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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第四章 悪女令嬢は、帝国と未来を監査する
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第60話 調律者は、悪人ではなかった

 翌朝。


 リリアは三回。


 鏡を見た。


「……大丈夫。」


 白い聖衣。


 襟。


 よし。


 髪。


 よし。


 靴。


「泥……なし。」


「何を確認しているのです?」


「わっ!」


 振り返る。


 扉のところに、王国から同行した医師が立っていた。


「ノックしましたよ。」


「すみません。」


「緊張しています?」


「少し。」


 リリアは袖を直した。


「調律者って。」


「どんな方なんでしょう。」


「怖かったら?」


「帰ります。」


「即答ですね。」


「十日しかありませんから。」


「怖い人に使う時間はありません。」


 医師は笑った。


「聖女様。」


「はい。」


「だいぶ逞しくなりましたね。」


「畑のおかげです。」


「そこですか。」


 ◇


 光秩院。


 最高評議会棟。


 昨日の学校とは。


 少し雰囲気が違った。


 静かだった。


 白い廊下。


 大きな窓。


 装飾は少ない。


 歴代の調律者らしい肖像画が並んでいる。


 男。


 女。


 老人。


 若者。


 軍人らしい者もいれば。


 学者らしい者もいる。


「世襲ではないのですね。」


「はい。」


 ルーメンが答える。


「最高評議会七名の互選です。」


「任期は?」


「六年。」


「再任は?」


「一度まで。」


「罷免は?」


 ルーメンが振り返った。


「そこまで聞かれますか。」


「……クラリス様の影響です。」


「良い影響です。」


「評議員五名以上の賛成。」


「あるいは。」


「市民監査院の請求によって審査されます。」


 リリアが少し驚く。


「調律者も。」


「監査されるんですか。」


「当然です。」


 リリアは。


 ちょっとだけ嬉しくなった。


 ――監査する側にも、監査は必要です。


 クラリスなら。


 たぶん。


 そう言う。


 ◇


 大きな扉。


 衛兵が開く。


「聖女リリア様。」


「どうぞ。」


 リリアは。


 背筋を伸ばした。


 中へ入る。


 そして。


「……あれ?」


 思わず。


 声が出た。


 玉座はなかった。


 巨大な机もない。


 黄金の像もない。


 普通の部屋。


 本棚。


 ソファ。


 観葉植物。


 窓際には。


 洗濯物。


 いや。


 布巾が三枚。


 干してある。


「ごめんなさいね。」


 声がした。


「お茶をこぼしてしまって。」


 そこにいたのは。


 六十歳くらいの女性だった。


 灰色の髪。


 眼鏡。


 白い法衣。


 袖をまくって。


 机を拭いている。


「……。」


 リリアは。


 ルーメンを見る。


「調律者様は?」


「その方です。」


「え。」


 女性が振り返った。


「あら。」


「もういらしていたの。」


 布巾を置く。


 微笑む。


「初めまして。」


「光秩院第十一代調律者。」


「エレノア・ヴァイスです。」


「……。」


「どうしました?」


「いえ。」


 リリアは。


 正直に言った。


「もっと。」


「怖い方だと思っていました。」


 エレノアは。


 声を上げて笑った。


「よく言われます。」


 ◇


「お茶。」


「飲みます?」


「はい。」


「砂糖は。」


「一つ。」


「私は二つ。」


「意外です。」


「何が?」


「健康に厳しそうなので。」


「甘いものまで禁止するほど。」


「暇ではありません。」


 リリアは。


 少し笑った。


 また。


 予想が外れた。


「それで。」


 エレノアは。


 一冊の書類を取り出した。


「昨日の提案。」


 『適性と本人希望が異なる場合の試行課程制度』


「素晴らしいと思います。」


「ありがとうございます。」


「私たちが。」


「見落としていました。」


 あっさり。


 そう言った。


「見落とし?」


「ええ。」


「適性を測る技術が。」


「昔より正確になった。」


「だから。」


「私たちはいつの間にか。」


「数字を信頼しすぎたのでしょう。」


 リリアは驚いた。


「怒らないんですか。」


「なぜ?」


「光秩院の制度を。」


「外から来た私が。」


「変えようとしたので。」


 エレノアは。


 不思議そうな顔をした。


「良くなるなら。」


「変えればいいでしょう?」


 あまりにも。


 簡単に言う。


「制度は。」


「守るためにあるのではありません。」


「人を守るためにあります。」


 リリアの胸に。


 その言葉が。


 すとんと落ちた。


 帳面を開く。


 書いた。


 『制度を守るのではなく、人を守る。』


「いただいても?」


「どうぞ。」


 エレノアは笑った。


「言葉に所有権はありません。」


 ◇


「一つ。」


 リリアは尋ねた。


「聞いてもいいですか。」


「もちろん。」


「八十年前の。」


「光秩院について。」


 ルーメンの表情が。


 少しだけ硬くなる。


 だが。


 エレノアは変わらなかった。


「何を知りたいです?」


「幸福を。」


「国が決めていたと。」


「はい。」


「本当ですか。」


「本当です。」


 即答。


「職業。」


「結婚。」


「食事。」


「教育。」


「居住地。」


「子どもの数。」


 リリアの顔が曇る。


「そこまで。」


「決めていました。」


「なぜ。」


「善意です。」


 エレノアは答えた。


「……善意?」


「当時。」


「この国は。」


「酷い状態でした。」


 戦争。


 飢饉。


 疫病。


 貧富の差。


 宗教対立。


 魔術師と非魔術師の衝突。


「人々は。」


「互いを憎んでいました。」


「そこで。」


「当時の光秩院は考えた。」


 誰も貧しくならないように。


 誰も差別されないように。


 誰も争わないように。


「最も合理的な暮らし方を。」


「全員へ。」


「提供しようとしたのです。」


 リリアは。


 昨日の少女を思い出した。


 植物適性。


 九十四点。


「結果は。」


「最初の十年。」


「非常に良かった。」


「良かった?」


「飢餓は半減。」


「犯罪は三割減。」


「識字率は倍。」


「平均寿命も伸びました。」


 リリアは。


 ますます分からなくなる。


「なら。」


「なぜ解体されたんですか。」


 エレノアは。


 窓の外を見る。


「人が。」


「幸せではなかったからです。」


 ◇


 しばらく。


 誰も話さなかった。


「数字は。」


 エレノアが続ける。


「全部。」


「良くなっていました。」


「なのに。」


「人々は。」


「息苦しいと言った。」


 好きな仕事ができない。


 好きな人と暮らせない。


 好きな場所へ行けない。


 食べたいものを食べられない。


「当時の調律者は。」


「理解できなかったそうです。」


 ――これほど生活が良くなったのに。


 ――なぜ不満なのだ。


「そこで。」


 さらに。」


「制度を強くした。」


 不満は。


 無知だから。


 教育すればいい。


 反対は。


 誤解だから。


 説明すればいい。


 それでも反対する者は。


 社会を乱す者だから。


 隔離すればいい。


 リリアの指が。


 帳面の上で止まった。


「……怖いです。」


「ええ。」


 エレノアは頷いた。


「怖い。」


「だから。」


「忘れてはいけない。」


 ◇


「では。」


 リリアは聞いた。


「今の光秩院は。」


「何が違うんですか。」


「選べること。」


 エレノアは答えた。


「そして。」


「間違えること。」


「間違える?」


「はい。」


「人には。」


「自分にとって良くない選択をする権利もあります。」


 リリアは。


 少し驚いた。


「昨日。」


「私も似たことを考えました。」


「失敗する自由。」


「良い言葉ですね。」


「使っても?」


「どうぞ。」


 二人で笑う。


 エレノアは。


 少しだけ。


 リリアを見つめた。


「あなたは。」


「面白い聖女ですね。」


「よく言われます。」


「普通。」


「聖女は。」


「人を救いたがります。」


「私も。」


「救いたいです。」


「でも。」


 エレノアは言った。


「あなたは。」


「救わないことまで。」


「考えている。」


 リリアは。


 七歳の少年を思い出した。


 治せなかった足。


「できないことが。」


「ありますから。」


「それだけ?」


「……。」


 考える。


「本人が。」


「望んでいないことも。」


「あると思います。」


 エレノアの目が。


 ほんの少し。


 細くなった。


「素晴らしい。」


 ◇


「最後に。」


 エレノアが立ち上がる。


「一つ。」


「あなたに見せたいものがあります。」


 隣の部屋。


 扉を開く。


 そこには。


 巨大な地図があった。


 聖協国。


 王国。


 帝国。


 さらに。


 周辺諸国。


 赤。


 青。


 黄色。


 無数の印。


「これは?」


「飢餓。」


「疫病。」


「戦争。」


「迫害。」


「貧困。」


 リリアの表情が変わる。


 赤い印が。


 あまりにも多い。


「この世界では。」


 エレノアが言う。


「今日も。」


「誰かが。」


「生まれた場所だけで。」


「人生を決められています。」


 リリアは。


 地図を見つめる。


「私は。」


「それを減らしたい。」


「全部ではありません。」


「そんなことは。」


「できない。」


 エレノアは。


 はっきり言った。


 その言葉に。


 リリアは安心した。


 万能を語らない。


「でも。」


「減らすことはできる。」


「医療で。」


「教育で。」


「制度で。」


「そして。」


 リリアを見る。


「あなたの力で。」


「……私の?」


「聖魔法だけではありません。」


「あなたは。」


「人が困っている場所へ。」


「自分で行ける。」


「話を聞ける。」


「間違えたら。」


「直せる。」


 リリアは。


 黙っていた。


「力を。」


「貸していただけませんか。」


 ◇


「何をすれば。」


 言ってから。


 リリアは止まった。


 違う。


 以前なら。


 聞いていた。


 何をすればいいですか。


 今回は。


「……いえ。」


 言い直す。


「何をしようとしているのか。」


「まず。」


「教えてください。」


 エレノアが。


 笑った。


「もちろんです。」


 そして。


 一冊の計画書を渡した。


 《共生圏構想》


 医療。


 教育。


 食料。


 環境。


 福祉。


 国境を越えて。


 最低限の生活保障を共有する。


「国を。」


「一つにするんですか。」


「いいえ。」


「文化も。」


「宗教も。」


「言葉も。」


「そのまま。」


「ただ。」


「人が生きる最低線だけ。」


「世界で共有したい。」


 リリアは。


 ページをめくる。


 良い。


 と思った。


 かなり。


 良い。


「でも。」


「はい。」


「参加したくない国は?」


「参加しなくて構いません。」


「個人は?」


「強制しません。」


「食事も?」


「自由です。」


「職業も?」


「もちろん。」


 リリアは。


 少し安心した。


「なら。」


「私。」


「勉強したいです。」


「ありがとうございます。」


「まだ。」


「協力するとは言ってません。」


 エレノアが。


 目を丸くする。


 そして。


 笑った。


「失礼しました。」


「まず。」


「監査します。」


「誰を?」


「この計画を。」


 リリアは。


 帳面を持ち上げた。


「クラリス様ほど。」


「上手ではありませんけど。」


「歓迎します。」


 エレノアは。


 手を差し出した。


「ぜひ。」


「穴を見つけてください。」


 リリアも。


 その手を握った。


 ◇


 面会を終え。


 廊下。


「どうでした?」


 ルーメンが尋ねる。


「良い方でした。」


「でしょう。」


「でも。」


「監査します。」


 ルーメンが笑う。


「それも。」


「エレノア様は喜ぶでしょう。」


 リリアは。


 本当に。


 そう思った。


 怪しい人ではない。


 悪人でもない。


 自分の間違いを認める。


 制度も直す。


 反対意見も聞く。


 こんな人なら。


 信じても。


 いいのかもしれない。


 その時。


 エレノアの言葉を。


 ふと思い出した。


 ――人には、自分にとって良くない選択をする権利もあります。


 良い言葉だ。


 なのに。


 もう一つ。


 面会の最後。


 地図を見ながら。


 エレノアが何気なく言った言葉が。


 なぜか。


 帳面に書けずにいた。


 ――自由は大切です。


 ――ただ。


 ――選べるようにしてあげるには、正しい選択肢を用意する人が必要です。


「……。」


 間違ってはいない。


 たぶん。


 ◇


 同じ頃。


 帝国。


 クラリスは。


 八十年前の《共生圏構想》を読んでいた。


「同じ名前だ。」


 アレクシアが言う。


「はい。」


 現在。


 エレノアがリリアへ渡したものと。


 八十年前。


 光秩院が最後に作った計画。


 名前が。


 同じだった。


「内容は。」


 ルシアンが確認する。


「かなり違います。」


「昔は。」


「職業統制。」


「人口配置。」


「婚姻管理まで。」


「今は。」


「それらはありません。」


「改善されている。」


 アレクシアが言う。


「そのようです。」


 クラリスは認めた。


「では。」


「問題ないのか。」


「分かりません。」


「お前のそれ。」


「最近安心するようになってきたぞ。」


「光栄です。」


 クラリスは。


 最後のページを見る。


 八十年前の計画書。


 欄外。


 誰かの手書き。


 古いインク。


 たった二行。


 『強制するな。』


 そして。


 その下。


 『誘導なら許されるのか?』


 クラリスの指が。


 止まった。


「……。」


「どうした。」


「いえ。」


 クラリスは。


 そのページへ紙を挟んだ。


「少し。」


「気になる言葉が。」


 ◇


 夜。


 聖協国。


 リリアは。


 窓辺の苗を見る。


 一本だけ。


 横へ伸びた枝。


 今日も。


 好き勝手に伸びている。


「君なら。」


「どうする?」


 真っ直ぐ伸びるための。


 支柱を立てる?


 陽当たりの良い場所へ。


 鉢を動かす?


 それとも。


 何もしない?


「……難しいなあ。」


 リリアは。


 支柱を手に取った。


 苗の横へ。


 立てようとする。


 そして。


 止めた。


「今日は。」


「やめとこう。」


 支柱を。


 机へ戻す。


「まだ。」


「君が困ってるって。」


「聞いてないから。」


 小さく笑った。


 その夜。


 リリアはまだ。


 誰かを正しい方向へ導くことと、誰かの代わりに正しい方向を決めることの境界線を知っていた。


 だから。


 支柱を立てなかった。


 だが。


 いつか。


 世界中の人々が。


 争い。


 傷つき。


 間違った選択を繰り返す姿を見た時。


 彼女は。


 もう一度。


 同じ支柱を手に取ることになる。


 その時。


 聖女リリアは。


 こう考える。


 これは。


 縛るためではない。


 倒れないように。


 支えているだけなのだ、と。

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