第58話 正解が一つなら、間違いは誰ですか
聖協国滞在、二日目。
リリアは朝から機嫌が良かった。
「これ。」
帳面を開く。
「王国でも使えそうです。」
昨日見学した中央施療院の診療様式。
症状。
投薬。
治療歴。
経過。
担当医が変わっても、一枚見れば患者の状態が分かる。
「それから。」
もう一冊。
「地方診療所への薬の配送方法。」
さらに。
「巡回医師制度。」
さらに。
「医療費の負担割合。」
同行した王国医師が苦笑した。
「聖女様。」
「はい。」
「昨日だけで帳面を何冊使いました?」
「三冊。」
「……クラリス様に似てきましたね。」
「えっ。」
リリアの手が止まる。
「それは。」
「褒めています?」
「もちろん。」
「なら良かった。」
少し嬉しそうだった。
◇
本日の視察先は。
聖協国第二施療院。
中央施療院より小さい。
一般市民が日常的に利用する施設だった。
「こちらでは。」
案内役のルーメンが説明する。
「症状ごとに治療手順が定められています。」
壁には。
大きな一覧表。
発熱。
腹痛。
骨折。
感染症。
魔力障害。
症状ごとに。
検査。
診断。
投薬。
経過観察。
すべて順番が決まっている。
「医師によって。」
「治療が変わらない。」
リリアが言う。
「その通りです。」
「新人でも?」
「一定水準までは。」
「地方でも?」
「同じです。」
「……すごい。」
素直に感心した。
王国では。
良い医師がいる町と。
そうでない町で。
治療に差がある。
名医に診てもらえるかどうか。
それ自体が。
運だった。
「才能のある一人より。」
ルーメンが言う。
「百人の普通の医師が。」
「一定水準の治療をできる方が。」
「多くの人を救えます。」
リリアは大きく頷いた。
「私も。」
「そう思います。」
◇
午前十一時。
その患者が来た。
五十代の女性。
名前はマルタ。
症状は。
慢性的な頭痛。
吐き気。
倦怠感。
担当医は慣れた手つきで診察する。
「血圧、正常。」
「発熱なし。」
「魔力値、正常範囲。」
診療基準書を開く。
「分類十二。」
薬を処方する。
「鎮痛薬を七日分。」
「次の方。」
マルタは。
立たなかった。
「あの。」
「何でしょう。」
「前にも。」
「同じ薬を。」
医師が記録を見る。
「三回処方されていますね。」
「効かないんです。」
「ですが。」
医師は基準書を見る。
「現在の症状では。」
「こちらの処方になります。」
「先生。」
「はい。」
「夜になると。」
「指が震えるんです。」
医師の手が止まる。
基準書を見る。
「震えは。」
「診断時に確認できません。」
「夜だけなんです。」
「でしたら。」
「症状が出た際に。」
「再度受診してください。」
「でも。」
「夜はここが閉まっています。」
「夜間救急があります。」
「遠いんです。」
「規則では――」
その時。
「少し。」
リリアが口を挟んだ。
「お話を聞いてもいいですか。」
医師が困った顔をする。
「聖女様。」
「はい。」
「診療手順では。」
「分類十二で間違いございません。」
「分かっています。」
「なら。」
「だから。」
リリアは微笑んだ。
「手順を変えるのではなく。」
「お話だけ。」
マルタの隣へ座る。
「いつ頃からですか。」
「半年くらい。」
「お仕事は?」
「染物工房です。」
「何を使います?」
「染料を。」
「種類は?」
「青灰石と。」
「最近は。」
「安い新しい染料を。」
同行していた王国医師の一人が顔を上げた。
「新しい染料?」
「はい。」
「名前は。」
「黒陽……。」
リリアの表情が変わった。
「黒陽?」
「黒陽粉。」
マルタが答える。
「帝国から来たものだと。」
リリアは。
クラリスから聞いた話を思い出した。
黒陽草。
フェルン渡河村。
瘴気。
「先生。」
リリアが王国医師を見る。
「中毒症状の可能性は。」
「あります。」
「ただ。」
「検査しなければ。」
聖協国の医師が基準書をめくる。
「黒陽粉について。」
「登録がありません。」
リリアが振り返る。
「なら。」
「調べましょう。」
「ですが。」
医師は困惑する。
「診療基準外です。」
「はい。」
「ですから。」
「基準を変えるのではありません。」
リリアは言った。
「基準にないものを。」
「一件。」
「追加で調べるだけです。」
医師は。
少し迷った。
そして。
ルーメンを見る。
「構いません。」
ルーメンが答えた。
「記録を残してください。」
「承知しました。」
◇
検査には。
二時間かかった。
結果。
マルタの血液から。
ごく微量の瘴気反応が確認された。
「……。」
診察室が静まり返る。
王国医師が言う。
「慢性的に吸い込んでいる可能性があります。」
「工房。」
リリアが言った。
「調べられますか。」
「もちろん。」
ルーメンはすぐ役人へ指示した。
「同じ工房の従業員全員。」
「健康調査を。」
「染料も回収して分析。」
「販売経路も確認してください。」
「はい。」
動きは。
驚くほど早かった。
リリアは感心した。
問題が見つかれば。
すぐ制度が動く。
これも。
聖協国の強さだった。
◇
夕方。
マルタが帰ったあと。
リリアは診療基準書を見ていた。
「良くできています。」
「はい。」
ルーメンが隣に立つ。
「今日も。」
「ほとんどの患者さんは。」
「これで診られました。」
「はい。」
「でも。」
ページをめくる。
「マルタさんは。」
「ここにいませんでした。」
ルーメンは答えなかった。
「基準が悪いとは。」
「思いません。」
リリアは続ける。
「むしろ。」
「必要です。」
「ですが。」
基準書を閉じる。
「正解が一つしかなかったら。」
「そこから外れた人は。」
「自分が間違っていることになりませんか。」
ルーメンは。
少しだけ笑った。
「だから。」
「基準は更新されます。」
「今回の症例も。」
「追加されるでしょう。」
「なるほど。」
リリアも頷いた。
確かに。
そうすればいい。
間違いが見つかったら。
直せばいい。
クラリスも。
同じことを言っていた。
――間違っても、直せる仕組みを作る。
「やっぱり。」
リリアが言う。
「良い仕組みですね。」
「ありがとうございます。」
ルーメンは穏やかに微笑んだ。
だが。
リリアは。
もう一つだけ聞いた。
「もし。」
「何でしょう。」
「基準そのものを。」
「間違っていると言う人がいたら?」
ルーメンの笑顔が。
ほんの少しだけ止まった。
「もちろん。」
「意見を聞きます。」
「その人が。」
「ずっと納得しなかったら?」
「……。」
「皆が正しいと言っても。」
「一人だけ。」
「違うと言い続けたら。」
数秒。
沈黙。
「難しい質問ですね。」
ルーメンは笑った。
「ですが。」
「社会は。」
「一人だけのために。」
「止まることはできません。」
リリアは。
その言葉を聞いた。
正しい。
たぶん。
正しい。
百人を救う制度を。
一人の反対で止めることはできない。
でも。
今日のマルタも。
最初は。
その「一人」だった。
◇
同じ頃。
帝国。
共同監査委員会。
「見つけました。」
セバスが。
一冊の古い法令集を机へ置いた。
クラリス。
アレクシア。
ルシアン。
三人が集まる。
「Lについてです。」
「何だった。」
アレクシアが尋ねる。
「個人名ではございません。」
クラリスの予想が。
一つ当たった。
「聖協国で。」
「約八十年前まで使用されていた行政記号です。」
ページを開く。
古い文字。
Lux Ordinatio.
「ルクス……。」
ルシアンが読む。
「意味は。」
「光による秩序。」
セバスが答える。
「通称。」
ページをめくる。
そこには。
古い紋章。
白い翼。
天秤。
そして。
中央に。
L。
「《光秩院》。」
クラリスが読む。
「天秤院とは。」
「違うのか。」
アレクシアが尋ねる。
「記録上は。」
セバスが答える。
「天秤院の後継組織です。」
百年前。
天秤院は。
強引な社会統制によって解体された。
その二十年後。
思想を穏健化し。
新たに作られた組織。
光秩院。
「目的。」
ルシアンが読む。
「医療。」
「福祉。」
「教育。」
「食料。」
「労働。」
「社会制度を統一し。」
「すべての民へ。」
「等しく幸福を提供する。」
アレクシアが眉をひそめる。
「幸福を。」
「提供?」
「理念としては。」
クラリスが言う。
「悪くありません。」
「だが。」
「八十年前まで、と言ったな。」
「はい。」
セバスが次のページを開く。
光秩院――解散。
「理由は。」
ルシアンが尋ねる。
「不明です。」
「記録が。」
「ほとんど残っておりません。」
ただ。
一枚だけ。
当時の聖協国議会議事録。
そこに。
一文。
『幸福の定義を、国家が独占してはならない。』
クラリスの指が止まった。
「……。」
アレクシアが。
静かに言う。
「これ。」
「今の話ではないのか。」
「かもしれません。」
「では。」
「Lは。」
「八十年前に消えた組織?」
「そのはずです。」
クラリスは。
現在の輸送書類を横へ置く。
L。
リリアの日程表。
L。
ルクス交易輸送社。
L。
「ですが。」
クラリスは言った。
「消えていません。」
◇
「聖協国へ行く。」
アレクシアが立ち上がった。
「殿下。」
「今度は殴らん!」
「まだ何も言っていません。」
「顔に書いてあった!」
「成長されましたね。」
「何だその評価は!」
ルシアンが笑いそうになる。
「ですが。」
クラリスは地図を見る。
「今。」
「正面から動けば。」
「証拠を隠される可能性があります。」
「ではどうする。」
「リリア様が。」
言ってから。
クラリスは止まった。
リリア。
今。
聖協国にいる。
光秩院。
L。
ルーメン。
白い翼。
天秤。
「……。」
初めて。
クラリスの顔から。
わずかに余裕が消えた。
「心配か。」
アレクシアが尋ねる。
「はい。」
クラリスは。
素直に答えた。
「ですが。」
「聖女様には。」
「ご自分で考えていただきます。」
アレクシアは。
少し驚いた。
「助けに行かないのか。」
「必要なら行きます。」
「ただ。」
クラリスは。
リリアへ渡した監査項目の写しを見る。
「最初から。」
「私が答えを渡してはいけません。」
◇
その夜。
聖協国。
リリアは。
十四番目の下へ。
十五番目を書いた。
『制度から外れた一人を、誰が拾うのか。』
そして。
少し考えて。
十六番目。
『多数の幸福と、一人の自由がぶつかった時。どちらを選ぶのか。』
難しい。
答えは。
まだ分からない。
「……クラリス様なら。」
言いかける。
止める。
「だめ。」
自分で笑った。
「自分で考える。」
窓辺。
小さな苗へ水をやる。
葉が。
一枚増えていた。
「君は。」
「どっちがいい?」
「みんなと同じ高さに切られるのと。」
「好きに伸びるの。」
苗は。
答えない。
当たり前だ。
「ですよね。」
リリアは笑った。
その時。
扉が叩かれた。
「聖女様。」
ルーメンの声。
「はい。」
「明日。」
「ぜひ。」
「お見せしたい場所がございます。」
「どこですか。」
扉の向こう。
少しの沈黙。
「我が国の。」
「未来を作っている場所です。」
翌朝。
リリアを乗せた馬車は。
観光客も。
一般市民も入れない。
大聖堂のさらに奥へ向かった。
白い門。
衛兵。
厳重な結界。
その門の上には。
昨日まで。
一度も見なかった紋章があった。
白い翼。
天秤。
そして。
中央に。
L。
リリアは。
その文字を見上げた。
「ルーメン様。」
「はい。」
「このLは。」
ルーメンは。
穏やかに微笑んだ。
「ようこそ。」
門が開く。
「聖女リリア様。」
その先には。
白い玉座ではなく。
巨大な学校があった。
庭では。
何百人もの子どもたちが。
同じ白い制服を着て。
同じ時間に立ち。
同じ方向を向いていた。
「ここは。」
ルーメンが言った。
「《光秩院》。」
「人が。」
「争わなくて済む世界を。」
「作るための場所です。」
リリアは。
答えなかった。
ただ。
帳面を。
少し強く握った。
なぜなら。
子どもたちは皆。
笑っていたからだ。
誰一人。
助けを求めてはいなかった。
だからこそ。
何が問題なのか。
まだ。
リリアには分からなかった。
リリアは朝から機嫌が良かった。
「これ。」
帳面を開く。
「王国でも使えそうです。」
昨日見学した中央施療院の診療様式。
症状。
投薬。
治療歴。
経過。
担当医が変わっても、一枚見れば患者の状態が分かる。
「それから。」
もう一冊。
「地方診療所への薬の配送方法。」
さらに。
「巡回医師制度。」
さらに。
「医療費の負担割合。」
同行した王国医師が苦笑した。
「聖女様。」
「はい。」
「昨日だけで帳面を何冊使いました?」
「三冊。」
「……クラリス様に似てきましたね。」
「えっ。」
リリアの手が止まる。
「それは。」
「褒めています?」
「もちろん。」
「なら良かった。」
少し嬉しそうだった。
◇
本日の視察先は。
聖協国第二施療院。
中央施療院より小さい。
一般市民が日常的に利用する施設だった。
「こちらでは。」
案内役のルーメンが説明する。
「症状ごとに治療手順が定められています。」
壁には。
大きな一覧表。
発熱。
腹痛。
骨折。
感染症。
魔力障害。
症状ごとに。
検査。
診断。
投薬。
経過観察。
すべて順番が決まっている。
「医師によって。」
「治療が変わらない。」
リリアが言う。
「その通りです。」
「新人でも?」
「一定水準までは。」
「地方でも?」
「同じです。」
「……すごい。」
素直に感心した。
王国では。
良い医師がいる町と。
そうでない町で。
治療に差がある。
名医に診てもらえるかどうか。
それ自体が。
運だった。
「才能のある一人より。」
ルーメンが言う。
「百人の普通の医師が。」
「一定水準の治療をできる方が。」
「多くの人を救えます。」
リリアは大きく頷いた。
「私も。」
「そう思います。」
◇
午前十一時。
その患者が来た。
五十代の女性。
名前はマルタ。
症状は。
慢性的な頭痛。
吐き気。
倦怠感。
担当医は慣れた手つきで診察する。
「血圧、正常。」
「発熱なし。」
「魔力値、正常範囲。」
診療基準書を開く。
「分類十二。」
薬を処方する。
「鎮痛薬を七日分。」
「次の方。」
マルタは。
立たなかった。
「あの。」
「何でしょう。」
「前にも。」
「同じ薬を。」
医師が記録を見る。
「三回処方されていますね。」
「効かないんです。」
「ですが。」
医師は基準書を見る。
「現在の症状では。」
「こちらの処方になります。」
「先生。」
「はい。」
「夜になると。」
「指が震えるんです。」
医師の手が止まる。
基準書を見る。
「震えは。」
「診断時に確認できません。」
「夜だけなんです。」
「でしたら。」
「症状が出た際に。」
「再度受診してください。」
「でも。」
「夜はここが閉まっています。」
「夜間救急があります。」
「遠いんです。」
「規則では――」
その時。
「少し。」
リリアが口を挟んだ。
「お話を聞いてもいいですか。」
医師が困った顔をする。
「聖女様。」
「はい。」
「診療手順では。」
「分類十二で間違いございません。」
「分かっています。」
「なら。」
「だから。」
リリアは微笑んだ。
「手順を変えるのではなく。」
「お話だけ。」
マルタの隣へ座る。
「いつ頃からですか。」
「半年くらい。」
「お仕事は?」
「染物工房です。」
「何を使います?」
「染料を。」
「種類は?」
「青灰石と。」
「最近は。」
「安い新しい染料を。」
同行していた王国医師の一人が顔を上げた。
「新しい染料?」
「はい。」
「名前は。」
「黒陽……。」
リリアの表情が変わった。
「黒陽?」
「黒陽粉。」
マルタが答える。
「帝国から来たものだと。」
リリアは。
クラリスから聞いた話を思い出した。
黒陽草。
フェルン渡河村。
瘴気。
「先生。」
リリアが王国医師を見る。
「中毒症状の可能性は。」
「あります。」
「ただ。」
「検査しなければ。」
聖協国の医師が基準書をめくる。
「黒陽粉について。」
「登録がありません。」
リリアが振り返る。
「なら。」
「調べましょう。」
「ですが。」
医師は困惑する。
「診療基準外です。」
「はい。」
「ですから。」
「基準を変えるのではありません。」
リリアは言った。
「基準にないものを。」
「一件。」
「追加で調べるだけです。」
医師は。
少し迷った。
そして。
ルーメンを見る。
「構いません。」
ルーメンが答えた。
「記録を残してください。」
「承知しました。」
◇
検査には。
二時間かかった。
結果。
マルタの血液から。
ごく微量の瘴気反応が確認された。
「……。」
診察室が静まり返る。
王国医師が言う。
「慢性的に吸い込んでいる可能性があります。」
「工房。」
リリアが言った。
「調べられますか。」
「もちろん。」
ルーメンはすぐ役人へ指示した。
「同じ工房の従業員全員。」
「健康調査を。」
「染料も回収して分析。」
「販売経路も確認してください。」
「はい。」
動きは。
驚くほど早かった。
リリアは感心した。
問題が見つかれば。
すぐ制度が動く。
これも。
聖協国の強さだった。
◇
夕方。
マルタが帰ったあと。
リリアは診療基準書を見ていた。
「良くできています。」
「はい。」
ルーメンが隣に立つ。
「今日も。」
「ほとんどの患者さんは。」
「これで診られました。」
「はい。」
「でも。」
ページをめくる。
「マルタさんは。」
「ここにいませんでした。」
ルーメンは答えなかった。
「基準が悪いとは。」
「思いません。」
リリアは続ける。
「むしろ。」
「必要です。」
「ですが。」
基準書を閉じる。
「正解が一つしかなかったら。」
「そこから外れた人は。」
「自分が間違っていることになりませんか。」
ルーメンは。
少しだけ笑った。
「だから。」
「基準は更新されます。」
「今回の症例も。」
「追加されるでしょう。」
「なるほど。」
リリアも頷いた。
確かに。
そうすればいい。
間違いが見つかったら。
直せばいい。
クラリスも。
同じことを言っていた。
――間違っても、直せる仕組みを作る。
「やっぱり。」
リリアが言う。
「良い仕組みですね。」
「ありがとうございます。」
ルーメンは穏やかに微笑んだ。
だが。
リリアは。
もう一つだけ聞いた。
「もし。」
「何でしょう。」
「基準そのものを。」
「間違っていると言う人がいたら?」
ルーメンの笑顔が。
ほんの少しだけ止まった。
「もちろん。」
「意見を聞きます。」
「その人が。」
「ずっと納得しなかったら?」
「……。」
「皆が正しいと言っても。」
「一人だけ。」
「違うと言い続けたら。」
数秒。
沈黙。
「難しい質問ですね。」
ルーメンは笑った。
「ですが。」
「社会は。」
「一人だけのために。」
「止まることはできません。」
リリアは。
その言葉を聞いた。
正しい。
たぶん。
正しい。
百人を救う制度を。
一人の反対で止めることはできない。
でも。
今日のマルタも。
最初は。
その「一人」だった。
◇
同じ頃。
帝国。
共同監査委員会。
「見つけました。」
セバスが。
一冊の古い法令集を机へ置いた。
クラリス。
アレクシア。
ルシアン。
三人が集まる。
「Lについてです。」
「何だった。」
アレクシアが尋ねる。
「個人名ではございません。」
クラリスの予想が。
一つ当たった。
「聖協国で。」
「約八十年前まで使用されていた行政記号です。」
ページを開く。
古い文字。
Lux Ordinatio.
「ルクス……。」
ルシアンが読む。
「意味は。」
「光による秩序。」
セバスが答える。
「通称。」
ページをめくる。
そこには。
古い紋章。
白い翼。
天秤。
そして。
中央に。
L。
「《光秩院》。」
クラリスが読む。
「天秤院とは。」
「違うのか。」
アレクシアが尋ねる。
「記録上は。」
セバスが答える。
「天秤院の後継組織です。」
百年前。
天秤院は。
強引な社会統制によって解体された。
その二十年後。
思想を穏健化し。
新たに作られた組織。
光秩院。
「目的。」
ルシアンが読む。
「医療。」
「福祉。」
「教育。」
「食料。」
「労働。」
「社会制度を統一し。」
「すべての民へ。」
「等しく幸福を提供する。」
アレクシアが眉をひそめる。
「幸福を。」
「提供?」
「理念としては。」
クラリスが言う。
「悪くありません。」
「だが。」
「八十年前まで、と言ったな。」
「はい。」
セバスが次のページを開く。
光秩院――解散。
「理由は。」
ルシアンが尋ねる。
「不明です。」
「記録が。」
「ほとんど残っておりません。」
ただ。
一枚だけ。
当時の聖協国議会議事録。
そこに。
一文。
『幸福の定義を、国家が独占してはならない。』
クラリスの指が止まった。
「……。」
アレクシアが。
静かに言う。
「これ。」
「今の話ではないのか。」
「かもしれません。」
「では。」
「Lは。」
「八十年前に消えた組織?」
「そのはずです。」
クラリスは。
現在の輸送書類を横へ置く。
L。
リリアの日程表。
L。
ルクス交易輸送社。
L。
「ですが。」
クラリスは言った。
「消えていません。」
◇
「聖協国へ行く。」
アレクシアが立ち上がった。
「殿下。」
「今度は殴らん!」
「まだ何も言っていません。」
「顔に書いてあった!」
「成長されましたね。」
「何だその評価は!」
ルシアンが笑いそうになる。
「ですが。」
クラリスは地図を見る。
「今。」
「正面から動けば。」
「証拠を隠される可能性があります。」
「ではどうする。」
「リリア様が。」
言ってから。
クラリスは止まった。
リリア。
今。
聖協国にいる。
光秩院。
L。
ルーメン。
白い翼。
天秤。
「……。」
初めて。
クラリスの顔から。
わずかに余裕が消えた。
「心配か。」
アレクシアが尋ねる。
「はい。」
クラリスは。
素直に答えた。
「ですが。」
「聖女様には。」
「ご自分で考えていただきます。」
アレクシアは。
少し驚いた。
「助けに行かないのか。」
「必要なら行きます。」
「ただ。」
クラリスは。
リリアへ渡した監査項目の写しを見る。
「最初から。」
「私が答えを渡してはいけません。」
◇
その夜。
聖協国。
リリアは。
十四番目の下へ。
十五番目を書いた。
『制度から外れた一人を、誰が拾うのか。』
そして。
少し考えて。
十六番目。
『多数の幸福と、一人の自由がぶつかった時。どちらを選ぶのか。』
難しい。
答えは。
まだ分からない。
「……クラリス様なら。」
言いかける。
止める。
「だめ。」
自分で笑った。
「自分で考える。」
窓辺。
小さな苗へ水をやる。
葉が。
一枚増えていた。
「君は。」
「どっちがいい?」
「みんなと同じ高さに切られるのと。」
「好きに伸びるの。」
苗は。
答えない。
当たり前だ。
「ですよね。」
リリアは笑った。
その時。
扉が叩かれた。
「聖女様。」
ルーメンの声。
「はい。」
「明日。」
「ぜひ。」
「お見せしたい場所がございます。」
「どこですか。」
扉の向こう。
少しの沈黙。
「我が国の。」
「未来を作っている場所です。」
翌朝。
リリアを乗せた馬車は。
観光客も。
一般市民も入れない。
大聖堂のさらに奥へ向かった。
白い門。
衛兵。
厳重な結界。
その門の上には。
昨日まで。
一度も見なかった紋章があった。
白い翼。
天秤。
そして。
中央に。
L。
リリアは。
その文字を見上げた。
「ルーメン様。」
「はい。」
「このLは。」
ルーメンは。
穏やかに微笑んだ。
「ようこそ。」
門が開く。
「聖女リリア様。」
その先には。
白い玉座ではなく。
巨大な学校があった。
庭では。
何百人もの子どもたちが。
同じ白い制服を着て。
同じ時間に立ち。
同じ方向を向いていた。
「ここは。」
ルーメンが言った。
「《光秩院》。」
「人が。」
「争わなくて済む世界を。」
「作るための場所です。」
リリアは。
答えなかった。
ただ。
帳面を。
少し強く握った。
なぜなら。
子どもたちは皆。
笑っていたからだ。
誰一人。
助けを求めてはいなかった。
だからこそ。
何が問題なのか。
まだ。
リリアには分からなかった。




