第42話 皇帝陛下、その報告書をお読みください
戦争は、起きなかった。
だが。
それは誰も何もしなかったからではない。
誰かが、止めたからだ。
帝都・白金宮。
皇帝執務室。
大きな窓から朝日が差し込み、長い机の上には一冊の分厚い報告書が置かれていた。
表紙には簡潔な文字。
『黒陽宮事案 第一次監査報告書』
皇帝アルフォンス・フォン・ルーデンベルクは、その表紙をしばらく見つめていた。
「……これを書いたのが」
老宰相が静かに答える。
「王国アルベルティーナ公爵家の令嬢、クラリス殿でございます。」
「まだ二十代であったな。」
「はい。」
皇帝は最初の頁を開いた。
事件概要。
経緯。
被害。
押収資料。
未解決事項。
責任の所在。
感情的な表現は、一つもない。
だが。
一頁ごとに、人の暮らしが見えてくる。
誰が困り。
誰が利用され。
誰が名前を失ったのか。
「……これは。」
皇帝が小さく息を吐いた。
「裁判記録ではない。」
「軍報でもございません。」
「歴史書だ。」
老宰相は深く頷く。
「そのように感じました。」
最後の頁には、共同監査委員会設立案が添えられていた。
王国と帝国が互いを監査し、隠蔽を防ぐ新制度。
皇帝は思わず笑う。
「敵国へ監査を頼むとは。」
「大胆でございます。」
「大胆ではない。」
皇帝は報告書を閉じた。
「これは。」
「互いを信じるのではなく。」
「互いに見えるようにする制度だ。」
その頃。
白金宮の庭園では、アレクシアが長槍の稽古をしていた。
一突き。
二突き。
三突き。
以前よりも、槍筋が柔らかい。
護衛騎士が首を傾げる。
「皇女殿下。」
「最近、槍が変わりましたな。」
「変わったか。」
「以前は折る槍でした。」
「今は。」
アレクシアは穂先を止める。
「守る槍だ。」
その言葉を聞いた護衛は、少し驚いた。
「誰の影響でございますか。」
「……悪女だ。」
少し照れくさそうに言う。
「帳簿ばかり持ち歩く。」
「面倒な女だ。」
「だが。」
空を見上げる。
「強かった。」
一方、迎賓館。
クラリスたちは帰国準備を進めていた。
セバスは荷造りを確認し、ヴィクトルは国境警備との日程を合わせ、ルシアンは山ほどの魔術記録を抱えている。
「全部持って帰るのですか。」
クラリスが尋ねる。
「研究対象です。」
「百三十七冊あります。」
「百三十八冊です。」
ルシアンが一冊拾い上げた。
「今増えました。」
クラリスは少しだけ笑った。
「研究者らしいですね。」
「姉様……いえ。」
ルシアンは言い直す。
「クラリス様のおかげです。」
「私は少し記録しただけです。」
「その少しが。」
ルシアンは本を抱え直す。
「世界を変えました。」
その時、扉が叩かれる。
近衛兵が一礼した。
「皇帝陛下がお呼びです。」
クラリスは静かに頷いた。
「参ります。」
セバスが後ろへ立つ。
「お嬢様。」
「何かしら。」
「帝国皇帝との謁見は初めてでございます。」
「そうですね。」
「緊張は。」
「少し。」
「安心いたしました。」
「なぜですか。」
「人間らしくて。」
クラリスは少しだけ微笑んだ。
「記録しますか。」
「それはご勘弁ください。」
二人は並んで歩き出す。
迎賓館から白金宮へ続く石畳。
その両脇には、帝国騎士団が整列していた。
誰一人、剣を抜かない。
敵国の令嬢へ向けられたのは。
警戒ではなく、敬意だった。
白金宮の大扉がゆっくりと開く。
玉座ではなく。
長い会議卓。
そこに座っていた皇帝は、クラリスを見るなり立ち上がった。
「ようこそ。」
静かな声だった。
「悪女令嬢。」
その呼び名に、部屋の空気が少し張る。
だが皇帝は、すぐに続けた。
「いや。」
「その名は、もう似合わぬ。」
机の上には、一冊の報告書。
『黒陽宮事案 第一次監査報告書』
皇帝はその表紙を軽く叩いた。
「この国は。」
「君に借りができた。」
クラリスは一礼した。
「借りではございません。」
「何?」
「未収金です。」
一瞬の静寂。
そして。
皇帝は声を上げて笑った。
白金宮に、久しぶりの明るい笑い声が響いた。
こうして。
悪女令嬢の物語は。
王国だけのものではなくなった。
帝国もまた。
彼女の帳簿をめくることになる。




