第69話 悪女令嬢は、差出人不明にも返信する
《だが、黒薔薇は我らの国にも咲いたことがある。》
朝。
クラリスは。
その一文を、三度読んだ。
「罠だな」
アレクシアが言った。
「まだ分かりません」
「差出人がない」
「はい」
「こちらの動きを知っている」
「はい」
「黒薔薇を知っている」
「はい」
「怪しい」
「怪しいですね」
「では罠だ」
「殿下」
「なんだ」
「怪しいものが全部罠なら」
クラリスは手紙を置いた。
「世の中の半分くらい罠になります」
「お前の周りだけではないか?」
「否定はしません」
ルシアンが。
封筒を光に透かしている。
「紙も違いますね」
「東方の紙にございます」
セバスが答えた。
「西方の紙は布や羊皮を原料とするものが多うございますが、こちらは植物繊維を薄く漉いたものかと」
「軽いですね」
リリアが。
横から覗く。
「それに、いい匂い」
「白檀です」
「びゃくだん?」
「香木です」
「食べられます?」
「食べないでください」
「聞いただけです!」
クラリスが。
手紙をリリアから遠ざけた。
「今ちょっと疑いましたよね?」
「八十六点」
「何もしてないのに減った!」
◇
「で」
アレクシアが。
机を指で叩く。
「どうする?」
「返信します」
「どこへ?」
「それを考えています」
「差出人不明だぞ」
「はい」
「住所もない」
「はい」
「返信できないだろう」
「普通なら」
クラリスは。
封筒を裏返した。
封蝋。
三本足の鳥。
「セバス」
「はい」
「この印に心当たりは?」
「ございます」
全員が見る。
「あるのか!」
「ただし」
セバスは。
珍しく少し迷った。
「国家の紋章ではございません」
「では?」
「東方との交易に携わった古い船乗りたちが」
「何?」
「導き烏と呼んでいた印にございます」
リリアが首を傾げる。
「鳥なのに烏?」
「三本足の黒い鳥だそうです」
「三本?」
「はい」
「歩きにくそう」
「そこですか?」
◇
古い交易記録が。
自治領庁舎の資料室から運ばれてきた。
百年以上前。
西方と東方の間には。
今より盛んな交易があった。
香辛料。
絹。
薬。
刀剣。
陶器。
酒。
「酒」
アレクシアが反応した。
「殿下」
「読んだだけだ」
「目が止まりました」
「文字を読むとはそういうことだ」
さらに。
記録を追う。
そこに。
導き烏。
正式な商会ではない。
海路を知る。
案内人。
通訳。
交易仲介。
時には。
海賊から商船を守った。
「組織なのですか?」
ルシアンが聞く。
「おそらく」
クラリスは答えた。
「ですが」
「商会でも」
「軍でも」
「国家機関でもない」
リリアが言った。
「なんか」
「ヨルみたいですね」
「……」
全員。
ヨルを見る。
窓際。
寝ている。
「どのあたりが?」
「どこにも所属してないけど」
「必要な時は助けてくれる」
「わふ」
目を閉じたまま。
返事だけした。
「聞いてた」
◇
さらに。
古い記録。
黒薔薇。
見つかった。
「ありました!」
ルシアンが叫ぶ。
百三十二年前。
東方から西方へ届いた。
警告書。
そこには。
こうあった。
《黒薔薇の印を持つ商人との取引を停止する。》
「ローゼン商会?」
リリアが聞く。
「百三十二年前ですよ」
クラリスが答える。
「現在のローゼン商会が存在する前です」
「じゃあ」
「ローゼン商会が」
「黒薔薇を作ったわけじゃない?」
「可能性が出てきました」
アレクシアの表情が変わる。
「逆か」
「はい」
クラリスが。
紙を机に置く。
「ローゼン商会が」
「黒薔薇を使った」
◇
黒薔薇。
商会名ではない。
組織名とも限らない。
もっと古い。
「思想?」
ルシアンが言う。
「あるいは」
クラリスは考える。
「商売の方法」
「方法?」
「国境を利用する」
「制度の隙間を利用する」
「人の善意を利用する」
「土地を数字だけで評価する」
「そして」
「自分たちは表に出ない」
黒薔薇は。
一つの会社ではない。
会社が潰れても。
残る。
人が死んでも。
残る。
名前が変わっても。
また。
別の場所で咲く。
「雑草みたいですね」
リリアが言った。
「薔薇です」
「比喩です!」
「分かっています」
「クラリス様、最近ちょっと意地悪です」
「元からです」
「認めた!」
◇
「でも」
リリアが。
古い警告書を見る。
「百年以上前からあるなら」
「全部なくすのは」
「難しいんですか?」
「おそらく」
「じゃあ」
「ずっと戦う?」
クラリスは。
少し考えた。
「いいえ」
「え?」
「全部なくそうとすると」
「たぶん」
「こちらが先に疲れます」
「では?」
「咲いたら」
「見つけます」
「見つけたら?」
「抜きます」
「また咲いたら?」
「また抜きます」
リリアが。
ぽかんとする。
「地味ですね」
「現実は」
「だいたい地味です」
「もっとこう」
「一度倒したら世界が平和に、とか」
「なりません」
「夢がない!」
「聖女様がそれを言います?」
◇
クラリスは。
便箋を一枚出した。
「本当に書くのか?」
アレクシアが聞く。
「はい」
「宛先は?」
「導き烏」
「届くのか?」
「分かりません」
「どうやって送る」
「港です」
「雑!」
「百三十二年前の記録では」
クラリスは資料を指す。
「導き烏への連絡は」
《海へ返せ》
とある。
「海に投げるの?」
リリアが言った。
「それではゴミです」
「クラリス様でもそこ気にするんですね」
「当然です」
実際には。
港の交易所に。
三本足の鳥を彫った小箱があるらしい。
そこへ。
手紙を入れる。
「まだ残っているかは」
「分かりませんが」
「面白い!」
アレクシアが立ち上がる。
「港へ行こう」
「殿下」
「なんだ」
「今日は行きません」
「なぜ!」
「先に自治領の報告書です」
「昨日休んだだろ!」
「だから今日は働きます」
「休ませなければよかった!」
「それは違います!」
リリアが。
珍しく強く言った。
「休みは必要です!」
「お前はどちら側だ!」
「休暇側です!」
◇
クラリスは。
手紙を書いた。
短く。
《黒薔薇について、我々の知る記録を確認した。》
次。
《貴殿の持つ記録との照合を希望する。》
そして。
一度。
羽根ペンを止める。
「何を書くんです?」
リリアが聞く。
「本人確認です」
「本人?」
「相手が」
「本当に黒薔薇を知る者か」
クラリスは。
一文を加えた。
《百三十二年前、東方が黒薔薇との取引を停止した理由を示されたい。》
「なるほど」
ルシアンが頷く。
「こちらの資料には」
「取引停止としか書かれていません」
「はい」
「理由を知っていれば」
「少なくとも」
「古い記録へアクセスできる人物」
「その可能性が高まります」
リリアが感心する。
「クラリス様」
「はい」
「手紙でも監査するんですね」
「差出人不明ですから」
「普通は無視しません?」
「気になるので」
「それ」
「監査じゃなくて好奇心では?」
「……」
クラリスが。
羽根ペンを止めた。
「九十点」
「上がった!」
◇
午後。
自治領庁舎。
鉄路計画について。
最初の話し合いが始まった。
クラリスは。
地図を広げる。
「まず」
「鉄路を通すことを」
「前提にしません」
帝国の技師が。
困った顔をする。
「では何を検討するのです?」
「必要かどうかです」
「必要だから計画を」
「誰にとって?」
「……」
「帝国?」
「商人?」
「自治領?」
「子ども?」
「高齢者?」
「薬草農家?」
「森?」
技師が。
最後で止まる。
「森にも聞くのですか?」
「直接は難しいですね」
「でしょう」
「ですので」
クラリスは。
バルガスを見る。
「森を知る人に聞きます」
◇
猟師。
薬草採り。
木こり。
羊飼い。
子ども。
老人。
次々に。
話を聞いた。
「ここは崩れる」
「こっちは冬に雪が深い」
「この谷は鹿が通る」
「この辺りは春に薬草が出る」
「そこは駄目!」
十歳の少年が。
地図を指差した。
「なぜ?」
クラリスが聞く。
「秘密基地がある!」
「……」
技師。
沈黙。
クラリス。
「重要ですね」
「重要なのか?」
アレクシアが小声で聞く。
「本人には」
「確実に」
少年が。
胸を張った。
「絶対だめ!」
「分かりました」
クラリスは。
地図へ小さく印を付けた。
《子どもの遊び場》
「本当に書いた!」
リリアが笑う。
「暮らしの調査ですから」
◇
夕方。
一本の。
仮の線ができた。
最短ではない。
少し遠回り。
工事費も。
おそらく増える。
だが。
水源を避ける。
薬草地を避ける。
獣道を避ける。
崩れやすい斜面を避ける。
そして。
「秘密基地も」
「避けました」
少年が。
満足そうに頷いた。
「よし」
「そこが最終承認なのか?」
アレクシアが言う。
「重要な利害関係者です」
「十歳だぞ」
「十歳も住民です」
リリアが。
嬉しそうに。
帳面を開いた。
「今の書こう」
「休みではありませんよ」
「分かってます!」
◇
二十六番。
『未来のために作るものほど、今ここにいる人を踏まない。』
リリアは。
書いたあと。
少し考えた。
その下へ。
もう一つ。
二十七番。
『子どもの秘密基地も、地図には載らない暮らしである。』
「それも書くのですか?」
クラリスが聞く。
「大事です」
「そうですね」
珍しく。
即答だった。
◇
夜。
宿。
ヨルが。
クラリスの足元で寝ている。
リリアは。
帳面を読み返していた。
「増えましたね」
クラリスが言う。
「はい」
「最初は?」
「三つくらいでした」
「今は二十七」
「はい」
リリアが。
少し嬉しそうに笑う。
「私」
「前より」
「ちゃんと聖女になってます?」
クラリスは。
すぐには答えなかった。
「クラリス様?」
「聖女が」
「何なのかは」
「私には分かりません」
「えー」
「ですが」
クラリスは。
リリアの帳面を見る。
「以前より」
「自分で考える人にはなりました」
リリアが。
静かになる。
「……それ」
「褒めてます?」
「かなり」
「百点?」
「九十点です」
「そこは変わらない!」
ヨルの耳が。
ぴく。
そして。
また寝た。
◇
三日後。
一行は。
ミレア自治領を発った。
接種率。
十九パーセントから。
三十八パーセント。
全員ではない。
断った人もいる。
そして。
その人たちにも。
医療支援は続いている。
死者。
十二名から。
増えなかった。
バルガスが。
馬車の前に立つ。
「聖女」
「はい」
「また来るか?」
「嫌じゃなければ」
「面倒だから」
「たまにな」
リリアが笑う。
「はい」
「たまに来ます」
「公爵令嬢」
「はい」
「鉄路」
「まだ決めていません」
「分かっとる」
バルガスが笑う。
「だから」
「任せられる」
クラリスは。
少しだけ頭を下げた。
◇
馬車が。
村を離れる。
ヨルは。
窓から顔を出している。
「危ないですよ」
「わふ」
「顔を戻してください」
「わふ」
「聞いてます?」
「わふ」
リリアが笑う。
「クラリス様」
「何でしょう」
「次はどこです?」
「帝都へ戻ります」
「帝国!」
アレクシアが。
腕を組む。
「ようやく私の国へ帰るか」
「殿下」
「なんだ」
「今まで何だったのです?」
「出張だ」
「長い出張ですね」
「お前たちのせいだ!」
馬車の中に。
笑い声。
その後ろ。
山。
森。
市場。
秘密基地。
少しずつ。
遠くなる。
◇
同じ頃。
遥か東。
海の向こう。
古い社。
風が。
鈴を鳴らした。
ちりん。
白い指が。
一枚の紙を受け取る。
「返事が来たぞ」
白い耳が。
ぴくりと動いた。
「西の悪女からか?」
まだ若い声。
楽しそうだった。
紙の匂いを嗅ぐ。
「……墨ではないな」
そして。
少し離れたところ。
縁側で。
一人の女が。
眠っていた。
白装束。
長い黒髪。
その額には。
三本足の鳥を模した。
小さな飾り。
「御巫様」
返事はない。
「また夢か」
白い耳の人物が。
ため息をつく。
眠る女の指が。
わずかに動いた。
「……違う」
掠れた声。
「何が?」
「黒薔薇ではない」
女は。
目を閉じたまま。
言った。
「もっと」
「先を見た」
「先?」
風。
鈴。
ちりん。
「ずっと」
「先の世」
女の眉が。
僅かに歪む。
「皆」
「優しい」
「……?」
「皆」
「正しい」
「なのに」
一滴。
涙が。
頬を伝った。
「どうして」
「こんなに」
「息が苦しいのだろう」
白い耳が。
動かなくなった。
御巫は。
まだ。
夢の中にいる。
見ているのは。
何百年も。
何千年も先。
剣も。
魔法も。
皇宮も。
今とは違う。
遠い未来。
誰も。
クラリスという名を知らない時代。
その街を。
制服を着た少女たちが。
歩いていた。
そのうちの一人が。
ふと。
立ち止まる。
鞄には。
小さな。
黒い狼の飾り。
そして。
少女は。
誰にも聞こえない声で。
呟いた。
「……普通って」
「誰が決めたんだろ」
夢は。
そこで途切れた。
東方の御巫は。
ゆっくり。
目を開いた。
「……まだ」
「呼ぶには早い」
白い耳の人物が尋ねる。
「誰を?」
御巫は。
西を見た。
「帳簿を持つ」
「悪女を」
海は。
まだ。
二人の間にあった。




