第81話 悪女令嬢は、クラリス式を監査する
王都へ戻った翌朝。
クラリスは、自分の名前が勝手に増殖していることを知った。
「……何ですか、これは」
王宮地方振興局の会議室。
机の上には、分厚い冊子が置かれている。
表紙には堂々と、
《クラリス式地方再生手法――西部三地域における成功事例と横展開》
と書かれていた。
「横展開?」
「はい」
地方振興局長のフェルナンが、誇らしげに頷く。
「ラゼル、アルネ、フィネル。いずれも短期間で目覚ましい成果を上げています。王国として、この手法を他地域にも広げたいと考えております」
「誰が、この名前を?」
「私どもです」
「誰の許可で?」
「……必要でしたか?」
フェルナンの顔が曇った。
悪意はない。
むしろ、かなり善意である。
成果の出た方法を整理し、他地域へ共有する。行政としては真っ当だ。
だからクラリスは、冊子を捨てなかった。
「中を見ます」
「ぜひ!」
フェルナンが嬉しそうに言った。
隣に座るルシアンが、少しだけ嫌な予感のする顔をした。
◇
第一章。
《大型施設整備より既存施設の活用を優先する》
第二章。
《観光客数より滞在時間を重視する》
第三章。
《地域特産品の加工・高付加価値化を推進する》
第四章。
《共同物流による小規模事業者支援》
第五章。
《小規模試行後に事業拡大を判断する》
「……よくまとまっていますね」
クラリスが言うと、フェルナンの表情が明るくなった。
「ありがとうございます!」
「だから困りました」
「え?」
ルシアンが横から冊子を覗く。
「僕には、かなり正しいことが書いてあるように見えますけど」
「正しいですよ」
「じゃあ何が?」
「これを読んだ人が、次の町でも同じことをするからです」
「……あ」
ルシアンが気づいた。
クラリスは第一章を指した。
「例えば、大型施設を本当に必要としている町だったら?」
「建てますね」
「この冊子では、《既存施設活用を優先》です」
第二章。
「観光客そのものが少なすぎて困っている町なら?」
「まず来てもらわないと始まらない」
「でも、《観光客数より滞在時間》」
第三章。
「加工ではなく、生のまま売ることに価値がある特産品なら?」
「……加工しない方がいい」
「そういうことです」
フェルナンが冊子を見る。
「しかし、これは成功事例をまとめたもので」
「成功事例として残すのは構いません。ただし」
クラリスは表紙を指で叩いた。
「手法にしないでください。」
◇
「では、クラリス様の手法とは何なのです?」
フェルナンに尋ねられ、クラリスは困った。
「特にありません」
「そんなはずは」
「町によって違いますから」
「しかし、共通する考え方はあるでしょう?」
「考え方なら」
クラリスは少し考えた。
ラゼル。
立派な商業施設。
アルネ。
増えている観光客。
フィネル。
豊作なのに安くなる葡萄。
三つとも、最初にやったことは同じだった。
「……誰が困っているのかを聞きました」
フェルナンが羽根ペンを取る。
「はい」
「何に困っているのかを聞きました」
「はい」
「今まで何をやったのかを見ました」
「はい」
「数字が何を数えているのか確認しました」
「はい」
「それから、なるべく小さく試しました」
「なるほど」
フェルナンが書く。
そして。
「では、それを《クラリス式五原則》として――」
「だから名前をつけないでください」
「駄目ですか!?」
「なぜそんなに私の名前を使いたいのです?」
「通りがいいんです」
即答だった。
クラリスの手が止まった。
「……通りが?」
「地方へ通知を出す際、《新しい地域振興方針》とするより、《クラリス式》と書いた方が説明しやすいのです。西部で成果を出した方の名前ですから、首長や商工組合にも受け入れられやすい」
ルシアンがクラリスを見る。
クラリスも彼を見る。
二人とも。
同じものを思い出していた。
聖協国。
リリア。
彼女の名前を使えば、薬が早く届いた。
「……便利ですね」
クラリスが言った。
「はい。非常に」
便利なのだ。
それが一番、厄介だった。
◇
昼前。
さらに悪いものが届いた。
南西部の町、カルネからの報告書だった。
《クラリス式地方再生手法に基づく市場再編事業》。
「もう使われてる!」
ルシアンが声を上げた。
「いつ通知したのです?」
「正式通知はまだですが、草案が地方会議で共有されまして……」
「草案を横流ししないでください」
「申し訳ありません」
内容を読む。
カルネには、古い中央市場と、郊外の新しい市場があった。
町は二つの市場を維持する費用に悩んでいた。
そこで。
《クラリス式》に基づき、既存施設の活用と共同物流を推進。
古い中央市場を物流拠点へ転用。
商店は郊外市場へ集約する。
「……」
クラリスの眉が寄った。
「何か?」
「中央市場を使っている人は?」
「商人でしょうか」
「それだけ?」
資料を探す。
利用者調査。
ない。
現地聞き取り。
ない。
商人への説明会。
一回。
住民への説明。
なし。
「これ」
クラリスは報告書を置いた。
「私が一番やらないやつです」
◇
三日後。
カルネ。
また地方へ出た。
「王都に戻って四日しか経ってませんよ」
馬車の中でルシアンが言う。
「仕方ありません」
「王都の屋敷、完全に荷物置き場ですね」
「セバスが管理しています」
「私がおりますので」
御者台から声がした。
「でもセバスも今ここにいるじゃないですか」
「使用人がおります」
「屋敷って便利だなあ」
足元ではヨルが寝ていた。
フィネルでもらった干し肉の匂いがする袋だけは、前脚の間にしっかり挟んでいる。
「ヨル、それ非常食ですよ」
「……わふ」
「まだ食べません」
袋を抱える力が強くなった。
「信用されてない」
◇
カルネ中央市場。
古い。
確かに古い。
石畳は割れ、屋根も何度か修繕されている。雨漏りする区画もあった。
だが。
「人、多いですね」
ルシアンが言った。
多かった。
野菜。
魚。
パン。
肉。
布。
日用品。
朝から人が行き交っている。
特に目についたのは、高齢者だった。
籠を持った老人。
杖をつく女性。
子どもを連れた母親。
「郊外市場は?」
「ここから馬車で十五分です」
「歩くと?」
「一時間近いかと」
クラリスは目を閉じた。
「なるほど」
◇
八十二歳の女性、マリーに話を聞いた。
「郊外の市場?」
「はい」
「行ったことないよ」
「なぜ?」
「遠いもの」
「乗合馬車があります」
「あるね」
「使わない?」
「野菜買うのに馬車代払うのかい?」
その通りだった。
マリーは週に四回、この市場へ来る。
家から徒歩十分。
パン。
野菜。
時々肉。
そして。
「ここに来れば誰かいるからね」
「誰か?」
「そりゃ誰かだよ」
答えになっていない。
でも。
少し歩くと分かった。
「マリーさん、今日は豆安いよ!」
「昨日も言ってたじゃないか!」
「今日は本当に安い!」
「じゃあ昨日は嘘だったのかい!」
笑い。
魚屋。
「マリー婆ちゃん、息子さんから手紙来た?」
「来たよ。孫がまた背ぇ伸びたってさ」
パン屋。
「今日は固いの一本ね」
「歯、大丈夫?」
「まだお前より丈夫だよ」
また笑い。
クラリスは帳面を閉じた。
数字にする前に。
もう分かった。
「物流拠点にしたら」
マリーが聞いた。
「ここで買い物できなくなるのかい?」
「その計画です」
「困るねえ」
「説明会は?」
「知らないよ」
◇
町役場。
担当者は若かった。
名前はエミール。二十九歳。
資料も整っている。
計算も間違っていない。
「二市場の維持費を統合することで、年間金貨四百二十枚の削減になります」
「はい」
「物流機能を中央へ集約すれば、空荷率も改善できます」
「はい」
「郊外市場には十分な店舗面積があります」
「ありますね」
クラリスは全部認めた。
エミールは少し安心した。
「では――」
「市場を利用している人には聞きました?」
止まった。
「商人には説明を」
「買う人です」
「……」
「マリーさんをご存じですか?」
「どちらの?」
「八十二歳。市場から徒歩十分の」
「いえ」
「では、乳母車を押していた女性は?」
「……」
「市場で昼食を取っていた荷運び人たちは?」
「……」
エミールの顔から、少しずつ自信が消えていった。
「クラリス式では、既存施設を活用し、物流を効率化すると」
「言ってません」
「ですが冊子に」
「その冊子を作った人にも、さっき怒りました」
ルシアンが横で頷く。
「本当です」
◇
エミールは悪くなかった。
むしろ、かなり優秀だった。
ラゼルの成功例を読んだ。
共同物流を学んだ。
大きな新施設を造らず、今ある市場を使う。
税負担を減らす。
空荷を減らす。
ちゃんと考えた。
「私は」
エミールが言った。
「クラリス様なら、こうすると思ったんです」
その言葉に。
クラリスはすぐ答えなかった。
「……私なら」
少し考えてから言う。
「まず、ここで豆を買います」
「豆?」
「そのあと、魚屋に話を聞きます」
「はい?」
「それからマリーさんに怒られます」
「なぜ怒られる前提なんです?」
「たぶん何か言われるので」
ルシアンが笑った。
「実際、さっき《あんた細いねえ、ちゃんと食べてる?》って怒られてました」
「余計なことを言わないでください」
◇
クラリスは、エミールの計画を否定しなかった。
「物流拠点化は、いい案です」
「え?」
「中央市場の裏手に使われていない倉庫がありますね」
「あります」
「そこだけ使えませんか?」
「しかし面積が」
「最初から全部の物流を集めなくていいでしょう」
また。
小さく。
試す。
「郊外市場へ商店を全部移す必要もありません。中央市場は生活市場として残す。郊外は大量仕入れや広域客向け。裏の倉庫で二つを繋ぐ物流を試す」
エミールが地図を見る。
「維持費削減は小さくなります」
「はい」
「年間四百二十枚が、百八十枚程度に」
「百八十枚も減るのですね」
「……そういう見方ですか」
「四百二十枚を節約するために、マリーさんが週四回馬車へ乗る町にする必要はありません」
エミールは黙った。
そして。
「クラリス式とは、何なんでしょう」
と聞いた。
「ありません」
「でも」
「本当にないんです」
クラリスは笑った。
「あるとすれば、《最初に答えを決めない》くらいです」
◇
王都へ戻ると。
クラリスは地方振興局へ行った。
例の冊子。
机。
「廃棄ですか?」
フェルナンが恐る恐る聞く。
「いいえ」
「では?」
「直します」
第一章。
《大型施設整備より既存施設の活用を優先する》
線を引く。
書き直す。
《なぜ施設が必要なのか、利用する人に確認したか。》
第二章。
《観光客数より滞在時間を重視する》
書き直す。
《増やそうとしている数字は、目的ですか。それとも手段ですか。》
第三章。
《地域特産品の加工・高付加価値化を推進する》
書き直す。
《誰が、何のために買う商品ですか。》
第四章。
《共同物流を推進する》
書き直す。
《運べないことで困っている人は、本当にいますか。》
第五章。
《小規模試行後に事業拡大》
ここだけ。
少し残した。
ただし。
最後に加えた。
《失敗した時、戻せる大きさですか。》
フェルナンが冊子を見る。
「全部、質問になりましたね」
「はい」
「答えは?」
「地方にあります」
「不親切では?」
「地方振興の本部が、地方を見る前に答えを持っている方が怖いです」
◇
表紙。
《クラリス式地方再生手法》。
クラリスは線を引いた。
「ここも?」
「もちろんです」
「では題名は?」
少し考える。
書いた。
《地方事業を始める前の質問帳》
「地味ですね」
「いいんです」
「クラリス様の名前を入れた方が読まれますよ」
「だから入れないんです」
フェルナンが首を傾げた。
クラリスは静かに言った。
「私の名前を見た瞬間に、考えるのをやめられたら困ります」
◇
その夜。
帝国。
アレクシアの机にも。
一冊の報告書があった。
表紙。
《アレクシア式兵站内政術》
「何だこれは」
「殿下の近年の改革をまとめたものです」
「私の名前が必要か?」
「権威がございますので」
「いらん」
「え?」
「兵站は私を崇めても腹は膨れん」
官吏が瞬きをする。
「では名称を?」
「《帝国物流試行要領》でいい」
「地味では?」
「軍用乾パンに洒落た名前をつけて敵が倒せるか?」
「倒せません」
「ならいい」
少し考えて。
アレクシアは付け加えた。
「あと、私が言ったから採用した、は禁止だ」
「なぜです?」
「クラリスに怒られる気がする」
「そこなんですね」
「それに」
アレクシアは報告書を閉じた。
「私が間違った時、誰も止められなくなる」
官吏は。
少し驚いた顔をした。
以前の皇女なら。
たぶん。
言わなかった。
◇
聖協国。
同じ夜。
リリアは診療所の床に座っていた。
「聖女様、椅子を」
「ここでいいです」
「服が汚れます」
「もう汚れてます」
泥靴の聖女。
今日も。
変わらない。
目の前には、北部から来た若い医師。
「診療所を増やしたいんです」
「いいですね」
「ですが財務局が」
「理由は?」
「患者数が基準に届かないと」
「必要な地域なのに?」
「はい」
「資料を見せてください」
リリアは読む。
山間部。
人口は少ない。
しかし次の診療所まで徒歩半日。
冬は雪。
「これは必要ですね」
「私もそう思います」
「もう一度、財務局と話しましょう」
若い医師が言った。
「聖女様から一言いただければ、すぐ通ると思います」
リリアの手が止まった。
以前なら。
たぶん。
こう言った。
――私の名前ではなく、必要性で通してください。
今日も。
そう言おうとした。
ただ。
窓の外。
雪。
思い出す。
去年。
診療所まで間に合わなかった子ども。
あと少し早ければ。
助かった。
「……何日くらい、審査にかかります?」
「通常なら、一か月ほど」
「一か月」
長い。
冬は。
待ってくれない。
「私が話したら?」
「おそらく数日です」
リリアは黙った。
これは。
自分のためではない。
診療所。
医師。
患者。
雪。
命。
「……では」
リリアは言った。
「今回は、私からも説明します」
若い医師の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「でも」
リリアは念を押した。
「私が言ったから、ではなく、必要だから通してくださいね」
「もちろんです」
◇
三日後。
診療所。
承認。
早かった。
医師。
配置。
冬。
間に合った。
その冬。
少なくとも。
三人。
早期治療によって。
命を落とさずに済んだ。
正しかった。
どう考えても。
正しかった。
◇
財務局。
次の会議。
「北部診療所の件、前例として扱いますか?」
「聖女様が必要と判断された案件だ」
「では、同様の案件も?」
「聖女様の救済方針に合うなら、優先してよいだろう」
「本人への確認は?」
「お忙しい方だ。毎回伺う必要もあるまい」
誰も。
悪いことをしていない。
むしろ。
審査は速くなった。
必要なところへ。
支援が届く。
だから。
また一つ。
省略された。
《リリアに聞く》
その代わり。
新しい言葉が生まれた。
《聖女様なら、そうお考えになる》
◇
王都。
深夜。
クラリスは屋敷の書斎で、《地方事業を始める前の質問帳》を読み返していた。
ソファではヨルが腹を出して寝ている。
ルシアンは途中で眠くなり、既に客室へ引き上げた。
セバスが茶を置く。
「お嬢様」
「はい」
「ご自身の名が広まることは、お嫌いですか?」
「嫌いではありません」
「意外でございます」
「私にも名誉欲くらいあります」
「存じております」
「そこは否定してください」
「事実ですので」
クラリスは少しむくれた。
それから。
冊子を見る。
「ただ」
「はい」
「名前があると、人は便利なのですよね」
「権威となります」
「説明を省ける」
「ええ」
「信用を借りられる」
「はい」
「でも」
クラリスは羽根ペンを置いた。
「説明を省けるようになった人ほど、説明を省かない方がいいのかもしれません。」
セバスは何も言わなかった。
少しだけ。
目を細めた。
◇
クラリスは最後の頁へ。
一項目。
追加した。
《その判断を、有名な誰かの名前なしでも説明できますか。》
さらに。
もう一つ。
《その人が間違っていた場合、止められますか。》
そこで。
ヨル。
寝返り。
どすん。
机。
揺れる。
「ヨル」
「……わふ」
「あなたは権威と無縁でいいですね」
「わふ」
「ご飯と温泉しか興味ありませんものね」
ヨル。
片目。
開く。
「わふ」
「否定するところですか?」
◇
数日後。
《地方事業を始める前の質問帳》は。
王国二十七地域へ送られた。
クラリスの名前は。
表紙には。
ない。
けれど。
地方の役人たちは。
すぐに気づいた。
「これ、クラリス様のやつだろ」
「そうらしい」
「じゃあ、これに沿ってやればいいのか?」
「いや」
若い役人が。
一頁目を開く。
そこには。
答えではなく。
質問しかない。
「……自分たちで考えろってことじゃないか?」
「面倒だな」
「面倒だな」
二人。
笑った。
そして。
町へ出た。
◇
三つの国。
三人。
名前が。
強くなっていた。
クラリスは。
自分の名前を。
剥がそうとした。
アレクシアも。
それを真似た。
そして。
リリアも。
まだ。
剥がそうとしていた。
ただ。
リリアの名前だけは。
剥がすたびに。
誰かの命を。
救ってしまった。
名前を使えば。
薬が早く届く。
井戸が守られる。
診療所ができる。
子どもが助かる。
そんなものを。
簡単に。
使うなとは。
誰にも。
言えなかった。
そして何より。
リリア自身が。
まだ。
その力を。
自分のためには。
一度も使っていなかった。
だからこそ。
人々は。
ますます。
彼女を信じた。
《次期光秩院最高導師候補 リリア・セレスティア》
推薦署名。
一万二千。
そして。
一万五千。
さらに。
一万八千。
リリアが知らないところで。
増え続けていた。
正しさは。
まだ。
暴走していない。
ただ。
道だけが。
驚くほど綺麗に。
舗装され始めていた。




