第52話 聖女様は、泥だらけだった
王都へ戻ったクラリスを待っていたのは。
荘厳な鐘の音でも。
王宮からの迎えでも。
聖女の祝福でもなかった。
「クラリス様!」
大聖堂の裏庭から、一人の修道女が駆けてきた。
「大変です!」
クラリスの表情が変わる。
「聖女様に何か?」
「はい!」
「どちらですか。」
「畑です!」
「……畑?」
◇
大聖堂の裏手には、小さな薬草園がある。
クラリスが到着すると。
そこにいた。
「よい……しょっ!」
白い聖衣。
だったもの。
裾は泥だらけ。
袖を肘までまくり。
額には汗。
両手で鍬を握っている。
聖女リリア。
その横では老人が笑っていた。
「聖女様、腰が高い。」
「はい!」
「鍬は腕じゃなくて腰で振るんじゃ。」
「はい!」
「返事だけは一人前じゃな。」
「すみません!」
クラリスはしばらく黙って見ていた。
セバスも黙っている。
やがて。
「お嬢様。」
「何かしら。」
「聖女様でございますね。」
「そのようです。」
「私の知る聖女という概念と、少々異なります。」
「私もです。」
リリアがようやく二人に気付いた。
「あ。」
鍬を持ったまま固まる。
「クラリス様。」
「お久しぶりです。」
「……。」
リリアは自分の姿を見る。
泥。
泥。
泥。
「違うんです。」
「何がですか。」
「これは、その。」
「説明できます。」
「聞きましょう。」
「まず着替えてからでも?」
「もちろんです。」
◇
三十分後。
大聖堂の小さな応接室。
着替えたリリアが座っていた。
髪にはまだ少し土が付いている。
クラリスは気付いていたが、言わなかった。
「それで。」
「畑について伺いましょう。」
「はい。」
リリアは一冊の帳面を差し出した。
表紙には。
『王都施療院・薬草自給計画』
クラリスの眉がわずかに上がった。
「これは。」
「私が作りました。」
開く。
薬草の種類。
必要量。
年間使用量。
栽培面積。
人員。
収穫予測。
かなり細かい。
「施療院の薬草は。」
リリアが説明する。
「ほとんどを商会から購入しています。」
「ですが最近、価格が上がって。」
「貧しい方への無料診療を減らす案が出ました。」
クラリスはページをめくる。
「それで栽培を?」
「はい。」
「全部は無理です。」
「でも。」
「三割なら作れると思います。」
クラリスの指が止まった。
三割。
欲張っていない。
現実的な数字だった。
「誰かに作らせるのではなく。」
「まず自分で育ててみようと思いました。」
「それで泥だらけに。」
「……はい。」
リリアは少し恥ずかしそうに笑った。
「農家の方に。」
「土も知らない人間が計画を作るな、と叱られました。」
セバスの口元がほんの少し緩む。
「正論でございます。」
「私もそう思いました。」
リリアも笑った。
クラリスは帳面を閉じなかった。
さらに読み進める。
最後のページ。
そこには。
『失敗した場合』
という項目まであった。
収穫量不足。
病害。
人員不足。
費用超過。
それぞれ対応策が書かれている。
「聖女様。」
「はい。」
「成長されましたね。」
リリアの目が少し大きくなった。
そして。
嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。」
◇
「ただ。」
クラリスは言った。
「手紙には『困っています』と。」
「あ。」
リリアの表情が曇る。
「こちらです。」
別の書類を差し出した。
施療院からの報告書。
クラリスが読む。
「患者数が増えている。」
「はい。」
「なぜですか。」
「……私です。」
「聖女様が?」
リリアは自分の両手を見る。
「最近。」
「少しだけ。」
「聖魔法が使えるようになりました。」
クラリスは顔を上げた。
「見せていただけますか。」
「はい。」
リリアは窓辺に置かれた鉢植れへ手を伸ばした。
葉が一枚。
枯れかけている。
両手で包む。
淡い金色の光。
ほんの数秒。
萎れていた葉が、ゆっくり持ち上がった。
派手ではない。
奇跡と呼ぶには、小さい。
だが。
確かに生命が戻っている。
「治癒魔法ですか。」
「たぶん。」
リリアは困ったように笑う。
「まだ。」
「擦り傷とか。」
「熱を少し下げるとか。」
「そのくらいです。」
「十分でしょう。」
「でも。」
リリアは俯いた。
「噂になりました。」
聖女が人を治せる。
その噂は瞬く間に王都へ広がった。
貧民街。
農村。
遠い地方。
毎日のように人が来る。
「昨日は百二十七人でした。」
「……。」
「今日は朝から八十三人。」
クラリスの目が鋭くなる。
「全員を?」
「診ています。」
「一人で?」
「はい。」
「何時間。」
「昨日は……十四時間くらい。」
「却下です。」
即答だった。
「え?」
「運用として成立していません。」
「でも。」
「待っている人が。」
「だからです。」
クラリスは帳簿を置いた。
「聖女様が倒れたら。」
「百二十七人どころではありません。」
「明日から。」
「誰も診られません。」
リリアは黙った。
昔なら。
ここで泣いていたかもしれない。
だが。
今のリリアは違った。
「……私も。」
静かに言う。
「そう思いました。」
クラリスが少し驚く。
「だから。」
リリアは三冊目の帳面を出した。
『聖女治療運用案』
「考えてみました。」
受付。
症状による優先順位。
通常の医師で対応できる患者。
聖魔法が必要な患者。
緊急患者。
治療後の経過観察。
さらに。
聖女本人の休憩時間。
「一日。」
「最大三十人。」
リリアが言う。
「それ以上は診ません。」
「断れるのですか。」
「……怖いです。」
正直な答えだった。
「目の前に苦しんでいる人がいたら。」
「たぶん。」
「診たくなります。」
「ですが。」
リリアはクラリスを見る。
「一人で全部救おうとすることも。」
「無責任なんですよね。」
クラリスは。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「はい。」
それだけ答えた。
リリアは少し笑った。
「ですから。」
帳面をクラリスへ差し出す。
「お願いがあります。」
以前の彼女なら。
こう言っただろう。
――私はどうすればいいですか。
だが。
今は違った。
「私が考えました。」
「私が決めます。」
「そのうえで。」
リリアは真っ直ぐクラリスを見る。
「この計画を。」
「監査していただけませんか。」
クラリスの口元が、ほんの少し緩んだ。
「承りました。」
羽根ペンを取る。
「では。」
「遠慮なく。」
「お願いします。」
「かなり赤を入れます。」
「……少しだけ遠慮してください。」
「監査ですので。」
「ですよね。」
二人は笑った。
◇
その日の夕方。
大聖堂の鐘が鳴る。
リリアは再び畑にいた。
「聖女様。」
老人が言う。
「今日はもう終わりじゃ。」
「あと一畝だけ。」
「明日やれ。」
「でも。」
「土は逃げん。」
リリアは鍬を止めた。
少し考える。
「……はい。」
以前なら。
無理をして続けただろう。
今日は。
鍬を置いた。
「明日にします。」
「それでええ。」
老人が笑う。
リリアも笑った。
夕日に照らされた白い聖衣の裾には。
また泥が付いていた。
それでも。
その姿は。
どんな宝石をまとった聖女より。
ずっと聖女らしく見えた。
遠く。
大聖堂の回廊。
白い法衣を着た初老の司教が、その姿を見つめている。
「自ら考え。」
「自ら動き。」
「人々を癒やす。」
男は静かに微笑んだ。
「やはり。」
「あなたしかいない。」
その手には。
聖協国から届いた一通の書簡。
封蝋には。
白い翼。
そして。
天秤。
まだ。
リリアは知らない。
自分が泥だらけになって手に入れた「自分で考える力」を。
いつか。
世界を正しくするために使おうとする日が来ることを。
そして。
正しさにもまた。
監査が必要になることを。




