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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第四章 悪女令嬢は、帝国と未来を監査する
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第53話 聖女様は、奇跡を売らない

 翌朝。


 王都施療院の前には、夜明け前から人が並んでいた。


 老人。


 子どもを抱いた母親。


 杖をついた男。


 包帯を巻いた兵士。


 ざっと見ただけでも百人を超えている。


「聖女様なら治してくださる。」


「昨日、熱の子が歩いて帰ったそうだ。」


「俺の足も。」


「母さんの目も。」


「聖女様なら――」


 期待。


 祈り。


 願い。


 それらが朝靄の中で、ひとつの列になっていた。


 クラリスは二階の窓からそれを見ていた。


「百四十三名。」


 セバスが確認する。


「昨日より増えております。」


「噂は数字より速いですね。」


「特に奇跡は。」


 その時。


 階段を上がってくる足音。


「おはようございます。」


 リリアだった。


 白い聖衣。


 髪を後ろでまとめ。


 腕には昨日作った帳面を抱えている。


「眠れましたか。」


 クラリスが尋ねる。


「七時間。」


「合格です。」


「ありがとうございます。」


「朝食は。」


「パンと卵とスープ。」


「合格。」


「なんだか子どもになった気分です。」


「倒れる聖女よりは結構です。」


「はい。」


 リリアは笑った。


 そして。


 窓の外を見る。


 百四十三人。


 笑顔が少し消えた。


「……怖いですね。」


「何がですか。」


「期待されることが。」


 クラリスは答えなかった。


 リリアは自分で続けた。


「昨日までは。」


「できることが増えるのが嬉しかったんです。」


「聖魔法が使えて。」


「人を治せて。」


「もっと頑張れば。」


「もっと救えると思いました。」


 小さく息を吐く。


「でも。」


「あの列を見ると。」


「全部できるような気がしてしまう。」


 クラリスが初めて彼女を見る。


「それが。」


「怖いです。」


 少しの沈黙。


「その感覚は。」


 クラリスは静かに言った。


「忘れないでください。」


 ◇


 午前八時。


 施療院の扉が開いた。


 だが。


 昨日とは違う。


「まずこちらで症状を伺います!」


 修道女たちが受付を担当する。


「発熱はこちら!」


「外傷はこちらです!」


「慢性症状の方は三番窓口へ!」


 通常の医師で診られる患者。


 薬で対応できる患者。


 緊急患者。


 聖魔法が有効と思われる患者。


 四つに分ける。


 リリアが昨夜作った仕組みだった。


「聖女様に会えないのか!」


 一人の男が声を上げた。


「俺は三日かけて来たんだぞ!」


 修道女が困る。


 リリアは自分で前へ出た。


「申し訳ありません。」


「あなたの症状は。」


「こちらの先生の方が詳しいです。」


「でも聖女様なら治せるんだろ!」


 リリアは少し黙った。


 以前なら。


 断れなかった。


「いいえ。」


 はっきり言った。


「私は。」


「何でも治せるわけではありません。」


 ざわめきが起きる。


「聖女なのに?」


「はい。」


「聖女でも、です。」


 リリアは頭を下げた。


「できないことを。」


「できるとは言えません。」


 クラリスは離れた場所から、その姿を見ていた。


 何も言わない。


 助け舟も出さない。


 リリアの仕事だからだ。


 ◇


 二十七人目。


 七歳の少年だった。


 右足が動かない。


 母親が少年を抱えている。


「三年前からです。」


「先生には。」


「もう難しいと言われました。」


 母親はリリアの手を握った。


「お願いします。」


「一度だけでいいんです。」


「奇跡を。」


 リリアは少年を見る。


 笑っていた。


「聖女様。」


「はい。」


「痛い?」


「何がですか?」


「魔法。」


 リリアは少し笑った。


「たぶん。」


「痛くないです。」


「じゃあ、やって。」


 小さな足へ手を当てる。


 淡い金色の光。


 温かい。


 柔らかな光。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


 光が消える。


「……。」


 少年の足は。


 動かなかった。


 母親の表情が崩れる。


「もう一度。」


 リリアが言う。


「お願いします!」


 再び。


 金色の光。


 しかし。


 動かない。


「もう一度!」


 母親が叫ぶ。


 リリアは手を伸ばしかけた。


 その瞬間。


 昨日の帳面を思い出した。


 ――聖魔法が有効でない場合、通常医療へ戻す。


 自分で書いた。


 自分で決めた。


 だから。


 手を止めた。


「申し訳ありません。」


 母親の顔が固まる。


「私には。」


「治せません。」


「そんな……。」


「聖女様でしょう?」


「はい。」


「なら!」


 母親の声が震える。


「奇跡を起こしてください!」


 リリアは逃げなかった。


「できません。」


 母親が泣き出した。


 少年は母親の服を握る。


 診療室が静まり返った。


 リリアも泣きそうだった。


 だが。


 泣かなかった。


 代わりに。


「ただ。」


 椅子を母親の近くへ寄せる。


「この子が。」


「今より暮らしやすくする方法なら。」


「一緒に探せます。」


 母親が顔を上げた。


「え……?」


「足を治すことは。」


「私にはできません。」


「でも。」


「歩く道具。」


「生活の仕方。」


「学校へ通う方法。」


「できることは。」


「まだあります。」


 少年が聞いた。


「学校、行ける?」


「行きたいですか?」


「うん。」


「なら。」


 リリアは微笑んだ。


「そこから考えましょう。」


 ◇


 午後。


 クラリスは診療記録を確認していた。


「三十名。」


「はい。」


 リリアが答える。


「予定通りです。」


「治癒成功。」


「二十一名。」


「症状軽減。」


「六名。」


「効果なし。」


 リリアの声が少し小さくなる。


「三名。」


 クラリスは赤い羽根ペンで数字を囲んだ。


「大切な数字です。」


「失敗なのに?」


「いいえ。」


「できないことが分かった。」


「それも成果です。」


 リリアは少し考えた。


「……はい。」


「明日から。」


「治療前に説明します。」


「何を。」


「聖魔法でも治せないことがある、と。」


 クラリスが頷く。


「良いと思います。」


「それから。」


「もう一つ。」


 リリアは新しい紙を取り出した。


 大きく書く。


 『聖女治療を無料とする』


 クラリスが顔を上げる。


「理由は。」


「今日。」


「お金を渡そうとした方がいました。」


「かなりの金額です。」


「受け取らなかった?」


「はい。」


「なぜ。」


 リリアは少し迷ってから答えた。


「奇跡に値段を付けたら。」


「お金のある人から治すことになりそうだからです。」


 クラリスは何も言わない。


「ただ。」


 リリアが続ける。


「無料なら無料で。」


「運営費が必要です。」


「薬も。」


「医師のお給金も。」


「建物の修繕も。」


 帳面を開く。


「なので。」


「聖魔法そのものは無料。」


「施療院の運営費は王国と教会と寄付で分担。」


「寄付額によって治療順位は変えない。」


「会計は公開。」


「月に一度。」


「監査を受けます。」


 クラリスはページをめくった。


 かなり考えてある。


「私に?」


「いいえ。」


 リリアは首を横へ振った。


「クラリス様がいなくても続く仕組みにしたいです。」


 クラリスの手が止まった。


 それから。


 ほんの少し笑った。


「合格です。」


「本当ですか?」


「ただし。」


 赤い羽根ペンを持つ。


「十一箇所、修正があります。」


「十一……。」


「少ない方です。」


「そうなんですね……。」


 ◇


 夕方。


 施療院の外。


 朝から並んでいた人々は、ほとんど帰っていた。


 リリアは一人。


 入口の看板を書き換えている。


 『聖女治療所』


 そう書かれていた文字を消す。


 新しく。


 『王都施療院』


 その下に小さく。


 『聖女もおります。医師もおります。できることを、一緒に探します。』


「地味ですね。」


 クラリスが言う。


「はい。」


 リリアは笑った。


「でも。」


「今の私には。」


「これくらいがちょうどいいです。」


 その時。


 馬車が一台。


 施療院の前へ止まった。


 真っ白な馬車。


 銀の装飾。


 扉には。


 白い翼。


 そして。


 天秤。


 クラリスの目が細くなる。


 扉が開いた。


 降りてきたのは。


 白と金の法衣をまとった老人だった。


 穏やかな顔。


 柔らかな微笑み。


「初めまして。」


 老人はリリアへ深く頭を下げた。


「聖女リリア様。」


「私は。」


「聖協国より参りました。」


 胸へ手を当てる。


「枢機卿、マティアスと申します。」


 リリアが驚く。


「聖協国……。」


「はい。」


 老人は微笑んだ。


「あなたのお噂は。」


「遠く我が国まで届いております。」


 そして。


 泥の残る薬草畑。


 施療院。


 公開された帳簿。


 入口の看板。


 一つずつ見た。


「素晴らしい。」


 心から感動したような声だった。


「奇跡を誇らず。」


「民と共に働き。」


「自ら考え。」


「仕組みまで作られる。」


 リリアは少し困ったように笑う。


「まだ。」


「失敗ばかりです。」


「だからこそ。」


 マティアスは言った。


「あなたなのです。」


「……私?」


 老人は一通の白い封書を差し出した。


 黄金の封蝋。


 白い翼。


 天秤。


「聖協国より。」


「正式な招待状でございます。」


 リリアは受け取ろうとする。


 その横から。


 クラリスの声。


「失礼。」


 マティアスが彼女を見る。


「何でしょう。」


「その招待。」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「旅費は。」


 一瞬。


 誰も意味が分からなかった。


「……旅費?」


「交通費。」


「宿泊費。」


「随行員費。」


「現地滞在費。」


 クラリスは帳面を開く。


「どちらの負担でしょうか。」


 リリアが吹き出した。


「クラリス様。」


 セバスも目を伏せる。


 マティアスは。


 数秒ぽかんとしたあと。


 声を上げて笑った。


「なるほど。」


「あなたが。」


「噂の悪女令嬢ですか。」


「元、です。」


 クラリスは答えた。


「現在は。」


「監査担当です。」


 二人の視線が交わる。


 笑顔。


 笑顔。


 だが。


 どちらも。


 相手から目を逸らさなかった。


 リリアはまだ知らない。


 この白い封筒が。


 彼女を。


 泥だらけの小さな薬草畑から。


 世界で最も美しい白い玉座へ導く、最初の一枚になることを。


 そして。


 その頃には。


 「私は何でも治せるわけではありません」と言えた今日の自分を。


 もう一度。


 探さなければならなくなることを。


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