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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第四章 悪女令嬢は、帝国と未来を監査する
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第52話 聖女様は、泥だらけだった


 王都へ戻ったクラリスを待っていたのは。


 荘厳な鐘の音でも。


 王宮からの迎えでも。


 聖女の祝福でもなかった。


「クラリス様!」


 大聖堂の裏庭から、一人の修道女が駆けてきた。


「大変です!」


 クラリスの表情が変わる。


「聖女様に何か?」


「はい!」


「どちらですか。」


「畑です!」


「……畑?」


 ◇


 大聖堂の裏手には、小さな薬草園がある。


 クラリスが到着すると。


 そこにいた。


「よい……しょっ!」


 白い聖衣。


 だったもの。


 裾は泥だらけ。


 袖を肘までまくり。


 額には汗。


 両手で鍬を握っている。


 聖女リリア。


 その横では老人が笑っていた。


「聖女様、腰が高い。」


「はい!」


「鍬は腕じゃなくて腰で振るんじゃ。」


「はい!」


「返事だけは一人前じゃな。」


「すみません!」


 クラリスはしばらく黙って見ていた。


 セバスも黙っている。


 やがて。


「お嬢様。」


「何かしら。」


「聖女様でございますね。」


「そのようです。」


「私の知る聖女という概念と、少々異なります。」


「私もです。」


 リリアがようやく二人に気付いた。


「あ。」


 鍬を持ったまま固まる。


「クラリス様。」


「お久しぶりです。」


「……。」


 リリアは自分の姿を見る。


 泥。


 泥。


 泥。


「違うんです。」


「何がですか。」


「これは、その。」


「説明できます。」


「聞きましょう。」


「まず着替えてからでも?」


「もちろんです。」


 ◇


 三十分後。


 大聖堂の小さな応接室。


 着替えたリリアが座っていた。


 髪にはまだ少し土が付いている。


 クラリスは気付いていたが、言わなかった。


「それで。」


「畑について伺いましょう。」


「はい。」


 リリアは一冊の帳面を差し出した。


 表紙には。


 『王都施療院・薬草自給計画』


 クラリスの眉がわずかに上がった。


「これは。」


「私が作りました。」


 開く。


 薬草の種類。


 必要量。


 年間使用量。


 栽培面積。


 人員。


 収穫予測。


 かなり細かい。


「施療院の薬草は。」


 リリアが説明する。


「ほとんどを商会から購入しています。」


「ですが最近、価格が上がって。」


「貧しい方への無料診療を減らす案が出ました。」


 クラリスはページをめくる。


「それで栽培を?」


「はい。」


「全部は無理です。」


「でも。」


「三割なら作れると思います。」


 クラリスの指が止まった。


 三割。


 欲張っていない。


 現実的な数字だった。


「誰かに作らせるのではなく。」


「まず自分で育ててみようと思いました。」


「それで泥だらけに。」


「……はい。」


 リリアは少し恥ずかしそうに笑った。


「農家の方に。」


「土も知らない人間が計画を作るな、と叱られました。」


 セバスの口元がほんの少し緩む。


「正論でございます。」


「私もそう思いました。」


 リリアも笑った。


 クラリスは帳面を閉じなかった。


 さらに読み進める。


 最後のページ。


 そこには。


 『失敗した場合』


 という項目まであった。


 収穫量不足。


 病害。


 人員不足。


 費用超過。


 それぞれ対応策が書かれている。


「聖女様。」


「はい。」


「成長されましたね。」


 リリアの目が少し大きくなった。


 そして。


 嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます。」


 ◇


「ただ。」


 クラリスは言った。


「手紙には『困っています』と。」


「あ。」


 リリアの表情が曇る。


「こちらです。」


 別の書類を差し出した。


 施療院からの報告書。


 クラリスが読む。


「患者数が増えている。」


「はい。」


「なぜですか。」


「……私です。」


「聖女様が?」


 リリアは自分の両手を見る。


「最近。」


「少しだけ。」


「聖魔法が使えるようになりました。」


 クラリスは顔を上げた。


「見せていただけますか。」


「はい。」


 リリアは窓辺に置かれた鉢植れへ手を伸ばした。


 葉が一枚。


 枯れかけている。


 両手で包む。


 淡い金色の光。


 ほんの数秒。


 萎れていた葉が、ゆっくり持ち上がった。


 派手ではない。


 奇跡と呼ぶには、小さい。


 だが。


 確かに生命が戻っている。


「治癒魔法ですか。」


「たぶん。」


 リリアは困ったように笑う。


「まだ。」


「擦り傷とか。」


「熱を少し下げるとか。」


「そのくらいです。」


「十分でしょう。」


「でも。」


 リリアは俯いた。


「噂になりました。」


 聖女が人を治せる。


 その噂は瞬く間に王都へ広がった。


 貧民街。


 農村。


 遠い地方。


 毎日のように人が来る。


「昨日は百二十七人でした。」


「……。」


「今日は朝から八十三人。」


 クラリスの目が鋭くなる。


「全員を?」


「診ています。」


「一人で?」


「はい。」


「何時間。」


「昨日は……十四時間くらい。」


「却下です。」


 即答だった。


「え?」


「運用として成立していません。」


「でも。」


「待っている人が。」


「だからです。」


 クラリスは帳簿を置いた。


「聖女様が倒れたら。」


「百二十七人どころではありません。」


「明日から。」


「誰も診られません。」


 リリアは黙った。


 昔なら。


 ここで泣いていたかもしれない。


 だが。


 今のリリアは違った。


「……私も。」


 静かに言う。


「そう思いました。」


 クラリスが少し驚く。


「だから。」


 リリアは三冊目の帳面を出した。


 『聖女治療運用案』


「考えてみました。」


 受付。


 症状による優先順位。


 通常の医師で対応できる患者。


 聖魔法が必要な患者。


 緊急患者。


 治療後の経過観察。


 さらに。


 聖女本人の休憩時間。


「一日。」


「最大三十人。」


 リリアが言う。


「それ以上は診ません。」


「断れるのですか。」


「……怖いです。」


 正直な答えだった。


「目の前に苦しんでいる人がいたら。」


「たぶん。」


「診たくなります。」


「ですが。」


 リリアはクラリスを見る。


「一人で全部救おうとすることも。」


「無責任なんですよね。」


 クラリスは。


 しばらく何も言わなかった。


 そして。


「はい。」


 それだけ答えた。


 リリアは少し笑った。


「ですから。」


 帳面をクラリスへ差し出す。


「お願いがあります。」


 以前の彼女なら。


 こう言っただろう。


 ――私はどうすればいいですか。


 だが。


 今は違った。


「私が考えました。」


「私が決めます。」


「そのうえで。」


 リリアは真っ直ぐクラリスを見る。


「この計画を。」


「監査していただけませんか。」


 クラリスの口元が、ほんの少し緩んだ。


「承りました。」


 羽根ペンを取る。


「では。」


「遠慮なく。」


「お願いします。」


「かなり赤を入れます。」


「……少しだけ遠慮してください。」


「監査ですので。」


「ですよね。」


 二人は笑った。


 ◇


 その日の夕方。


 大聖堂の鐘が鳴る。


 リリアは再び畑にいた。


「聖女様。」


 老人が言う。


「今日はもう終わりじゃ。」


「あと一畝だけ。」


「明日やれ。」


「でも。」


「土は逃げん。」


 リリアは鍬を止めた。


 少し考える。


「……はい。」


 以前なら。


 無理をして続けただろう。


 今日は。


 鍬を置いた。


「明日にします。」


「それでええ。」


 老人が笑う。


 リリアも笑った。


 夕日に照らされた白い聖衣の裾には。


 また泥が付いていた。


 それでも。


 その姿は。


 どんな宝石をまとった聖女より。


 ずっと聖女らしく見えた。


 遠く。


 大聖堂の回廊。


 白い法衣を着た初老の司教が、その姿を見つめている。


「自ら考え。」


「自ら動き。」


「人々を癒やす。」


 男は静かに微笑んだ。


「やはり。」


「あなたしかいない。」


 その手には。


 聖協国から届いた一通の書簡。


 封蝋には。


 白い翼。


 そして。


 天秤。


 まだ。


 リリアは知らない。


 自分が泥だらけになって手に入れた「自分で考える力」を。


 いつか。


 世界を正しくするために使おうとする日が来ることを。


 そして。


 正しさにもまた。


 監査が必要になることを。


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