第67話 悪女令嬢は、山の値段をつけない
《東方へ渡れ。》
黒い布に刺繍された文字を。
クラリスは、もう一度見た。
「東方とは」
リリアが尋ねる。
「海の向こうですか?」
「おそらく」
セバスが答えた。
「王国の古い交易記録には、東方諸国との往来がございます」
「どんな国なんです?」
「刀を帯びた武人がいるとか」
ルシアンが資料をめくる。
「山や川にも神がいると考えるとか」
「神様がいっぱい?」
「八百万、と」
「八百万!?」
リリアが目を丸くした。
「そんなに教会建てたら大変じゃないですか!」
「そういう意味ではないと思います」
クラリスが言った。
「ですよね」
アレクシアが腕を組む。
「しかし、ローゼンの残党が東方へ逃げたということか?」
「まだ分かりません」
クラリスは布を畳んだ。
「《東方へ渡れ》が」
「逃亡命令なのか」
「商品を送れという意味なのか」
「人を送れという意味なのか」
「あるいは」
「ただの偽装か」
「また保留か」
「はい」
アレクシアがため息をつく。
「お前と話していると、犯人を捕まえるまでが長い」
「殿下と話していると、犯人でない人まで捕まりそうです」
「私を何だと思っている」
「行動力のある皇女殿下です」
「褒められていないな?」
「半分ほど」
◇
まずは。
森だった。
魔物化した動物たちが。
どこで首輪を付けられたのか。
ヨルを先頭に。
クラリス。
アレクシア。
セバス。
ルシアン。
そして。
「私も行きます」
リリア。
「残ってください」
「なんでですか!」
「昨日、魔力を使いすぎています」
「寝ました!」
「何時間」
「……五時間」
「残ってください」
「六時間!」
「今増えましたね」
「体感です!」
「時間に体感を導入しないでください」
リリアが。
むう、と頬を膨らませた。
その時。
バルガスが言った。
「聖女」
「はい」
「残ってくれ」
リリアが振り返る。
「村の連中が」
「お前に聞きたいことがあるそうだ」
「接種の?」
「それもある」
少し間。
「昨日」
「断った連中もな」
リリアの表情が変わった。
「……分かりました」
そしてクラリスを見る。
「行ってらっしゃい」
「はい」
「絶対帰ってきてくださいね」
「山へ調査に行くだけです」
「でも」
リリアはヨルを見る。
「ヨルも行くし」
「わふ」
「クラリス様も行くし」
「はい」
「アレクシア様も」
「なぜ私だけついでみたいなのだ」
「なんとなく」
「聖女!」
◇
山道。
ヨルが。
何度も地面の匂いを嗅ぐ。
「わふ」
進む。
「わふ」
曲がる。
「便利だな」
アレクシアが言った。
「帝国にも一頭欲しい」
ヨルが。
ぴたりと止まった。
振り返る。
「……冗談だ」
また歩き始めた。
「今、断られましたね」
「狼に?」
「断る権利は種族を問いません」
「リリアがいないのに、その理屈を使うな」
やがて。
ヨルが止まった。
岩壁。
何もない。
「ここ?」
ルシアンが首を傾げる。
ヨル。
前脚で。
地面を掻いた。
ざっ。
ざっ。
木の板。
「地下です」
クラリスが言った。
◇
隠し倉庫。
中は。
ほとんど空だった。
「逃げた後か」
アレクシアが槍を構えたまま言う。
「そのようです」
机。
椅子。
首輪を作った工具。
黒陽粉。
瘴気石。
そして。
大量の紙。
「帳簿だ」
ルシアンが。
なぜか嬉しそうに言った。
アレクシアが見る。
「お前も染まってきたな」
「え?」
「普通、敵の秘密基地で帳簿を見て喜ばない」
「……」
ルシアンが。
クラリスを見る。
「気を付けます」
「なぜ私を見るのです?」
◇
帳簿には。
奇妙な数字が並んでいた。
薬草。
価格。
収穫量。
土地面積。
そして。
《ミレア山林開発計画》
「これ……」
ルシアンが。
息を呑む。
山を切り開く。
薬草畑へ変える。
現在の三倍。
さらに。
黒陽粉を肥料として使用。
五年後には。
収穫量七倍。
「バルガス殿が断った計画ですね」
「はい」
だが。
クラリスが見ていたのは。
利益ではなかった。
「この数字」
「何です?」
「山の価値です」
帳簿には。
山全体の価値が。
金貨で記されている。
木材。
薬草。
土地。
水源。
すべて。
金額換算。
「随分安いな」
アレクシアが言った。
「だから買収しようと?」
「違います」
クラリスが。
別紙を出した。
「計算から」
「抜けているものがあります」
「何だ?」
「森です」
「……森?」
木材は入っている。
薬草も。
土地も。
だが。
「虫」
「鳥」
「獣」
「土が水を蓄えること」
「木の根が山崩れを防ぐこと」
「住民が山菜を採ること」
「子どもが遊ぶこと」
「何百年も、この土地で暮らしてきたこと」
ルシアンが。
帳簿を見る。
「値段が」
「付けられない」
「はい」
「だから」
クラリスは言った。
「ゼロとして扱った」
アレクシアが。
顔をしかめた。
「値段がないものは」
「価値がない?」
「この帳簿では」
「そうなっています」
◇
さらに。
奥。
壁に。
地図が貼られていた。
ミレア自治領。
赤い線。
山を。
横断している。
「街道?」
「違います」
セバスが答える。
「鉄路の計画かと」
「鉄路?」
帝国で。
研究が始まったばかりの。
鉄の軌道。
大量の荷物を。
魔導機関で運ぶ技術。
完成すれば。
交易は変わる。
「東方へ」
ルシアンが。
地図を追う。
ミレア。
山。
港。
海。
その先。
東。
「繋がってる……」
黒陽粉。
薬草。
自治領。
山林開発。
港。
東方。
「ローゼン残党が欲しかったのは」
クラリスが言った。
「薬草だけではなかった」
「道か」
アレクシアが答える。
「はい」
◇
「なら」
アレクシアが言った。
「鉄路を作ればよいのではないか?」
クラリスを見る。
「ローゼンではなく」
「三国で」
「適切に」
合理的だった。
交易は増える。
自治領も豊かになる。
薬草も売れる。
東方との交流もできる。
「それを」
クラリスが言った。
「私たちが決めるのですか?」
「……」
アレクシアが。
黙った。
「この山は」
「私たちのものではありません」
「だが」
「自治領にとっても利益になる」
「かもしれません」
「なら」
「聞きましょう」
「誰に」
クラリスは。
当然のように答えた。
「暮らしている人に」
◇
村へ戻ると。
妙な光景になっていた。
「次の方!」
リリアが。
机に座っている。
行列。
二十人ほど。
「これは?」
クラリスが聞く。
「あ」
「お帰りなさい!」
リリアが手を振った。
「相談会です」
「何の?」
「いろいろです」
老人が言う。
「腰が痛い」
女性。
「娘の接種について」
青年。
「中央の学校へ行きたい」
男。
「羊が飯を食わん」
「最後は獣医では?」
「聖女なら何とかなるかと」
「なりません!」
村人が。
笑った。
昨日。
「聖女はいらん」
と言われた人が。
今日は。
羊の相談をされている。
クラリスは。
少しだけ笑った。
「何ですか?」
「いえ」
「採点?」
「しません」
「怪しい」
◇
夜。
村の集会所。
クラリスは。
鉄路計画を。
全部話した。
利益。
危険。
ローゼン商会の狙い。
東方交易。
山林への影響。
「我々なら」
バルガスが言った。
「断ると思ったか?」
「少し」
クラリスが答える。
「違う」
「え?」
「昔の計画は断った」
「山を全部」
「薬草畑にする話だったからな」
バルガスは。
地図を見る。
「道そのものが」
「悪いわけじゃない」
若い男が。
手を上げる。
「鉄路が来たら」
「俺たちの木工も売れる?」
「可能性はあります」
女性。
「町の学校へ」
「子どもを通わせられる?」
「運行方法次第では」
老人。
「観光客が増えたら」
「蜂蜜も売れるか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私は商人ですが」
クラリスは言った。
「未来を保証する商人ではありません」
少し笑い。
そして。
バルガスが言った。
「では」
「山を壊さずに」
「道を通せるか?」
クラリスは。
地図を見る。
「調べましょう」
「できるか?」
「分かりません」
「できなかったら?」
「作りません」
「儲かるのに?」
「はい」
クラリスは。
帳簿を閉じた。
「利益が出ることと」
「やるべきことは」
「同じではありませんから」
◇
集会の帰り。
リリアが。
クラリスの横を歩く。
「クラリス様」
「はい」
「今日」
「山にも値段を付けてましたね」
「ローゼン商会が?」
「はい」
「でも」
「付けられなかったものが」
「いっぱいあった」
「そうですね」
夜の山。
虫の声。
川。
木々。
遠く。
村の灯り。
「私」
「聖女になった時」
「人を救った数を」
「数えてました」
クラリスが。
リリアを見る。
「一人」
「十人」
「百人」
「たくさん救えたら」
「良い聖女だと思ってた」
「今は?」
リリアは。
少し考えた。
「数えられないものも」
「ちゃんと見たいです」
クラリスは。
答えなかった。
ただ。
「それ」
「帳面に書いておいた方がいいですよ」
「はい!」
リリアが笑った。
◇
二十三番。
『数えられるものだけが、大切なものではない。』
二十四番。
少し迷って。
『人を救った数だけで、自分を正しいと思わない。』
書いた。
その時のリリアは。
まだ知らなかった。
いつか。
何千人。
何万人という人々を救い。
その数字そのものが。
彼女の正しさを。
支えるようになることを。
◇
翌朝。
「今日は?」
リリアが聞いた。
「休みます」
クラリスが答えた。
「……え?」
「聞こえませんでした?」
「クラリス様が?」
「はい」
「休む?」
「はい」
リリアが。
クラリスの額へ手を当てた。
「熱は」
「ありません」
「聖魔法を」
「不要です」
アレクシアまで来た。
「何があった」
「何もありません」
「クラリスが休むと言っている」
「私も聞いた」
「天変地異か?」
「殿下」
「なんだ」
「八十八点です」
「なぜ私が採点される!」
クラリスは。
市場の方を見る。
「自治領の調査は終わりました」
「午後まで」
「予定を入れません」
リリアの顔が。
ゆっくり。
明るくなる。
「ということは」
「はい」
クラリスは。
小さく息を吐いた。
「街を見ましょう」
市場。
蜂蜜菓子。
山羊チーズ。
木工細工。
串焼き。
温泉。
そして。
すでに肉屋の方向を向いている。
一匹。
「ヨル」
「わふ」
「まだ何も言っていません」
「わふ」
「朝食は食べましたね?」
「……」
目を逸らした。
「食べましたね?」
尻尾。
ぱたん。
「返事になっていません」
リリアが笑う。
「クラリス様」
「何でしょう」
「今日は」
「採点なしにしません?」
クラリスは。
少し考えた。
「……検討します」
「休みの日までそれですか!」
久しぶりに。
世界を救わない一日が。
始まろうとしていた。




