第56話 監査する側にも、監査は必要です
翌朝。
帝国資源管理局の正門前に、一台の馬車が止まった。
降りてきたのは。
クラリス。
アレクシア。
ルシアン。
セバス。
そして。
ヨル。
「今日は大人しいな。」
アレクシアが黒い狼の頭を撫でようとする。
ヨルは、すっと半歩避けた。
「なぜだ。」
「殿下。」
クラリスが言う。
「昨日、干し肉で釣ろうとしましたね。」
「……。」
「信用を帳簿に換算するなら。」
「現在、赤字です。」
「犬相手にも監査するのか!」
「狼です。」
「そこではない!」
朝から元気だった。
だが。
資源管理局の扉をくぐった瞬間。
空気が変わった。
◇
帝国資源管理局。
魔石。
鉱物。
希少金属。
帝国各地から採掘される資源を管理する巨大官庁だ。
職員は三百人を超える。
その三階。
会議室には。
監督官ハインツ・ローデンが座っていた。
四十代半ば。
痩せた男。
眼鏡。
几帳面に整えられた制服。
机の上には。
すでに資料が積まれている。
「共同監査委員会の皆様。」
ハインツは立ち上がった。
「お待ちしておりました。」
アレクシアが少し驚く。
「逃げなかったのか。」
「殿下。」
クラリスが小声で注意する。
「まだ犯人ではありません。」
「分かっている。」
ハインツは苦笑した。
「逃げる理由もございません。」
「ガルム魔石鉱山についてですね。」
「はい。」
クラリスが一枚の納品書を置く。
「あなたの署名です。」
「間違いありません。」
「新品の安全設備を検品した。」
「はい。」
「ですが。」
クラリスは続ける。
「現場にあったのは八年前の設備でした。」
「承知しております。」
全員が止まった。
アレクシアの眉が動く。
「……知っていた?」
「はい。」
ハインツは静かに答えた。
「では。」
アレクシアが立ち上がりかける。
クラリスが袖を掴んだ。
「まだです。」
「だが!」
「最後まで。」
アレクシアは歯を食いしばり。
座った。
「続けてください。」
クラリスが促す。
ハインツは一枚の書類を取り出した。
「三年前。」
「帝国資源管理局に、新しい制度が導入されました。」
表題。
『緊急資源優先配分制度』
「災害。」
「疫病。」
「魔物被害。」
「国家規模の緊急事態が発生した場合。」
「必要な物資を、通常の契約より優先して供給する制度です。」
ルシアンが頷く。
「合理的です。」
「はい。」
ハインツも頷いた。
「制度そのものは。」
「ですが。」
一枚めくる。
「一年半前から。」
「この制度の適用件数が急増しました。」
クラリスの目が細くなる。
「どこへの供給ですか。」
「国外です。」
「国外?」
アレクシアが聞き返す。
「聖協国。」
部屋が静まった。
◇
帳簿が運び込まれる。
一冊。
二冊。
十冊。
二十冊。
クラリスの前に。
小さな城壁ができた。
アレクシアが呟く。
「これを全部読むのか。」
「はい。」
「槍の方が楽だな。」
「比較対象がおかしいです。」
ルシアンが一冊を開く。
「聖銀。」
「浄化石。」
「魔力遮断布。」
「高純度魔石。」
「全部。」
顔を上げる。
「瘴気対策に使えるものです。」
クラリスも確認する。
送り先。
聖協国。
用途。
『北部疫病対策』
『魔物被害地域支援』
『聖域結界修復』
どれも。
人を救うための名目だった。
「問題は。」
ハインツが言う。
「量です。」
クラリスは数字を追った。
一年前。
二倍。
半年前。
四倍。
三か月前。
七倍。
「異常ですね。」
「はい。」
「その結果。」
ハインツは別の帳簿を出した。
「国内向けの安全設備に使う素材が不足しました。」
ルシアンが息を呑む。
「だから。」
「古い設備を?」
「……はい。」
アレクシアの拳が握られた。
「ならば。」
「なぜ。」
低い声。
「止めなかった。」
ハインツは答えない。
「二人死んだ。」
「知っております。」
「知っていて!」
アレクシアが机を叩いた。
ヨルが耳を立てる。
だが。
ハインツは逃げなかった。
「止めようとしました。」
静かに。
そう言った。
「何度も。」
一冊の薄いファイル。
申立書。
第一回。
却下。
第二回。
却下。
第三回。
保留。
第四回。
回答なし。
合計。
十九回。
「ガルム鉱山長から届いた二十七通。」
「私から提出した十九通。」
ハインツは自嘲するように笑った。
「合計四十六通です。」
「それでも。」
「何も変わりませんでした。」
クラリスが尋ねる。
「誰が却下を。」
「局長です。」
アレクシアが立ち上がる。
「呼べ。」
職員が青ざめる。
「それが……。」
「何だ。」
「局長は。」
「今朝。」
「辞表を提出されました。」
沈黙。
「現在。」
「所在不明です。」
◇
「逃げたな。」
アレクシアが言う。
「可能性は高いです。」
クラリスは否定しなかった。
「ですが。」
「問題は。」
書類を並べる。
「局長一人で。」
「これほど大量の国外優先供給を決定できるのでしょうか。」
ハインツが首を横へ振った。
「できません。」
「年間予算の五パーセントを超える場合。」
「財務局。」
「外務局。」
「帝国評議会。」
「三者の承認が必要です。」
「では。」
クラリスが言う。
「承認書を。」
ハインツは黙った。
「ありません。」
「……ありません?」
「正確には。」
「見たことがありません。」
アレクシアが理解できない顔をする。
「承認がないのに。」
「なぜ物資が動く。」
「承認番号だけは。」
「毎回、通知されました。」
セバスが初めて口を開いた。
「番号だけ。」
「はい。」
「原本を確認せず。」
「処理した。」
「……はい。」
ハインツは俯いた。
「それは。」
クラリスが言う。
「あなたの責任です。」
ハインツの肩が僅かに震えた。
「はい。」
「上司に言われたから。」
「制度だから。」
「前例だから。」
「それだけでは。」
「署名した責任は消えません。」
「……はい。」
アレクシアは。
クラリスを見た。
庇わない。
だが。
断罪もしない。
責任のある場所だけを。
静かに切り分けていく。
「ただし。」
クラリスは続けた。
「あなた一人の責任でもありません。」
ハインツが顔を上げる。
「これから。」
「一緒に探します。」
「何を。」
「誰が。」
クラリスは承認番号の一覧を手に取った。
「存在しない承認を。」
「存在することにしたのか。」
◇
調査は。
その日の午後まで続いた。
承認番号。
四十七件。
財務局。
該当なし。
外務局。
該当なし。
帝国評議会。
該当なし。
「偽造ですね。」
ルシアンが言う。
「ええ。」
「ですが。」
クラリスは一枚だけ別にした。
「これ。」
番号の形式が違う。
通常。
帝国の公文書番号は。
年度。
部署。
通し番号。
三つで構成される。
だが。
聖協国向けの書類だけ。
最後に。
小さな記号が付いている。
L。
「エル?」
アレクシアが覗き込む。
「何の略だ。」
「分かりません。」
クラリスが答える。
その時。
ヨルが。
低く唸った。
「ヨル?」
黒い狼は。
部屋の隅に積まれた木箱へ近付く。
鼻を寄せる。
唸る。
ルシアンの顔色が変わった。
「この匂い。」
「知っているのですか。」
「……瘴気です。」
全員が立ち上がった。
木箱を開ける。
中には。
灰色の布。
鉱山用の防護布だった。
だが。
ヨルはさらに唸る。
「微量です。」
ルシアンが布へ魔力を流す。
「人体には。」
「すぐ影響する量ではありません。」
「ですが。」
「長期間使えば。」
クラリスが聞く。
「どうなりますか。」
「魔力酔い。」
「倦怠感。」
「判断力低下。」
「酷ければ。」
「魔物を引き寄せる可能性もあります。」
アレクシアの顔から。
完全に笑みが消えた。
「待て。」
「鉱山の事故が増えたのは。」
「設備が古かったからだけではない?」
「その可能性があります。」
クラリスが防護布を見る。
「この布は。」
「どこから。」
ハインツが納品書を確認する。
「バルツ商会。」
「その輸送業者は。」
ページをめくる。
そして。
止まる。
昨日と同じ。
白い翼。
天秤。
だが。
今度は会社名まで残っていた。
《ルクス交易輸送社》
「調べましょう。」
クラリスが言う。
セバスがすでに別の資料を開いていた。
「必要ございません。」
「何か。」
「登記簿がございます。」
会社所在地。
帝都南区。
代表者。
空欄。
資本金。
不明。
設立。
一年半前。
そして。
主要取引先。
そこに。
一つだけ。
記載があった。
聖協国教皇庁・慈善事業局。
誰も。
すぐには口を開かなかった。
◇
「クラリス。」
アレクシアが低く言う。
「聖協国が。」
「黒幕なのか。」
「分かりません。」
「またそれか。」
「はい。」
クラリスは真っ直ぐ答えた。
「この印章がある。」
「輸送会社もつながっている。」
「物資も流れている。」
「それでも?」
「それでもです。」
クラリスは防護布を証拠袋へ入れた。
「組織の名前と。」
「そこで働く人。」
「その上にいる人。」
「目的。」
「すべて別々に確認します。」
「白翼慈善会のアーベルは。」
「本当に人を助けていました。」
アレクシアは黙った。
「善人がいるから。」
「組織が善とは限りません。」
「同時に。」
「悪い仕組みがあるから。」
「そこにいる全員が悪人とも限りません。」
ハインツが小さく呟く。
「監査……。」
「はい。」
クラリスは言う。
「だから。」
「決めつける前に。」
「数えます。」
◇
夕方。
資源管理局の屋上。
アレクシアは帝都を眺めていた。
隣には。
槍ではなく。
一冊の帳簿。
「クラリス。」
「はい。」
「一つ聞いていいか。」
「どうぞ。」
「監査する人間が。」
「間違っていたらどうする。」
クラリスは少し考えた。
「監査します。」
「誰が。」
「別の人が。」
「その人も間違っていたら。」
「さらに別の人が。」
アレクシアが笑う。
「終わらないではないか。」
「ええ。」
クラリスも笑った。
「終わらなくて良いのです。」
「完璧な人間を探すのではなく。」
「間違っても。」
「直せる仕組みを作る。」
風が。
二人の髪を揺らす。
「だから。」
クラリスは言った。
「監査する側にも。」
「監査は必要です。」
アレクシアはしばらく考えた。
「面倒だな。」
「はい。」
「でも。」
「悪くない。」
「はい。」
その時。
ルシアンが屋上へ駆け込んできた。
「クラリス様!」
「どうしました。」
「局長の居場所が分かりました!」
アレクシアが振り返る。
「どこだ。」
ルシアンは息を整え。
一枚の紙を差し出した。
「国境です。」
「昨夜。」
「帝国を出ています。」
「行き先は。」
クラリスが尋ねる。
ルシアンは答えた。
「聖協国。」
風が止まった。
クラリスは。
同じ紙の下部を見る。
出国者。
帝国資源管理局長。
同行者一名。
そして。
その同行者の名前を見た瞬間。
クラリスの表情が変わった。
「……これは。」
「知っている人間か。」
「いいえ。」
クラリスは首を横へ振った。
「ですが。」
職業欄。
そこには。
聖協国教皇庁・特使。
そして。
備考欄には。
たった一文字。
L。
承認番号の末尾に。
必ず付いていた文字。
同じものだった。
◇
その夜。
王国。
大聖堂。
リリアは旅支度を終えていた。
着替え。
帳面。
薬草。
医療資料。
農夫の老人からもらった、小さな苗。
最後に。
聖協国から届いた日程表を鞄へ入れる。
ふと。
紙の隅に。
小さな文字があることに気付いた。
担当案内官――ルーメン卿。
その下。
略号。
L。
「ルーメン様……。」
リリアは。
何の疑いもなく。
その名前を読み上げた。
そして。
小さな苗が潰れないよう。
鞄の一番上へ置いた。
泥だらけの聖女は。
明日。
世界で最も美しく。
最も正しい国へ向かう。
その国で待っているものが。
救いなのか。
罠なのか。
あるいは。
その両方なのか。
まだ。
誰にも分からなかった。




