第78話 悪女令嬢は、七割引でも買わない
「誰が、欲しいと言ったのです?」
クラリスがそう尋ねると、ラゼル町長のオルドは笑顔のまま固まった。
机の上には《ラゼル西部大商業施設建設計画》。
総事業費、金貨二万八千枚。
王国補助、七割。
残り三割はラゼルの負担である。
「いや、ですからクラリス様。これは大変有利な話なのです」
「何がです?」
「七割も王国が負担してくれるのですよ」
「はい」
「町は三割で大規模商業施設を持てる」
「必要なら、ですが」
「……必要でしょう?」
「それを今、聞いています」
町長はベルトランを見た。
ベルトランは書類を見た。
ルシアンはクラリスを見た。
ヨルは窓の外の屋台を見ていた。
たぶん、この部屋で一番目的が明確なのはヨルである。
「計画では、一階に生鮮食品、二階に衣料品と生活雑貨、三階に飲食店を配置します。さらに王都の有名店を五店舗誘致する予定です」
「東市場で売っているものと重なりますね」
「ですが、こちらは全天候型です。雨の日でも買い物ができます」
「それは利点です」
「でしょう!」
「では、東市場の人たちはどうなるのです?」
町長が、また止まった。
「希望者には、こちらへ移転していただくことも可能です」
「賃料は?」
「まだ決定しておりませんが、設備維持費がありますので東市場よりは高く――」
「皆さんに聞きました?」
「これから説明会を」
「つまり、まだ誰も欲しいと言っていないのですね」
クラリスは計画書を閉じた。
オルド町長は困ったように息を吐いた。
「しかし、この機会を逃せば七割補助は受けられません」
「町長様」
「はい」
「金貨十枚の商品が七割引で売られていたとして、その商品が必要なければ?」
「買いません」
「同じです」
「金貨二万八千枚を商品扱いしないでください」
「むしろ高い買い物ほど慎重になるべきでしょう」
ルシアンが横で小さく頷いた。
「七割引でも、いらないものはいらない」
「そういうことです」
「クラリス様」
「はい?」
「王都の貴族街の服飾店でも同じこと言えます?」
「……」
「間がありました」
「調査に戻りましょう」
「逃げた」
◇
建設予定地は駅から北へ十分ほど歩いた場所にあった。
元は紡績工房だったらしい。今は広い空き地になっている。駅前商店街にも近く、街道から馬車を引き込む余地もある。
立地だけなら悪くない。
クラリスは土地の端まで歩き、周辺の道路を確認した。
「建物そのものは建てられそうですね」
ベルトランが少し意外そうな顔をした。
「反対ではないのですか?」
「私はまだ反対していません」
「町長には随分厳しく……」
「必要性を聞いただけです」
「同じことでは?」
「全然違います」
クラリスは空き地の向こうを指した。
「問題は、建物ではありません。ここに何を入れるかです」
東市場と同じ野菜を売る。
同じ肉を売る。
同じ日用品を売る。
そこへ王都の店を呼ぶ。
それで町全体の売上が増えるのか。それとも、今いる客を新しい箱の中へ移すだけなのか。
「商売は椅子取りゲームではありません」
「椅子取り?」
「百人の町民が使う金貨が百枚しかないのに、店を増やしただけで金貨が二百枚になるわけではありません」
「観光客を呼べば増えます」
「だから、その観光客は何を目的にラゼルへ来るのです?」
ベルトランが黙った。
立派な建物を見るため。
それだけで、王都から何日も馬車に揺られて来る人間がどれほどいるだろう。
「まず、町の外からお金が入ってくるものを探しましょう」
「観光以外で?」
「昨日、見ましたよね」
クラリスは、持ってきた木箱を見せた。
「これです」
◇
木工職人の店へ戻ると、店主はまたクラリスが箱を買いに来たと思ったらしい。
「今度は何個だ?」
「買いません」
「なんだ」
「露骨に残念そうですね」
「客だからな」
「今日は商談です」
「急に怖くなったな」
職人の名はロッド。五十三歳。
この町で二十八年、木工品を作っている。
「この箱、月にいくつ作れます?」
「箱だけなら四十くらいだ」
「売れるのは?」
「月に十個いけばいい方だな」
「残りは?」
「作らんよ」
「王都なら銀貨六枚程度で売れる可能性があります」
「知ってる。でも運べんって昨日言ったろ」
「はい。だから、箱を売る方法を考えに来ました」
「箱を?」
「正確には、あなたの箱だけではありません」
クラリスは町で見つけたものを机に並べた。
木工品。
乾燥豆。
葡萄の保存菓子。
羊毛の小物。
硬質チーズ。
薬草を混ぜた石鹸。
「一軒ずつでは荷馬車を出せない。でも、全部まとめたら?」
ロッドが腕を組んだ。
「誰がまとめる」
「そこです」
◇
その日の午後、再び東市場へ行った。
エッダはクラリスの顔を見るなり笑った。
「今日は狼に何本食わせる気だい?」
「二本までです」
「わふ!」
「返事しない」
「昨日四本だったろ?」
「エッダ様」
「何だい」
「余計なことをヨルに教えないでください」
「わふわふ!」
「増量交渉を覚えた!」
結局、三本になった。
市場調査である。
たぶん。
「で?」
エッダが聞く。
「今日は何を嗅ぎ回ってるんだい」
「共同配送です」
「ああ、昨日の話か」
「市場から王都へ出る荷馬車は?」
「週に三便くらい」
「帰りは?」
「商品を積んで戻る便もあるが、空に近い時もあるね」
「荷台に小口商品を載せられます?」
エッダは少し考えた。
「量による」
「木箱十個、石鹸三十個、保存菓子五十袋、羊毛小物二十個なら?」
「余裕だよ」
「運賃を取っても?」
「当然取るよ」
「それでいいんです」
クラリスは笑った。
補助金で無料にする必要はない。
運ぶ人にも利益が出る。
作る人にも利益が出る。
買う人にも価値がある。
続く仕組みは、誰か一人の善意だけに寄りかからない。
「問題は王都で誰が売るかだね」
「そこは商会を探します」
「手数料取られるよ」
「取られていいんです」
「へえ」
「儲ける人がいることを、悪いことにしないでください」
エッダが豪快に笑った。
「聖女様には言えなさそうな台詞だ」
「リリア様なら、たぶん同じことを言いますよ」
「そうなのかい?」
「ただし三倍くらい説明します」
「想像できるねえ」
クラリスも笑った。
少しだけ、リリアの顔を思い出した。
◇
一週間後。
大商業施設計画の説明会が開かれた。
町役場が用意した大広間には百人以上が集まった。町長、役人、商店街、東市場、農家、職人、宿屋、若者、周辺村の代表。
壇上には巨大な完成予想図。
三階建て。
魔導灯。
噴水。
中央広場。
確かに立派だった。
「おお」
「すごいな」
「王都みたいだ」
会場から声が上がる。
町長の顔にも少し自信が戻った。
「王国補助七割により、ラゼルの新たな商業拠点を――」
「ちょっといいかい」
エッダだった。
「うちの市場、どうなるんだい?」
会場が静まる。
「希望される店舗には優先的に入居枠を――」
「家賃は?」
「現在算定中で」
「今より高い?」
「設備がありますので」
「じゃあ行かないよ」
あっさり。
町長の顔が引きつる。
今度はロッドが手を挙げた。
「俺も店はいらん」
「しかし、新施設なら来客数が――」
「今の店、家賃いらねえもん。親父から継いだ建物だから」
パン屋の息子も手を挙げる。
「僕は、店より配達の仕組みが欲しいです」
農家。
「うちは共同の保冷庫」
羊毛職人。
「王都へ小口で送れる場所」
宿屋。
「観光客を呼ぶなら、まず駅で宿の場所が分かるようにしてほしい」
「案内所がありますよね?」
「夕方五時で閉まるんだよ!」
ざわざわ。
意見が出る。
出る。
出る。
そして二十分後。
完成予想図の巨大な建物を欲しいと言う人間は。
まだ。
一人もいなかった。
◇
町長は額の汗を拭いた。
「クラリス様」
「はい」
「これは……」
「良かったですね」
「どこがです?」
「建てる前に分かりました」
「そういう考え方をします?」
「建ててから分かるより、ずっと安いですよ」
会場の後ろでベルトランが笑いを堪えていた。
「ベルトラン」
「はい!」
「今、笑ったか?」
「いいえ、町長」
◇
クラリスは壇上へ上がった。
「皆さんに一つだけ確認します。新しい建物そのものが嫌なのですか?」
反応はばらばらだった。
別に嫌ではない。
便利なら使う。
雨の日は屋根が欲しい。
共同倉庫は欲しい。
配送所も欲しい。
小さな会議室も欲しい。
農家からは、早朝に荷を置ける場所が欲しいという声が出た。
「では、三階建てである必要は?」
「……ないな」
「噴水は?」
「いらん」
「王都の有名店五店舗は?」
「一店舗くらい菓子屋があっても」
「お前が甘い物食いたいだけだろ!」
笑いが起きた。
クラリスも笑った。
「では、建物を造るかどうかではなく、必要な機能から決めませんか?」
黒板へ書く。
共同配送受付。
小口荷物の集積所。
簡易保冷庫。
農産物の一時保管。
雨天時の市場区画。
町内商品の展示。
夜間案内板。
「これだけなら、三階建てはいりませんね」
建築担当者がおそるおそる言った。
「一階建てと既存倉庫の改修で、かなり……」
「金額は?」
「概算ですが、金貨七千から八千程度」
会場が静まった。
二万八千。
から。
八千。
町長が完成予想図を見る。
「噴水は?」
「町長」
ベルトランが静かに言った。
「諦めましょう」
「私は噴水が好きなんだ」
「ご自宅にどうぞ」
とうとう会場が笑った。
◇
問題が一つあった。
「規模を縮小すると、王国の七割補助の対象から外れる可能性があります」
ベルトランの言葉に、今度は皆が黙った。
「大型商業拠点整備事業ですから。一定規模以上の建物が条件になっています」
「じゃあ大きく造った方が得じゃないか」
誰かが言う。
クラリスは首を振った。
「得かどうか、計算しましょう」
大規模案。
総額二万八千。
町負担三割。
八千四百。
さらに毎年の維持費。
警備。
清掃。
魔導灯。
設備修繕。
職員。
一方。
縮小案。
八千。
仮に補助なし。
全額町負担。
「……あれ?」
ルシアンが先に気づいた。
「小さい方、最初から四百枚安い」
「はい」
「しかも維持費も安い」
「はい」
会場。
静か。
町長。
七割という数字を見る。
八千四百。
八千。
もう一度見る。
「七割補助なのに」
「補助なしより高い……」
「そういうこともあります」
クラリスは言った。
「補助率ではなく、最後に自分たちがいくら払うかを見てください」
ベルトランが頭を抱えた。
「十年、役人をやっていますが、今ものすごく嫌な汗をかいています」
「健康的ですね」
「絶対違います」
◇
その日の夕方。
町長室。
大商業施設計画。
保留。
正式な中止ではない。
代わりに、町民と商人による小規模物流拠点案の試算を始めることになった。
「クラリス様」
町長が窓辺で言った。
「私は、この町に何か残したかったんです」
初めて聞く声だった。
町長としてではなく、一人の男としての。
「私が町長だった時代に、ラゼルが変わったと分かるものを」
クラリスは完成予想図を見た。
立派だった。
確かに、残る。
「だから建物を?」
「……そうかもしれません」
「悪いことではありませんよ」
「え?」
「何かを残したいと思うことは」
クラリスは窓の外を見る。
「ただ、建物でなくてもいいのでは?」
朝だけ開く粥屋。
泥だらけの東市場。
二十八年続く木工店。
継ぐかどうか迷っているパン屋の息子。
そういうものが、十年後も残っている。
それも町長の仕事だ。
「写真には写りにくいですが」
「写真?」
「……いえ」
クラリスは首を傾げた。
まただ。
知らない言葉が、時々ふっと頭に浮かぶ。
白い教室。
光る板。
小さな黒狼の飾り。
記録しておこうと思ったが、今はやめた。
「とにかく、建物だけが実績ではありません」
町長はしばらく黙っていた。
「噴水くらいは?」
「予算をご自分で出すなら」
「厳しいな、あなたは」
「監査ですので」
「コンサルではなかったのですか?」
「最近、境目が分からなくなってきました」
◇
三週間後。
ラゼルから王都へ、一台の荷馬車が出た。
木箱二十。
石鹸四十。
羊毛小物三十二。
保存菓子六十。
硬質チーズ十二。
大した量ではない。
国家予算から見れば、誤差みたいな商売だった。
それでも翌週。
木箱。
完売。
石鹸。
三十五個。
保存菓子。
五十二袋。
売れた。
ロッドは売上票を見て、しばらく無言だった。
「銀貨六枚……」
「手数料と運賃を引くと、手取りは四枚少々ですね」
「ここで売るより高い」
「はい」
「来週も送れるか?」
「そのための仕組みです」
ロッドは自分の木箱を撫でた。
「じゃあ、もう十個作るか」
それだけだった。
雇用創出、何人。
経済波及効果、何枚。
まだ。
そんな数字は出ない。
ただ一人の職人が。
来週も作ろうと思った。
クラリスには、それで十分だった。
◇
同じ頃。
帝国宮殿。
アレクシアは巨大な物流地図の前で腕を組んでいた。
「南部から北部へ向かう荷車の三割が、途中から空になる?」
「はい。南部の穀物を中央市場で降ろした後、北へ向かう積荷が確保できず」
「では中央で積めばいい」
「何を?」
「それを私に聞くな。調べろ」
官吏が目を丸くした。
以前のアレクシアなら、「では軍用倉庫を造る!」くらいは言っていた。
「殿下。新しい中継倉庫の建設案もございますが」
「今ある倉庫の稼働率は?」
「……」
「先に調べろ」
「はい」
「あと」
「はい?」
「補助率ではなく、帝国が最後に払う額を出せ」
「なぜ急に?」
アレクシアは少し考えた。
「嫌な予感がする」
「予感?」
「クラリスなら、そこを見る」
官吏たちは顔を見合わせた。
帝国の公共事業が、少しだけ震えた。
◇
そして聖協国。
光秩院。
リリアの机には、また書類が積まれていた。
「孤児院の食事改善案です」
「子どもたちには聞きました?」
「はい」
「本当に?」
「はい。希望調査も行いました」
「えらい!」
「聖女様に褒められました」
若い修道士が嬉しそうに笑う。
リリアも笑った。
調査結果。
一位。
鶏の煮込み。
二位。
蜂蜜パン。
三位。
焼き林檎。
「……栄養改善ですよね?」
「はい」
「蜂蜜パンが二位」
「子どもの希望ですので」
「聞けとは言いましたけど、全部採用しろとは言ってません!」
「難しいですね」
「難しいです」
二人で笑った。
その時。
別の職員が入ってくる。
「聖女様。南部の給水事業について、現地から反対意見が出ています」
リリアの表情が変わった。
「何て?」
「新しい共同井戸の位置を変えてほしいと」
「理由は?」
「まだ詳しくは」
「じゃあ聞きましょう」
「ですが工事は既に始まっています」
「止められます?」
「止めると費用が」
「いくら?」
職員が答える。
リリアは少し考えた。
「まず理由を聞いてから決めます」
「承知しました」
職員は退出する。
リリアは再び孤児院の献立を見る。
まだ。
ちゃんと聞いている。
まだ。
止められる。
まだ。
自分の計画より、誰かの「待って」を優先できる。
そして机の隅には、次期最高導師候補として届いた推薦状が、また増えていた。
八千七百四十一。
だった署名は。
いつの間にか。
一万二千を超えていた。
◇
王国ラゼル。
夜。
クラリスは宿で今日の帳面を閉じた。
ヨルは隣で、東市場の串焼きを食べている。
「一本だけと言いませんでした?」
「わふ」
「それ二本目です」
「わふ」
「一本目は試食?」
「わふ!」
「……仕方ありませんね」
「クラリス様」
向かいのルシアンが呆れる。
「今の会話、成立してるんですか?」
「概ね」
「ヨルに甘すぎません?」
「必要経費です」
「何の!?」
クラリスは答えず、帳面の最後に一行を書いた。
《安く買えることと、買うべきことは違う。》
もう一行。
《町に必要なのは、立派なものではなく、明日も使われるもの。》
その横。
今日の小口配送。
売上。
運賃。
手数料。
職人の手取り。
数字は小さい。
国家を救う話でもない。
世界の陰謀もない。
それでもクラリスは、少し満足していた。
町というものは、たぶん。
大きな計画書の中ではなく。
「来週も、もう十個作るか」
そんな一言の中で。
ぼてぼてと。
生き延びていく。
その時、セバスが扉を叩いた。
「お嬢様」
「どうぞ」
入ってきたセバスの手には、王国西部の地図があった。
「次の町より、相談が届いております」
「内容は?」
「観光振興です」
クラリスは少し嫌な顔をした。
「何か?」
「最近、その言葉を聞くと警戒するようになりました」
「良い傾向かと」
「どんな町です?」
「温泉地です」
クラリスの手が止まった。
「……温泉?」
「はい」
「視察は必要ですね」
「即答!」
ルシアンが叫ぶ。
「観光振興ですから」
「今、明らかに目が輝きました!」
「現場確認です」
「泊まるんですか?」
「当然です」
「何泊?」
「最低二泊」
「調査ですよね!?」
ヨルが立ち上がった。
「わふ!」
「ヨルも行きますか?」
「わふ!」
「温泉分かってるんですか!?」
悪女令嬢の地方商業コンサル。
次の監査対象。
温泉街。
クラリス・ヨル組。
急に。
やる気が出た。




