第63話 悪女令嬢は、聖女様を八十六点と採点する
「速い!」
帝国領。
国境へ向かう馬車の中で。
アレクシアが叫んだ。
「急げと仰ったのは殿下です」
向かいでは。
クラリスが平然と帳簿を読んでいる。
「限度がある!」
「馬に仰ってください」
「お前は怖くないのか!」
「文字が読みにくいです」
「そういう話ではない!」
その横。
ルシアンは書類の束を抱えたまま。
青い顔をしていた。
「僕は……少し……酔いました」
「窓を開けろ!」
「殿下」
「なんだ!」
「書類が飛びます」
「人命と書類どっちが大事だ!」
「今回は人命です」
「今回は!?」
御者台の横。
セバスだけが。
いつも通りだった。
ヨルは。
もっといつも通りだった。
寝ていた。
◇
「見えました!」
ルシアンが窓の外を指した。
国境。
白い天幕。
聖協国の旗。
王国の旗。
その周囲を。
何百人もの人が動いている。
「止めろ!」
アレクシアが叫ぶ。
「まだです」
クラリスが言った。
「何が!」
「国境門を通過していません」
「分かっている!」
「殿下なら飛び降りかねませんので」
「私を何だと思っている!」
「皇女殿下です」
「そこだけ正確なの腹立つな!」
馬車が。
ようやく止まった。
クラリスが降りる。
そして。
「クラリス様!」
声がした。
振り返る。
白い聖衣。
だったもの。
泥。
血。
袖には薬液の染み。
髪は乱れ。
目の下には隈。
片方の靴には。
何だか分からない草まで付いている。
聖女リリアが。
走ってきた。
「リリア様」
「クラリス様!」
クラリスは。
頭から足元まで。
一度見る。
「……」
「何ですか」
「いえ」
「今、すごく見ましたよね」
「確認です」
「何の?」
「原型が残っているか」
「あります!」
アレクシアが馬車から降りてきた。
「随分と立派な聖女になったではないか」
「これ褒められてます?」
「私なら褒めている」
「では、ありがとうございます」
リリアは。
そこで少しだけ。
胸を張った。
「クラリス様」
「はい」
「私」
「今回は」
一度。
言葉を区切った。
「ちゃんと、自分で考えました」
クラリスは。
リリアの後ろを見る。
三色に分けられた天幕。
走り回る医師。
受付を手伝う難民。
粥を配る女性。
水を運ぶ少年。
そして。
簡易机に積まれた。
大量の診療記録。
「そのようですね」
ほんの少し。
笑った。
リリアの顔が明るくなる。
「百点ですか?」
「八十六点です」
「低い!」
「十分高得点です」
「十四点は何ですか!」
「これから監査します」
「そこまで!?」
アレクシアが吹き出した。
「やはり似た者同士ではないか」
「違います!」
二人同時だった。
◇
「まず、これを」
リリアが。
布に包んだ一枚の輸送票を差し出した。
クラリスの顔から。
笑みが消える。
黒陽粉。
バルツ商会。
ルクス交易輸送社。
そして。
L指定。
「倉庫は」
「封鎖しました」
「中には」
「誰も入れていません」
「帳簿は」
「そのまま」
「関係者は」
「別々の場所で待機してもらっています」
「口裏合わせ防止?」
「はい」
クラリスが。
リリアを見る。
「一点追加します」
「やった」
「八十七点」
「一個ずつなんですか!?」
「監査は積み上げです」
「採点まで帳簿みたいにしないでください!」
◇
旧染料保管倉庫。
扉の前には。
すでにエレノアとルーメンが待っていた。
「クラリス・アルヴェイン様」
エレノアが頭を下げる。
「お噂は」
「聞かない方がよろしいかと」
「では、実物を拝見します」
「それが確実です」
リリアが小声で言った。
「この二人」
「会って三秒で何か通じてません?」
「怖いな」
アレクシアも小声で答えた。
倉庫へ入る。
割れた樽。
黒陽粉。
排水溝。
クラリスは。
ほとんど喋らなかった。
見る。
記録する。
見る。
セバスへ指示。
また見る。
「クラリス様」
リリアが尋ねる。
「何か分かりました?」
「分からないことが分かりました」
「……はい?」
「数量が合いません」
帳簿を開く。
「帝国から輸出された黒陽粉は」
三百樽。
「はい」
「聖協国側の受領記録は」
五百樽。
「え?」
アレクシアが。
樽を見る。
「二百樽、増えている?」
「帳簿上は」
「粉が勝手に増えることは」
「ございません」
セバスが答える。
「小麦粉なら水を入れれば増えるがな」
「殿下」
「冗談だ」
「今ですか?」
「重い空気だったのでな!」
クラリスは。
一枚の輸送票を裏返した。
「セバス」
「はい」
「ここを」
紙の隅。
削られた印。
セバスが目を細める。
「……ローゼン商会」
リリアが顔を上げる。
「ローゼン商会?」
「王国で」
クラリスが答えた。
「瘴気を帯びた薬草の流通に関与していた商会です」
「でも」
ルシアンが言う。
「ローゼン商会は帝国側の協力組織だったはずです」
「その認識自体を」
クラリスは輸送票を見る。
「一度、捨てましょう」
「え?」
「帝国の手先」
「聖協国の陰謀」
「王国の商会」
「先に名前を付けると」
「帳簿まで、その名前に合わせて読んでしまいます」
リリアが。
静かに頷いた。
「決めつけない」
「はい」
「怒っても?」
「構いません」
「疑っても?」
「もちろん」
「でも」
「犯人を決めるのは」
「最後です」
リリアは。
小さく息を吐いた。
「……はい」
「一点追加」
「今ので?」
「八十八点です」
「ちょっと嬉しい」
◇
その夜。
国境の臨時庁舎に。
一つの長机が置かれた。
王国。
帝国。
聖協国。
三国の書類が。
同じ机へ並ぶ。
エレノアが言った。
「何から始めます?」
「亡くなられた方から」
クラリスは答えた。
リリアの表情が。
変わる。
「十三人です」
「お名前は」
「全部、分かります」
即答だった。
クラリスは。
ほんの少しだけ。
リリアを見る。
「では」
「数字を」
「人へ戻しましょう」
◇
一人目。
六十八歳。
男性。
二人目。
五十一歳。
女性。
三人目。
三十四歳。
男性。
名前。
年齢。
家族。
居住場所。
発症時刻。
飲水量。
食事。
服薬。
一人ずつ。
帳簿へ戻していく。
十一人目。
十二人目。
そして。
十三人目。
四歳。
男児。
リリアの羽根ペンが。
止まった。
「この子」
声が。
少しだけ震える。
「私が」
「最後まで」
クラリスは。
何も言わなかった。
急かさない。
慰めない。
ただ。
待った。
「……書きます」
「はい」
リリアは。
名前を書いた。
小さな文字だった。
十三人目の記録が。
完成する。
「リリア様」
「はい」
「ありがとうございました」
それだけ。
リリアは。
少しだけ目を伏せた。
「はい」
◇
「待ってください」
ルシアンだった。
十三枚の記録を。
一枚目から見直している。
「どうしました?」
「この人たち」
紙を並べる。
「難民居住区へ入った日が」
「同じです」
全員。
三日前。
クラリスが。
すぐ別の資料を取る。
「最初に発症した四十七人も確認を」
入居記録。
照合。
「多い」
ルシアンが言った。
「三日前に入居した人が集中しています」
「井戸なら」
アレクシアが眉をひそめる。
「以前から住んでいる者にも、同じように出るはずではないか?」
「はい」
クラリスが答える。
「つまり」
「井戸水だけではない」
食料。
毛布。
薬。
生活用品。
新規入居者だけに。
配られたもの。
リリアが。
一枚の配給表を引き寄せる。
「これ」
浄水用魔石。
「新しく来た人だけに?」
「はい」
ルーメンが答える。
「井戸水へ慣れるまでの安全措置として」
沈黙。
人を守るために。
配られたもの。
「現物は」
「保管庫にあります」
◇
箱が。
運び込まれた。
クラリスは。
手袋をする。
魔石そのものには触れず。
箱を見る。
「製造者」
空欄。
「変ですね」
リリアが言う。
「はい」
「認可品なのに?」
「はい」
「どうして通ったんでしょう」
クラリスは。
箱の右上を見る。
L指定。
「通常審査を」
「通っていない可能性があります」
そして。
箱の底。
小さな刻印。
黒い。
薔薇。
セバスの顔が変わった。
「ローゼン商会の旧印にございます」
誰も。
しばらく喋らなかった。
黒陽草。
瘴気。
魔物。
黒陽粉。
浄水用魔石。
別々に見えていたものが。
一本の線になり始めている。
「許せない」
リリアが。
呟いた。
クラリスが見る。
「人を苦しませて」
リリアの手が。
ぎゅっと握られる。
「そのあと」
「人を救うための仕組みにまで」
「こんなものを紛れ込ませるなんて」
「はい」
「絶対に」
「許せません」
その怒りを。
クラリスは止めなかった。
「私もです」
リリアが顔を上げる。
「だからこそ」
クラリスは。
黒い薔薇を見る。
「最後まで」
「間違えないようにしましょう」
◇
翌朝。
「新規発症、十二名!」
医師が報告する。
「昨日の同時刻は?」
「百三十七名です!」
井戸の使用停止。
浄水用魔石の回収。
治療体制の確立。
患者数は。
明らかに減り始めていた。
死亡者。
十三名。
増えていない。
そして。
重症者も。
百二十一人から。
三十四人まで減った。
「止まった……」
誰かが言った。
その言葉が。
広がる。
泣く人。
抱き合う人。
祈る人。
「聖女様!」
一人の男性が叫んだ。
「聖女様が救ってくださった!」
次々に。
声が上がる。
「聖女様!」
「ありがとう!」
「聖女様!」
リリアが。
慌てた。
「違います!」
医師を指差す。
「先生たちも!」
修道士。
「皆さんも!」
水を運んだ少年。
「この子も!」
粥を作った女性。
「この方も!」
そして。
難民たちを見回す。
「皆でやったんです!」
それでも。
人々は。
聖女の名を呼んだ。
聖女。
聖女。
聖女。
その中心で。
リリアは。
困ったように笑っていた。
少し後ろ。
クラリスは。
黙って見ている。
「どうした」
アレクシアが尋ねた。
「いえ」
「八十八点の聖女様が」
「大活躍ではないか」
「そうですね」
「嬉しくないのか?」
「とても」
クラリスは。
本当に。
嬉しかった。
人に頼っていた少女が。
自分で考えた。
自分で判断した。
人を動かした。
制度を使った。
救えなかった十三人からも。
目を逸らさなかった。
だからこそ。
クラリスは。
ほんの少しだけ。
怖かった。
「何がだ?」
アレクシアが。
小さな声で聞く。
「成功です」
「成功?」
「人は」
クラリスは。
人々に囲まれるリリアを見た。
「失敗した時には」
「自分を疑えます」
間違えたのではないか。
別の方法があったのではないか。
もっと考えるべきだったのではないか。
「ですが」
正しい判断をして。
多くの人を救って。
感謝されて。
結果まで出た時。
「自分を疑うことは」
「ずっと難しくなります」
アレクシアは。
しばらく黙っていた。
「……お前は」
「成功しても面倒なのだな」
「職業病です」
「嫌な職業だ」
「公爵令嬢です」
「絶対違うだろ」
クラリスは。
少し笑った。
「ですが」
もう一度。
リリアを見る。
「今は」
「喜びましょう」
「ああ」
アレクシアも笑った。
「よくやった」
◇
聖女リリアは。
この日。
一つの答えを手に入れた。
一人で奇跡を起こすより。
百人が動ける仕組みを作った方が、多くの人を救える。
それは。
間違っていなかった。
むしろ。
正しかった。
正しかったからこそ。
深く。
彼女の中へ残った。
いつか。
聖女が女教皇と呼ばれる頃。
彼女は。
何度も同じことを言うようになる。
――私は。
――あなたたちを支配したいのではありません。
――ただ。
――誰も取り残されない仕組みを作りたいだけです。
この朝。
その言葉には。
まだ。
一片の嘘もなかった。
だから。
誰にも。
その小さな芽が。
後にどこまで伸びるのかは。
分からなかった。




