第59話 聖女様は、将来の夢に空欄をつくる
光秩院。
その名前から。
リリアは、もっと重苦しい場所を想像していた。
白い壁。
厳しい教師。
静まり返った廊下。
子どもたちは決められた方向だけを見て、決められた言葉だけを話す。
そんな場所を。
だが。
「聖女様だ!」
「ほんとだ!」
「畑を耕す聖女様!」
「それは言わなくていいです!」
普通だった。
いや。
むしろ。
かなり賑やかだった。
休憩時間になると、子どもたちは庭を走り回る。
転ぶ。
笑う。
喧嘩する。
先生に怒られる。
「思っていたのと。」
リリアが呟く。
「違いましたか?」
隣を歩くルーメンが尋ねた。
「はい。」
「もっとこう……。」
「怖いところかと?」
「少し。」
正直に答えた。
ルーメンは笑った。
「八十年前の光秩院について。」
「お調べになったのですね。」
リリアが立ち止まる。
「ご存じだったんですか。」
「もちろんです。」
ルーメンは隠さなかった。
「かつて。」
「我々は間違えました。」
意外な言葉だった。
「すべての人を幸福にしようとして。」
「幸福の形まで。」
「我々が決めてしまった。」
リリアは黙って聞く。
「だから。」
ルーメンは校舎を見る。
「一度、解体されたのです。」
「では。」
「なぜ同じ名前を?」
「忘れないためです。」
リリアの目が少し大きくなる。
「失敗した名前を。」
「消してしまえば。」
「また同じことを。」
「別の名前で始めるかもしれません。」
リリアは。
帳面を開いた。
書く。
『失敗した名前を残す。』
「それ。」
「良いですね。」
「ありがとうございます。」
◇
最初に案内されたのは。
教室だった。
算術。
読み書き。
歴史。
自然学。
魔術基礎。
子どもたちは。
身分に関係なく。
同じ授業を受けている。
「学費は?」
「無料です。」
「教材費。」
「無料。」
「昼食。」
「無料です。」
リリアが振り返る。
「全部?」
「はい。」
「財源は?」
ルーメンが笑った。
「そこを聞かれるあたり。」
「本当にクラリス様のお知り合いですね。」
「最近。」
「自分でも嫌になるくらい。」
「気になります。」
「良いことです。」
財源は。
教会領収入。
国家税。
寄付。
三つ。
しかも。
会計は公開されている。
「あとで。」
「見せてください。」
「もちろん。」
リリアは少し嬉しくなった。
良い。
ここまでは。
本当に良い。
◇
午後。
子どもたちは。
それぞれ別の棟へ移動した。
「何をするんですか?」
「十二歳から。」
「適性教育が始まります。」
魔力。
体力。
計算能力。
言語能力。
空間認識。
協調性。
手先の器用さ。
植物知識。
百を超える項目を測定する。
「その子に。」
「向いている仕事を見つけるのです。」
リリアは感心した。
「すごい。」
王国では。
農家の子は農家。
鍛冶屋の子は鍛冶屋。
商人の子は商人。
貴族の子は。
だいたい貴族だ。
本人の才能より。
生まれた家が。
人生を決めることが多い。
「例えば。」
ルーメンが一人の少年を指す。
「彼の両親は農家です。」
少年は。
難しい数式を解いていた。
「ですが。」
「数理適性が非常に高い。」
「将来は。」
「建築技師を目指しています。」
「素敵ですね。」
リリアは素直に笑った。
別の少女。
「彼女は。」
「貴族家の出身です。」
少女は。
木材を削っている。
「工芸適性が高いため。」
「家具職人課程へ。」
「ご両親は?」
「最初は反対されました。」
「ですが。」
「本人の適性を説明し。」
「今では応援されています。」
リリアは。
ますます感心した。
生まれではなく。
その人を見る。
理想的に思えた。
◇
だが。
音楽室の前で。
小さな音が聞こえた。
ぽろん。
ぽろん。
弦楽器。
リリアが覗く。
一人の少女がいた。
十二歳くらい。
誰もいない部屋で。
小さな竪琴を弾いている。
上手だった。
とても。
「綺麗。」
少女が驚いて振り返る。
「あっ。」
「ごめんなさい。」
「勝手に聞いて。」
「聖女様……。」
「続けてください。」
「でも。」
少女は。
竪琴を置いた。
「もう。」
「弾かないので。」
「どうして?」
「来月から。」
「農業研究課程へ行きます。」
リリアは首を傾げた。
「音楽ではなく?」
「はい。」
少女は笑った。
「植物適性が。」
「九十四点だったので。」
「音楽は?」
「七十一点。」
「……。」
リリアが。
少し黙る。
「植物は好き?」
「嫌いではありません。」
「では。」
「竪琴は?」
少女は。
竪琴を見る。
ほんの少し。
顔が変わった。
「大好きです。」
◇
「ルーメン様。」
廊下へ出て。
リリアは尋ねた。
「はい。」
「あの子は。」
「音楽課程へ行けないんですか。」
「行けます。」
「では。」
「なぜ。」
「推奨されていないからです。」
ルーメンは説明する。
「彼女の植物適性は。」
「非常に高い。」
「聖協国でも上位二パーセントです。」
「その才能を。」
「活かさないのは惜しい。」
「でも。」
「音楽が好きです。」
「ええ。」
「趣味として。」
「続けることはできます。」
リリアは。
昨日の肉屋を思い出した。
禁止ではない。
自由だ。
選択できる。
ただ。
こちらの方が。
あなたには良いですよ。
そう。
道が綺麗に舗装されている。
「本人が。」
「音楽課程へ行きたいと言ったら?」
「もちろん。」
「禁止はしません。」
「ただし。」
「奨学支援の優先順位は下がります。」
また。
同じだった。
「……。」
「聖女様?」
「少し。」
「考えてもいいですか。」
「もちろんです。」
◇
夕方。
リリアは。
光秩院の中庭に座っていた。
帳面。
十七番目。
なかなか書けない。
才能。
好き。
社会。
本人。
どれも。
間違っていない。
植物適性九十四点。
それは。
素晴らしい才能だ。
農業研究者になれば。
何万人もの食料を支えられるかもしれない。
音楽七十一点。
職業にするには。
厳しいかもしれない。
なら。
植物を選ぶ方が。
本人のため?
「……本人のため。」
リリアは。
その言葉を口にして。
少し嫌な感じがした。
誰かが。
誰かの人生について。
使うと。
とても強い言葉になる。
その時。
庭師が。
花壇を手入れしていた。
一列。
綺麗に揃った花。
一つだけ。
横へ伸びている枝。
庭師が。
鋏を入れようとする。
「あ。」
リリアが声を出した。
庭師が止まる。
「どうしました?」
「いえ。」
「……。」
少し考える。
「その枝。」
「切らないと駄目ですか。」
「形が崩れますので。」
「でも。」
枝の先。
小さな蕾がある。
「花。」
「咲きそうです。」
庭師が見る。
「ああ。」
「本当ですね。」
「では。」
「咲くまで残しましょうか。」
「はい。」
庭師は。
鋏を下ろした。
それだけだった。
◇
「ルーメン様。」
夕食前。
リリアは彼を呼び止めた。
「お願いがあります。」
「何でしょう。」
「適性教育に。」
「一つ。」
「項目を増やせませんか。」
「項目?」
リリアは帳面を見せる。
十七番目。
ようやく。
書けていた。
『適性と希望が違った場合、本人が試せる期間をつくる。』
「例えば。」
「半年。」
「推奨された課程ではなく。」
「自分が希望する課程へ行ってみる。」
「駄目だったら。」
「戻ればいい。」
ルーメンは考える。
「非効率です。」
「はい。」
リリアは認めた。
「でも。」
「十二歳で。」
「効率だけで人生を決める必要がありますか。」
ルーメンは黙った。
「失敗しても。」
「半年なら。」
「取り返せます。」
「むしろ。」
「失敗できるうちに。」
「失敗した方が良いと思います。」
同行していた教師が。
小さく頷いた。
「確かに。」
別の教師も。
「試験運用なら。」
「可能かもしれません。」
ルーメンは。
しばらく考えた。
そして。
「分かりました。」
リリアが顔を上げる。
「本当に?」
「まず。」
「希望者十名。」
「半年間。」
「試験制度として。」
「やってみましょう。」
「……!」
リリアの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし。」
「記録は取ります。」
「もちろんです!」
「成績。」
「継続率。」
「本人満足度。」
「全部!」
「……やはり。」
ルーメンが笑う。
「クラリス様に似ていますね。」
「それ。」
「今日二回目です。」
◇
音楽室。
リリアは。
少女へ伝えた。
「半年だけ。」
「音楽課程を選べることになりました。」
少女は。
何も言わなかった。
「もちろん。」
「植物を選んでもいい。」
「あなたが。」
「決めてください。」
「……私が?」
「はい。」
「先生じゃなく?」
「はい。」
「適性検査でもなく?」
「はい。」
「お父さんでも?」
「最後は。」
「あなたです。」
少女は。
竪琴を見た。
植物図鑑を見る。
また。
竪琴を見る。
「迷ってもいいですか。」
リリアは笑った。
「もちろん。」
「いつまで?」
「三日くらい?」
「短いです。」
「あ。」
少女が。
初めて笑った。
「聖女様。」
「はい。」
「そういうところ。」
「意外と適当なんですね。」
「よく言われます。」
◇
夜。
リリアは。
宿舎で帳面を開いた。
十七番目の下。
もう一行。
『選択肢とは、用意するだけでは足りない。選んでも不利益にならないこと。』
その横に。
小さく。
『ただし、失敗する自由も含む。』
リリアは。
しばらく眺めた。
「うん。」
今日は。
少しだけ。
自分の答えが出た。
◇
同じ夜。
帝国。
共同監査委員会。
「光秩院。」
クラリスは。
古い記録を読み続けていた。
アレクシアは向かいで。
完全に机へ突っ伏している。
「もう。」
「文字が虫に見える。」
「休まれては。」
「お前が読むから寝られん。」
「私は止めませんよ。」
「それが腹立つ。」
ルシアンは。
別の資料を調べていた。
「クラリス様。」
「はい。」
「これ。」
一枚の古い規則。
八十年前の光秩院。
そこには。
L指定
という言葉が何度も出ていた。
「人物ではない。」
クラリスが呟く。
「組織でもない。」
さらに読む。
『L指定案件については、通常法令に優先して処理する。』
アレクシアが顔を上げた。
「待て。」
「それ。」
「今の国外物資の承認番号と同じではないか。」
「はい。」
だから。
財務局にも。
外務局にも。
評議会にも。
承認書が存在しなかった。
「通常の承認を。」
クラリスは言う。
「飛ばしている。」
「誰の権限で。」
ルシアンが尋ねる。
次のページ。
三人の目が止まった。
『L指定は、光秩院最高評議会の全会一致をもって発動する。』
その下。
小さな説明。
国家の秩序及び、最大多数の幸福を著しく損なう恐れがある場合に限る。
「最大多数の幸福。」
アレクシアが読む。
「……便利な言葉だな。」
「はい。」
クラリスは答えた。
「誰が。」
「最大多数なのか。」
「誰が。」
「幸福を決めるのか。」
八十年前。
消えたはずの制度。
それが。
現在も。
動いている。
「そして。」
ルシアンが。
もう一枚を見つけた。
「最高評議会。」
「構成員は。」
七名。
その一番上。
役職名。
《調律者》
個人名は。
ない。
「調律者……。」
クラリスが呟く。
その言葉だけが。
妙に。
引っかかった。
◇
同じ頃。
聖協国。
リリアの部屋。
コンコン。
扉が叩かれた。
「はい。」
ルーメンが。
一通の封筒を持っていた。
「遅くに申し訳ありません。」
「大丈夫です。」
「明日の予定が。」
「変更になりました。」
「何かありました?」
「はい。」
ルーメンは。
少し嬉しそうだった。
「今日の。」
「適性教育へのご提案。」
「最高評議会が。」
「非常に高く評価しました。」
「もう?」
「光秩院は。」
「良い提案なら。」
「すぐ試します。」
それは。
リリアが。
この国を気に入り始めている理由の一つだった。
「それで。」
「明日。」
「あなたに会いたいと。」
「誰がですか。」
ルーメンは。
封筒を差し出した。
白い翼。
天秤。
中央に。
L。
「光秩院最高評議会。」
そして。
「《調律者》です。」
リリアは。
封筒を受け取った。
「偉い方ですか?」
「ええ。」
「では。」
リリアは少し考え。
「この服で大丈夫でしょうか。」
ルーメンが笑った。
「最初に気にされるのが。」
「そこなのですね。」
「泥は付いてません。」
「存じています。」
リリアも笑った。
まだ。
怖くはなかった。
むしろ。
嬉しかった。
自分が考えたことを。
聞いてくれる人がいる。
良い提案なら。
制度まで変わる。
こんな国を。
悪い国だとは。
とても思えなかった。
ただ。
机の上。
王国から持ってきた小さな苗だけが。
今日も。
好き勝手な方向へ。
一本の枝を伸ばしていた。
リリアは。
その枝を切らなかった。
明日。
彼女は。
「すべての人が幸せになれる社会」を本気で作ろうとしている人物と出会う。
そして。
その人物は。
嘘をつかない。
悪意もない。
人を苦しめたいわけでもない。
だからこそ。
この先で。
クラリスの帳簿よりも。
アレクシアの槍よりも。
ずっと厄介なものになる。
善意だけで作られた、完璧な正解として。




