第72話 悪女令嬢は、悪人ひとりで帳尻を合わせない
「監査です」
「三階の窓から!?」
リリアの声が。
帝都の夜に響いた。
「静かにしてください」
「クラリス様が言います!?」
宿の三階。
男は。
壁際に追い詰められていた。
目の前。
黒曜餓狼。
ヨル。
牙。
「……グルル」
「ヨル」
「……」
「噛まない」
「わふ」
すん。
牙が引っ込む。
「聞き分けいい!」
「殿下より」
「比較対象そこなんですか?」
◇
男の名は。
ハインツ・ローデル。
三十八歳。
帝国救済院。
調達管理部。
主任。
「ベルン商事を」
「推薦したのは」
「あなたですね」
クラリスが聞いた。
「……」
「黙秘は構いません」
「え?」
「ただ」
机。
置く。
一枚。
二枚。
三枚。
「こちらで確認します」
「……」
「推薦書」
「納品書」
「検品記録」
「孤児院の受領書」
「そして」
黒薔薇の帳面。
ハインツの。
顔色が変わった。
「それを」
「どこで」
「質問はこちらです」
クラリス。
淡々。
「三百枚の毛布を」
「孤児院へ納品したと」
「記録されています」
「……」
「実際は」
「約百枚」
「……」
「残り二百枚は?」
沈黙。
「売ったんですか?」
リリアが聞いた。
ハインツが。
唇を噛む。
「違う」
「では?」
「……最初から」
「なかった」
◇
ベルン商事。
寄付。
毛布三百枚。
実際。
百枚。
だが。
書類上では。
三百。
「つまり」
ルシアンが整理する。
「存在しない二百枚を」
「寄付したことにした?」
「はい」
クラリス。
「それで」
「社会貢献実績を作った」
「その実績で」
「救済院から推薦を受けた」
「帝国の公共調達へ参入した」
「そこで」
「粗悪な物資を大量に売る」
リリア。
顔をしかめる。
「最初の寄付は」
「入口だったんだ」
「そうでしょうね」
百枚。
本当に。
寄付する。
だから。
全部が嘘ではない。
子どもは。
実際に暖かくなる。
孤児院は。
実際に助かる。
救済院も。
喜ぶ。
「だから」
「疑いにくい」
クラリスが言った。
「百の善意で」
「二百の嘘を包む」
◇
「誰に頼まれたんです?」
リリアが聞く。
ハインツ。
俯く。
「ベルン商事?」
「……」
「院長?」
「違う!」
初めて。
強い声。
「院長は」
「知らない」
「ベルガー院長は」
「何も知らない!」
クラリスと。
リリア。
目が合う。
「では」
リリアが聞いた。
「あなたが全部?」
「……」
「一人で?」
「そうだ」
早い。
あまりにも。
早い。
リリアは。
少しだけ。
首を傾げた。
「クラリス様」
「はい」
「この人」
「今」
「自分を切ろうとしてます」
ハインツが。
顔を上げる。
「何を」
「院長が辞めるのと」
「同じです」
リリアは言った。
「自分一人が悪いことにして」
「終わらせようとしてる」
「違う!」
「じゃあ」
「なんで逃げたんです?」
「……」
「本当に」
「自分だけでやったなら」
「証拠を消すんじゃないですか?」
ハインツ。
黙る。
「荷物」
リリアが。
床を見る。
着替え。
金。
水。
保存食。
でも。
机の書類は。
残っている。
「逃げる準備なのに」
「書類」
「燃やしてない」
クラリスは。
何も言わない。
「それに」
リリア。
窓を見る。
「三階なのに」
「窓の鍵も」
「開いてた」
「……」
「誰かを」
「待ってた?」
沈黙。
長かった。
◇
ハインツの肩が。
落ちた。
「……娘がいる」
リリアの顔が。
変わる。
「十二歳だ」
「妻は?」
「三年前に死んだ」
「娘は今?」
「いない」
「どこです?」
「分からない」
部屋。
空気が変わる。
「昨日」
「学校から帰らなかった」
クラリスの目が。
細くなる。
「連絡は?」
「来た」
ハインツ。
震える手。
懐から。
紙。
小さい。
たった一行。
《帳簿を閉じれば、娘は帰る。》
リリアの顔から。
完全に。
笑みが消えた。
◇
「セバス」
「既に」
いない。
「え?」
リリアが。
部屋を見る。
「セバスさん?」
「先ほど出ました」
「いつ!?」
「娘という言葉が出たあたりで」
「早い!」
元傭兵。
という肩書きで。
だいたい全部を説明するのは。
そろそろ。
無理がある気がする。
◇
ハインツは。
話し始めた。
最初は。
本当に。
小さな不正だった。
「書類の日付を」
「直しただけだ」
「誰に言われて?」
「上司」
「その上司は?」
「退職した」
「次は?」
「検品を」
「一件」
「省略した」
「なぜ?」
「災害物資だった」
「急いでいた?」
「そうだ」
人を助けるため。
急ぐ。
正しい。
次。
業者の資格審査。
一部省略。
理由。
物資不足。
次。
受領数の修正。
理由。
現場が混乱していた。
「全部」
リリアが言う。
「理由がある」
「……」
「最初から」
「悪いことしようとしたわけじゃない?」
「違う」
ハインツが。
顔を覆う。
「気づいたら」
「戻れなくなっていた」
◇
黒薔薇は。
突然。
人へ。
大金を渡さない。
まず。
正しいことをさせる。
人を救わせる。
急がせる。
一つ。
手続きを飛ばす。
結果。
人が助かる。
「ほら」
「この手続き」
「いらなかったでしょう?」
次。
もう一つ。
飛ばす。
また。
人が助かる。
やがて。
飛ばすことが。
普通になる。
「そこから」
クラリスが言った。
「数字を変える」
ハインツが。
頷いた。
「最初は」
「一枚だった」
「毛布?」
「……そうだ」
「百一枚届いた」
「書類には百」
「一枚くらい」
「どうでもいいと思った」
次。
十枚。
次。
五十。
そして。
三百。
「気づいた時には」
「俺の署名が」
「何十枚も残っていた」
◇
「脅されたんですね」
リリア。
「最初は違う」
ハインツが言う。
「褒められた」
「……」
「現場が分かっている」
「融通が利く」
「あなたみたいな人が」
「救済院には必要だ」
リリアが。
黒薔薇の帳面を見る。
ハインツ・ローデル。
名前。
あった。
横。
金額ではない。
《承認》
「この人は」
「認められたかった」
「はい」
クラリス。
次。
ベルガー院長。
《名誉》
次。
別の官吏。
《恐怖》
次。
商人。
《金銭》
そして。
リリア。
《救済》
「……」
リリアは。
自分の文字を。
指でなぞった。
◇
「クラリス様」
「はい」
「これ」
「怖いです」
「でしょうね」
「だって」
「弱点じゃない」
「はい」
「いいところも」
「書いてある」
「そうです」
人を助けたい。
認められたい。
家族を守りたい。
誇りを持ちたい。
責任を果たしたい。
誰かに。
必要とされたい。
「悪いことじゃない」
「ええ」
「でも」
「使える」
「はい」
リリア。
帳面を閉じる。
「じゃあ」
「弱点をなくせばいいって」
「話じゃないんですね」
「なくしたいですか?」
「嫌です」
即答。
「私は」
「人を助けたいです」
「はい」
「それを」
「捨てたら」
「黒薔薇に負けた気がします」
クラリス。
小さく頷く。
「私も」
「そう思います」
◇
外。
騒がしい。
階段。
足音。
どん。
扉。
「失礼いたします」
セバス。
戻った。
「早っ!」
リリア。
「お嬢様」
「はい」
「お嬢様が」
「お嬢様?」
ハインツが立ち上がる。
「娘!」
「保護いたしました」
廊下。
十二歳。
少女。
「お父さん!」
「エマ!」
走る。
抱き合う。
「怪我は!?」
「ない!」
「何された!」
「部屋に」
「閉じ込められて」
「パンもらった」
「パン!?」
「ジャムも」
「待遇の情報はいりません!」
リリアが。
なぜか突っ込んだ。
少女。
泣きながら。
「おいしかった」
「そこじゃないです!」
◇
誘拐犯。
二名。
帝都警備隊が拘束。
ただし。
黒薔薇の中枢ではない。
金で。
雇われただけ。
「また」
「先がある」
ルシアンが言う。
「でしょうね」
クラリス。
「追いますか?」
「追います」
アレクシア。
いつの間にか。
入口。
「殿下」
「決裁は?」
「七十二件まで減らした!」
「まだ七十二件」
「うるさい!」
その後ろ。
帝国宰相。
「殿下」
「……」
「戻りましょう」
「今いいところだ!」
「決裁も」
「いいところでございます」
「そんな日本語みたいなことを言うな!」
◇
翌日。
帝国宮殿。
共同監査会議。
ベルガー院長。
ハインツ。
救済院職員。
調達局。
孤児院。
医療関係者。
そして。
リリア。
「院長一人を」
「処分して終わる案」
クラリス。
「反対します」
ざわ。
「ハインツ主任一人を」
「処分して終わる案も」
「反対します」
「では」
官僚が聞く。
「誰も処罰しないと?」
「いいえ」
「責任は」
「それぞれ確認します」
クラリスは。
机。
資料を並べる。
「ですが」
「一人を悪人にして」
「制度の問題を」
「埋めません」
◇
改善案。
一。
緊急調達。
速度は維持。
ただし。
後日監査を必須。
二。
寄付実績。
自己申告だけでは。
公共調達資格に使えない。
三。
受領印。
単独管理を禁止。
四。
抜き取り検査。
検査官を。
固定しない。
五。
通報。
上司を経由せず。
共同監査室へ。
直接。
届けられる。
「六」
リリアが。
手を上げた。
クラリスを見る。
「どうぞ」
「失敗を」
「早く言った人の方が」
「損をしないようにしてください」
会議室。
静か。
「具体的には?」
宰相。
「分かりません」
リリア。
正直。
「でも」
「ハインツさん」
「最初の一枚で」
「言えてたら」
「ここまで来なかったと思うんです」
◇
小さな間違い。
報告する。
怒られる。
評価が下がる。
だから。
隠す。
隠したことで。
次。
もっと。
隠す。
「間違えた時に」
「戻れる場所がないと」
リリアは言った。
「人って」
「もっと奥まで」
「逃げちゃうんじゃないでしょうか」
クラリス。
何も言わない。
宰相が。
書記官を見る。
「検討項目へ」
「はい」
リリア。
少し驚く。
「採用?」
「検討です」
クラリス。
「世の中」
「そんなに早く変わりません」
「地味」
「現実です」
◇
会議後。
廊下。
「クラリス様」
「はい」
「今日」
「何点でした?」
「採点しません」
「え?」
「卒業です」
「……」
リリア。
止まる。
「何から?」
「私に」
「点数を聞くことから」
「……」
「嫌です」
「なぜ」
「たまには」
「褒めてほしいです」
「では」
クラリス。
歩きながら。
「よくできました」
「雑!」
「ご要望通りです」
「もっとこう!」
「聖女様」
「何です?」
「面倒です」
「ひどい!」
前。
ヨル。
とことこ。
振り返る。
「わふ」
「ヨルは何点だと思います?」
「わふ」
「百点?」
「わふ」
「やった!」
「たぶん」
「肉の話です」
「クラリス様!」
◇
その日の。
夕方。
聖協国から。
正式な書簡が届いた。
白。
金。
翼と天秤。
光秩院。
最高評議会。
リリア宛。
「私?」
「はい」
封を開ける。
読む。
リリアの。
目が止まった。
「何と?」
アレクシアが聞く。
「……」
「リリア?」
「私」
紙を。
クラリスへ渡す。
そこには。
ミレア自治領。
難民救護。
感染症対策。
医療制度。
三国共同監査。
その功績。
そして。
最後。
《聖女リリア・セレスティアを、光秩院特別救済監に任ずる。》
「出世?」
ルシアン。
「たぶん」
「給料は?」
アレクシア。
「そこですか?」
「重要だ」
クラリス。
書簡の裏。
「増えますね」
「やった!」
「リリア様」
「はい」
「今」
「一番聖女らしくない顔でした」
「生活は大事です!」
◇
特別救済監。
聖協国。
各地域の。
医療。
貧困。
難民。
孤児。
災害。
救済制度。
それらへ。
直接。
意見できる立場。
「怖いです」
リリアが。
ぽつり。
「何が?」
「私の言ったことが」
「今までより」
「通るようになる」
「はい」
「それって」
「いいことですよね」
「場合によります」
「……ですよね」
リリアは。
自分の帳面を見る。
三十項目。
「クラリス様」
「はい」
「これ」
「増やしていきます」
「そうしてください」
「私が」
「変なこと言い始めたら」
「止めてください」
クラリス。
少し考える。
「嫌です」
「えっ」
「止めるのは」
「最後です」
「では?」
「まず」
「聞きます」
「何を?」
「なぜ」
「そう思ったのか」
リリアは。
少し。
笑った。
「それ」
「面倒ですね」
「人間ですから」
「またそれ」
◇
夜。
クラリスは。
一人。
机へ。
三つ。
置いた。
黒薔薇の帳面。
リリアの報告書。
そして。
東方から届いた。
三本足の鳥の手紙。
ローゼン商会は。
終わった。
黒日宮も。
崩れた。
だが。
黒薔薇は。
百年以上前から。
咲いていた。
ならば。
これは。
一人の悪人を倒せば。
終わる話ではない。
「お嬢様」
セバス。
「はい」
「東方への返書ですが」
「港へ預けました」
「そうですか」
「いつ届くかは」
「分かりません」
「構いません」
「追わないので?」
「今は」
クラリス。
窓を見る。
帝都。
無数の。
灯り。
「こちらに」
「やることがあります」
◇
同じ頃。
聖協国。
小さな村。
一人の医師が。
手紙を読んでいた。
《特別救済監リリア・セレスティア》
名前。
その下。
新しい制度。
地方診療所。
薬品供給。
巡回医療。
申請。
「聖女様が」
「こんなところまで」
医師が笑った。
◇
別の町。
孤児院。
修繕費。
承認。
「屋根が」
「直せる!」
子どもたちが。
跳ねる。
◇
別の国境。
難民。
井戸。
完成。
水。
流れる。
少女が。
両手で。
すくう。
◇
まだ。
誰も。
リリアを。
恐れていなかった。
むしろ。
待っていた。
聖女様。
次は。
こちらへ。
こちらにも。
助けてください。
リリアが。
一つ。
提案する。
十人が。
助かる。
次。
百人。
次。
千人。
正しい。
実際に。
正しい。
だから。
誰も。
止める理由がない。
◇
帝都。
宿。
リリアは。
眠る前。
帳面へ。
三十一番を。
書いた。
『正しいことが通るようになった時ほど、通らなかった声を探す。』
インク。
乾く。
隣。
ヨル。
丸くなって。
寝ている。
「ヨル」
「……わふ」
「私」
「頑張りますね」
「……わふ」
「寝てます?」
「……」
「寝てる」
リリアは。
毛布を。
ヨルへ。
少しかけた。
そして。
灯りを消した。
この夜。
聖女リリア・セレスティアは。
まだ。
自分を疑う方法を。
知っていた。
だからこそ。
この先。
彼女は。
誰よりも。
多くの人を救うことになる。
そして。
それは。
ずっと後になって。
クラリスが監査することになる。
世界で最も難しい帳簿の。
始まりでもあった。
⸻
第四章 完




