第50話 数字では測れないもの
共同監査委員会がフェルン渡河村へ来て、一週間が過ぎた。
村は少しだけ変わっていた。
橋守の老人は、子どもたちへ橋の手入れを教え始めた。
焼き栗屋の少女は、帳面を持ち歩くようになった。
「今日は三十二袋!」
得意げに数字を書いている。
アーベルは診療の合間に、村人へ薬草の育て方を教えていた。
「来年は。」
老人へ笑いかける。
「少しずつ、自分たちでも育ててみませんか。」
「できるかのう。」
「最初は一畝だけ。」
「失敗しても。」
「来年があります。」
その言葉を聞いたクラリスは、小さく微笑んだ。
◇
診療所の庭。
アーベルは一冊の帳面を差し出した。
「クラリス様。」
「何でしょう。」
「新しく作りました。」
表紙には。
『薬草栽培記録』
ページをめくる。
村人の名前。
畑の場所。
収穫量。
来年の目標。
「これは。」
「寄付を減らすためです。」
アーベルは照れくさそうに笑う。
「先生ではなく。」
「村のみんなが薬を作れるように。」
クラリスは帳面を閉じた。
「ありがとうございます。」
「いいえ。」
「教えていただいたのは私です。」
「支えるだけでは。」
「足りないと。」
クラリスは首を横へ振った。
「私は教えていません。」
「気付かれたのです。」
アーベルは少しだけ空を見上げた。
「……気付くのが遅かったですね。」
「遅くありません。」
「人は。」
「気付いた日が一日目です。」
◇
その頃。
村役場では、新しい橋修繕計画が始まっていた。
今回は寄付ではない。
村人が石を運び。
大工が木を削り。
子どもたちが釘を数える。
アレクシアは腕を組みながら眺めていた。
「遅いな。」
ヴィクトルが笑う。
「軍なら半日だ。」
「ですが。」
クラリスが答える。
「この橋は。」
「完成したあとも、自分たちで直せます。」
アレクシアは納得したように頷いた。
「確かにな。」
「強さとは。」
「槍だけではないか。」
◇
夕方。
共同監査委員会は最後の聞き取りを終えていた。
セバスが書類をまとめる。
「お嬢様。」
「第一次報告書。」
「完成いたしました。」
クラリスは目を通す。
現状。
問題点。
改善案。
責任の所在。
そして最後に。
提言。
『支援は、自立計画と一体で実施すること。』
クラリスは赤い印を押した。
「確認。」
ルシアンが嬉しそうに笑う。
「終わりましたね。」
「いいえ。」
クラリスは遠くの山を見る。
「始まりです。」
その時だった。
一羽の白い鳩が窓辺へ降り立つ。
足には銀色の筒。
セバスが受け取る。
「帝国からです。」
封を開く。
中には短い手紙。
送り主は。
アレクシア皇女。
いや。
本人は隣にいる。
「昨日書いておいた。」
少し照れながら言う。
「帰り道で読め。」
クラリスは馬車へ乗ってから封を開いた。
そこには。
クラリス。
今回、お前に一つ負けを認める。
私は橋を守れた。
だが、お前は村を変えた。
次は負けん。
槍も。
帳簿も。
もっと磨いて待っている。
帝国皇女 アレクシア
クラリスは手紙を丁寧に畳む。
「お嬢様。」
セバスが尋ねる。
「返事は。」
「もちろんです。」
クラリスは便箋を取り出した。
さらさらと書く。
アレクシア皇女殿下。
勝敗について異議があります。
今回は共同監査につき、引き分けを提案します。
追伸。
橋の補修費は予定より一割安く済みました。
余剰分は子どもたちの図書費へ計上してください。
読み終えたセバスが、小さく笑う。
「お嬢様らしいお返事です。」
馬車はゆっくりとフェルン渡河村を離れる。
橋の上では。
焼き栗屋の少女が大きく手を振っていた。
「また来てねー!」
アーベルも。
橋守も。
村人たちも。
笑顔で見送っている。
クラリスも小さく手を振り返した。
事件は終わった。
いや。
一つの事件が終わっただけだ。
馬車の窓から見える夕焼けの向こうには。
白い翼を掲げる聖協国。
誰も座っていない白い玉座。
そして。
まだ世界のどこかで。
新しい帳簿を書き始めている者がいる。
悪女令嬢の監査は。
これから、さらに大きな世界へ続いていく。




