第62話 聖女様は、奇跡を分業する
西部国境難民居住区。
リリアを乗せた馬車が到着した時。
患者は、すでに五百人を超えていた。
「……」
馬車から降りたリリアは、一瞬だけ言葉を失った。
夜だというのに、人が多い。
咳。
泣き声。
家族の名前を呼ぶ声。
簡易天幕には入りきらず、毛布に包まれた人々が地面にまで横たわっている。
「聖女様!」
医師が駆けてきた。
「現在、患者五百十二名!」
「重症は?」
「八十三名です!」
「子どもは?」
「百四十七名!」
「亡くなった方は」
医師が、一瞬だけ黙った。
「……十一名です」
十一。
リリアは目を閉じた。
数字にしてはいけない。
十一人だ。
誰かの父親で。
母親で。
子どもで。
名前のある十一人。
「分かりました」
目を開く。
聖衣の袖をまくった。
「始めましょう」
◇
「聖女様!」
「こちらを先に!」
「この子をお願いします!」
「母が息をしていないんです!」
「聖女様!」
四方から手が伸びる。
以前のリリアなら。
たぶん、最初に呼ばれた人のところへ走っていた。
一人を治して。
次へ走って。
また一人を治して。
自分が倒れるまで、それを繰り返していただろう。
だが。
「待ってください!」
リリアが声を張った。
周囲が、一瞬だけ静かになる。
「私一人では、五百人を診られません」
ざわめきが起こった。
「でも」
リリアは地面へしゃがんだ。
石を拾う。
土の上に、三つの大きな円を描いた。
「五百人を、五百人のまま診る必要もありません」
医師たちが集まってくる。
「赤」
一つ目。
「黄」
二つ目。
「白」
三つ目。
「呼吸が苦しい人。意識がおかしい人。自分で立てない人は赤」
「発熱や咳があっても、自分で歩ける人は黄」
「症状が軽い人と、付き添いの家族は白」
医師の一人が気付いた。
「重症度で分けるのですか」
「はい」
「ですが、誰が判定を?」
「最初だけ先生方にお願いします。判定の仕方を、修道士さんたちにも教えてください」
ルーメンがすぐに動いた。
「聞いたな! 受付を三つに分ける!」
「待ってください」
リリアが呼び止める。
「もう一つあります」
「何でしょう」
「元気な人を集めてください」
「元気な人?」
「はい」
リリアは難民居住区を見回した。
「字が読める人」
「料理ができる人」
「子どもの面倒を見られる人」
「荷物を運べる人」
「何でもいいです」
ルーメンが目を瞬く。
「難民の方々に、働いてもらうのですか」
「違います」
リリアは首を振った。
「助けてもらうんです」
そして、少しだけ笑った。
「私たちだけじゃ、無理ですから」
◇
三十分後。
混乱していた居住区に、小さな流れが生まれた。
「歩ける方はこちら!」
「赤い布の天幕へ!」
「水は一人一杯ずつ!」
「子どもとはぐれた方は、この紙に名前を書いてください!」
字の読める青年が受付をする。
年配の女性たちが、大鍋で粥を作る。
十五歳ほどの少年が、水桶を運ぶ。
母親たちが、治療中の親に代わって幼い子どもを見る。
医師は診察する。
修道士は運ぶ。
役人は記録する。
誰か一人が。
全部をやらなくていい。
「聖女様」
ルーメンが、少し驚いた顔をしていた。
「これは光秩院で学ばれた方法ですか?」
「いいえ」
「王国で?」
「いいえ」
「では」
「今、考えました」
「……」
「何ですか」
「あなたは時々、恐ろしい方ですね」
「今それ言います?」
◇
最初の重症患者。
七十代の男性。
呼吸困難。
唇が紫色になっている。
リリアは胸へ手を当てた。
金色の光。
だが。
以前のように、全力では使わない。
短く。
必要なだけ。
呼吸が戻る。
「先生」
「はい」
「お願いします」
「え?」
「次の治療です」
「聖女様は?」
「次へ行きます」
「まだ治っていません!」
リリアは男性を見る。
「おじいさん」
「……はい」
「息、できます?」
「でき……ます」
「なら」
医師を見る。
「ここから先は、先生にもできます」
医師が、はっとした。
「私にしかできないところだけ、私がやります」
次。
少女。
痙攣。
聖魔法。
三十秒。
「薬をお願いします」
次。
女性。
意識混濁。
一分。
「水分を」
次。
次。
次。
「聖女様!」
「はい!」
「治し切らないのですか!」
「治し切りません!」
走りながら答える。
「私が一人を全部治している間に!」
次の患者へ膝をつく。
「三人、死ぬかもしれないから!」
金色の光が。
また灯った。
◇
一時間。
二時間。
三時間。
「次」
「聖女様、休憩を」
「次」
「聖女様」
「次!」
ルーメンが腕を掴んだ。
「五分」
「嫌です」
「休んでください」
「嫌です」
「命令です」
「私、あなたの部下じゃありません」
「ではお願いです」
「嫌です」
「倒れたら」
ルーメンは、地面に描かれた三つの円を指した。
「あなたが赤になります」
「……」
「ご自分で決めた分類でしょう」
「……ずるい」
「五分です」
「三分」
「五分」
「四分」
「五分」
「分かりました!」
リリアは椅子へ座った。
水を一気に飲む。
「聖女様」
「何ですか」
「怒っています?」
「少し」
「結構」
「何でですか」
「怒る体力が残っているなら、まだ大丈夫です」
リリアは。
じっとルーメンを見る。
「それ」
「はい」
「クラリス様みたいで腹立ちます」
ルーメンは笑った。
◇
四分五十秒。
リリアが立った。
「行きます!」
「あと十秒」
「細かい!」
「五分です」
「こういう時だけ規則を守らないでください!」
きっちり十秒。
リリアは走り出した。
◇
夜明け前。
患者数。
六百四十三名。
重症者。
百二十一名。
死亡。
十三名。
二人。
増えた。
一人は老人。
もう一人は。
四歳の男の子だった。
リリアは。
最後まで、その小さな手を握っていた。
聖魔法も使った。
薬も使った。
医師も。
できることは全部やった。
それでも。
小さな心臓は。
もう動かなかった。
「聖女様……」
母親が泣いている。
リリアには。
言える言葉がなかった。
「ごめんなさい」
それしか。
なかった。
「ごめんなさい……」
奇跡なんて。
なかった。
◇
天幕の裏。
リリアは一人で座っていた。
泣いてはいない。
泣く余裕すら。
なかった。
ただ。
自分の両手を見ていた。
「十三人……」
救えなかった。
すると。
隣に誰かが座った。
「飲んで」
温かいスープが差し出される。
顔を上げる。
「……エレノア様?」
「来ました」
「調律者が?」
「はい」
「こんなところまで?」
「腰は痛いですが、まだ歩けます」
「そこじゃなくて」
エレノアは。
もう一度スープを差し出した。
「飲みなさい」
「いりません」
「命令です」
「……」
リリアが。
少しだけ睨む。
「断る権利」
「昨日、条文にしました」
エレノアが吹き出した。
「そうでした」
少し考える。
「では」
スープをもう一度差し出す。
「お願いします」
「……」
リリアは受け取った。
一口。
「美味しい」
「でしょう」
◇
「十三人です」
「はい」
「十三人、救えませんでした」
「はい」
エレノアは。
否定しなかった。
「もっと早く来ていれば」
「分かりません」
「もっと上手に魔法を使えたら」
「分かりません」
「もっと――」
「リリア」
初めて。
名前だけで呼ばれた。
「数字を、反対側からも見なさい」
「……?」
「今夜の重症患者は、百二十一人」
「はい」
「そのうち、状態が安定した人は九十八人です」
リリアが顔を上げる。
「あなたが一人ずつ完全に治していたら、何人に魔法を使えたと思う?」
「……二十人」
「多くても三十人でしょう」
エレノアは。
治療天幕を見る。
「あなたは奇跡を、薄く伸ばした」
「……」
「だから医師が治療できる場所まで、九十八人を戻した」
リリアの目から。
ようやく。
一粒だけ涙が落ちた。
「あなた一人では救っていません」
医師。
修道士。
役人。
難民。
水を運んだ少年。
粥を作った女性。
子どもを預かった母親。
「皆で救った」
「……はい」
「十三人を忘れてはいけません」
リリアが頷く。
「でも」
エレノアは言った。
「九十八人も、忘れてはいけない」
◇
朝。
状況が変わった。
「聖女様!」
王国医師が走ってくる。
「分かりました!」
「何がですか」
「感染ではありません!」
リリアが立ち上がった。
「患者の血液から、同じ瘴気成分が出ています」
「マルタさんと?」
「似ています。ただ、濃度がずっと高い」
「では」
「中毒の可能性があります」
リリアの目が変わった。
感染症ではない。
なら。
人から人ではない。
六百人以上が。
共通して触れたもの。
「水」
「え?」
「井戸!」
◇
井戸の使用を止めた。
水を採取。
検査。
瘴気反応。
強。
「原因は、これですね」
ルーメンが言う。
「違います」
リリアは井戸を覗き込んだ。
「井戸が悪いわけじゃない」
「……」
「井戸に、何かが入ったんです」
地図を広げる。
地下水。
水脈。
難民居住区。
そして。
上流。
一つの施設。
旧・染料保管倉庫。
リリアの表情が変わった。
「黒陽粉……」
昨日。
第二施療院で診たマルタ。
染物工房。
新しい染料。
黒陽粉。
「倉庫へ行きます」
◇
扉を開けた瞬間。
鼻を刺す。
嫌な臭い。
「……これ」
地下へ降りる。
大量の樽。
黒い粉。
いくつかの樽が割れている。
雨水が床を流れ。
排水溝へ。
その先は。
地下水脈。
「これが……」
ルーメンの顔から血の気が引く。
「井戸へ流れ込んだ?」
「たぶん」
リリアは樽へ近付いた。
刻印。
黒陽粉。
帝国産。
販売業者。
バルツ商会。
そして。
輸送業者。
《ルクス交易輸送社》
その横。
白い翼。
天秤。
中央に。
L。
「……」
リリアは。
その印を見つめた。
昨日まで。
光秩院の学校で見ても。
調律者の書類で見ても。
怖いとは思わなかった。
だが。
今は。
十三人の顔が。
浮かんだ。
「ルーメン様」
「はい」
「このLは」
「……光秩院の正式な指定印です」
「この輸送会社も?」
「光秩院の認可業者です」
リリアは。
ゆっくり頷いた。
「分かりました」
そして。
「全部、調べてください」
「もちろんです」
「違います」
ルーメンが顔を上げる。
「光秩院だけで調べないでください」
「……」
「王国」
「帝国」
「できれば第三者も」
「聖女様」
「この印」
リリアは。
白い翼と天秤を指差した。
「あなたたちの印なんですよね」
「はい」
「だったら」
リリアは。
まっすぐルーメンを見る。
「自分たちだけで、自分たちを調べたら駄目です」
後ろにいたエレノアが。
静かに口を開いた。
「正解です」
「エレノア様」
「三国共同調査を要請します」
迷いはなかった。
「倉庫」
「輸送記録」
「L指定」
「関係者名簿」
「すべて開示します」
リリアが。
少し驚く。
「全部?」
「全部です」
「都合の悪いものも?」
エレノアは。
ほんの少し笑った。
「都合の良いものだけを見せることを」
「監査とは呼ばないのでしょう?」
「……」
リリアも。
少し笑った。
「はい」
それは。
クラリスから教わったことだった。
◇
倉庫の外。
朝日が昇り始めていた。
リリアは。
自分の帳面を開く。
十九番目。
何を書くか。
少し迷った。
そして。
ゆっくり。
羽根ペンを動かした。
『正しい組織だから監査しなくていい、ではない。』
その下。
もう一行。
『正しいと思っている組織ほど、自分では見えない場所がある。』
「……これ」
リリアは。
書いた文字を見て。
少し笑った。
「クラリス様に見せたら」
「何点かな」
少し前まで。
何か起きれば。
クラリスならどうするだろう。
そう考えていた。
今回は違った。
五百人を見て。
自分で考えた。
奇跡を分けた。
人に頼った。
休めと言われて腹も立てた。
十三人を救えなかった。
原因を探した。
そして。
自分が好意を持ち始めていた光秩院さえ。
疑うことを選んだ。
正しい答えだったかは。
まだ分からない。
でも。
「私」
小さく呟いた。
「ちゃんと」
「自分で考えたよ」
誰に言ったわけでもない。
ただ。
少しだけ。
クラリスに。
聞いてほしいと思った。
◇
同じ頃。
国境の反対側。
帝国領。
一台の馬車が。
朝靄を切り裂くように。
猛然と走っていた。
その中には。
帳簿を抱えた公爵令嬢と。
槍を抱えた皇女と。
書類の束に埋もれた少年と。
黒い狼。
そして。
すでに三回。
「もう少し速度を落とせ!」
と叫んでいる皇女がいた。
国境までは。
あと少し。
聖女リリアは。
まだ知らない。
自分の今回の働きが。
百点なのか。
八十点なのか。
それとも。
盛大な赤入れをされるのか。
答え合わせをする人が。
もうすぐ。
やって来る。




