」
「昨日は事故です!」
「一昨日も」
「一昨日も事故です!」
「毎日事故では?」
「救済監ですから!」
黒パンを一つ。
ルーメンが紙に包む。
「持っていってください」
「お母さんみたい」
「三食まともに食べてから言ってください」
◇
財務局。
リリアが事情を説明すると。
予想通り。
早かった。
「承認します」
「……もう?」
「聖女様がお持ちになった案件ですから」
財務官は笑顔だった。
リリアは、その言葉に引っかかった。
「資料、読みました?」
「もちろん」
「どこが一番重要でした?」
「はい?」
「児童保護所の人数は?」
「……」
「薪の残量は?」
「……」
「輸送元は?」
財務官の顔が固まる。
リリアは怒らなかった。
怒れなかった。
自分が。
持ってきたからだ。
「ごめんなさい」
「なぜ聖女様が?」
「私が来たせいで、資料を読まなくても通る案件になっちゃった」
リリアは承認書を一度戻した。
「読んでください」
「しかし、緊急で」
「だから今、一緒に読みましょう」
◇
二十分。
確認した。
児童保護所。
子ども三十八人。
職員九人。
薪。
残り五日。
別地域からの輸送なら三日。
森林規制を緩めれば一日。
だが、昨年その地域では小規模な土砂崩れが三件起きている。
「輸送ですね」
財務官が言った。
「はい」
「費用はかかりますが」
「子どもの暖房のために、別の村へ土砂を落とすわけにはいきません」
「承認します」
今度は。
リリアも頷いた。
「お願いします」
◇
三日後。
薪は届いた。
寒波。
その翌日に来た。
間に合った。
子どもたちは暖炉の前でパンを焼いた。
誰も凍えなかった。
森も切られなかった。
土砂崩れも起きなかった。
また。
成功した。
◇
その報告を聞いた夜。
リリアはエレノアの部屋へ行った。
「候補の件」
「はい」
「一つ条件があります」
エレノアは微笑んだ。
「聞きましょう」
「私が最高導師になったら、私を止められる仕組みを先に作ります」
「まだ最高導師になるとは決まっていませんよ」
「分かってます」
「候補です」
「分かってます!」
「選挙もあります」
「だから分かってますって!」
少し笑ってから。
リリアは真面目な顔へ戻った。
「最高導師が緊急権限を使った案件は、一定期間後に必ず別の人が監査する。人事は複数承認。予算の単独決裁には上限。それから、現場から直接、最高導師の判断に異議を出せる窓口を作る」
「ずいぶん自分を縛りますね」
「偉くなるんでしょう?」
「候補です」
「もうそこはいいです!」
エレノアが珍しく声を上げて笑った。
◇
「それと」
リリアは続ける。
「月三日は嫌です」
「何が?」
「現場」
「ああ」
「最低、月八日」
「多いですね」
「六日」
「交渉になりましたね」
「五日」
「……」
「四日!」
「自分から下げないでください」
リリアが頭を抱えた。
「じゃあ五日!」
「分かりました。候補者として提案してください」
「エレノア様が決めてくれないんですか?」
「次の最高導師候補が、現最高導師の一言で制度を変えたら本末転倒でしょう?」
「……」
「面倒でしょう?」
「ものすごく」
「制度とは、そういうものです」
リリアは。
少し笑った。
「それなら、いいです」
◇
一週間後。
光秩院大講堂。
各地域の代表者。
医師。
聖職者。
救済機関。
地方行政官。
そして一般席。
壇上に立ったリリアは、白い礼装を着ていた。
珍しく。
泥はない。
ただし。
靴だけは。
いつものものだった。
磨いた。
泥靴。
◇
「私は」
リリアは話し始めた。
「最高導師候補になるのが、嫌でした」
会場。
少しざわつく。
「だって、現場に出られる日が減るので」
笑い。
「あと、書類が増えるって聞きました」
さらに笑い。
ルーメンだけ。
笑っていない。
「でも、考えました」
リリアは一度、会場を見渡した。
「偉くならない方が安全だ、とは思いませんでした」
静かになる。
「力を持たなければ、力を間違って使わない。それは確かです。でも、力があれば助けられる人がいることも、私は知ってしまいました」
北部診療所。
薬。
井戸。
薪。
自分の名前を使ったから。
早く動いたもの。
確かにある。
「だから」
リリアは言った。
「力を持たないことではなく、力を持った私を、皆さんが止められるようにしたいです。」
会場。
誰も動かなかった。
「私が正しいことを言っている時も、止めてください」
一人の医師が顔を上げた。
「特に」
リリアは少し笑う。
「私が《絶対に正しい》と思っている時ほど」
◇
拍手は。
最初。
小さかった。
やがて。
大きくなった。
立ち上がる人。
増える。
リリアは困った顔をした。
こういうのは。
まだ。
慣れない。
壇上から降りると。
ルーメンが待っていた。
「よい演説でした」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい?」
「月五日現場案は反対です」
「なんで!?」
「最高導師候補ですから」
「まだ候補です!」
「覚えましたね」
「誰のせいですか!」
◇
その日の夕方。
候補受諾の知らせは。
各地へ飛んだ。
ミレア自治領。
バルガス。
「そうか」
それだけ。
言った。
隣の男が聞く。
「嬉しくないんですか?」
「嬉しいよ」
「顔に出ませんね」
「偉くなって馬鹿になったら、俺が怒鳴る」
「聖女様ですよ?」
「だから何だ」
バルガスは薪を一本。
火へ放った。
「嫌だと言えば止まる娘だから、俺は名前を書いたんだ」
◇
帝国。
アレクシアも知らせを読んだ。
「ほう」
「リリア様が最高導師候補を受諾されたそうです」
「めでたいな」
「祝いの品を?」
「肉だ」
「聖女様へです」
「だから肉だろう」
「なぜ?」
「働きすぎる奴は肉を食え」
官吏が諦めた。
「何肉にします?」
「全部だ」
「聞いた私が馬鹿でした」
◇
王国。
クラリスのもとへも。
知らせは届いた。
地方振興局。
次の地域の資料を読んでいた時だった。
「リリア様、受けたんですね」
ルシアンが言う。
「ええ」
「心配ですか?」
「少し」
「止めます?」
「なぜ?」
クラリスは手紙を畳んだ。
「本人が考えて決めたのでしょう」
「でも、最高導師ってかなり偉いですよ」
「知っています」
「リリア様ですよ?」
「どういう意味です?」
「昔、《何をすればいいですか》ってクラリス様の後ろをついて歩いてた」
「……そうでしたね」
クラリスは。
少し。
笑った。
「立派になりました」
「お姉ちゃんみたいな顔してますよ」
「してません」
「してます」
「してません」
「ヨル」
「わふ」
「どっち?」
ヨル。
クラリスを見る。
そして。
そっと。
目を逸らした。
「ヨル?」
「わふ」
「今のは何です?」
「肯定じゃないですか?」
「干し肉抜きますよ」
「わふ!?」
「権力の濫用!」
◇
クラリスは。
その夜。
リリアへ手紙を書いた。
長くはない。
祝いの言葉。
それから。
最後に。
ひとつだけ。
《偉くなったからといって、私に採点を頼みに来ないように。》
三日後。
返事。
《八十六点だった人間が、ここまで来ました。》
その下。
小さく。
《でも、たまには褒めてください。》
クラリスは笑った。
そして。
《そこは昔から変わりませんね。》
と返した。
◇
この頃。
リリア・セレスティアは。
本当に。
良い候補者だった。
権限を減らそうとした。
監査を入れようとした。
反対意見を守ろうとした。
現場へ出続けようとした。
自分の名前ではなく。
理由で制度を動かそうとした。
だから。
支持は。
さらに増えた。
推薦署名。
二万。
二万五千。
三万。
誰も。
彼女に強制されていない。
誰も。
脅されていない。
むしろ。
反対する権利を守ろうとする聖女だから。
皆が。
彼女を選びたくなった。
そして。
ここに。
少しだけ。
難しい問題が生まれた。
《反対する権利を守る人》に、誰も反対しなくなったら。
その人は。
いったい。
誰に。
止めてもらえばいいのだろう。
◇
数か月後。
光秩院の地方会議。
ある若い役人が。
新しい救済事業について。
小さく。
反対意見を口にしかけた。
「私は少し、この方法は――」
隣の先輩が笑った。
「大丈夫だよ」
「でも」
「リリア様が作った制度だぞ」
優しい声だった。
圧力でも。
命令でもない。
「あの方なら、ちゃんと考えてるよ。」
若い役人は。
少し考えた。
そして。
「……そうですね」
笑った。
反対意見は。
消されたのではない。
提出を。
禁止されたわけでもない。
ただ。
本人が。
出さなかった。
その日。
光秩院では。
何も問題は起きなかった。
事業も。
成功した。
助かった人も。
たくさんいた。
だから。
その小さな沈黙を。
記録した者は。
まだ。
誰もいなかった。




