第40話 悪女令嬢は、最後の監査を始める
戦いが終わる音は、案外静かだった。
剣が床へ落ちる音。
砕けた魔石の欠片が転がる音。
そして。
誰も、次の一歩を踏み出さない静けさ。
零番庫を満たしていた紫黒い魔力は消え、棚いっぱいの帳簿だけが静かに並んでいる。
そこにはもう、黒陽宮の威圧感はなかった。
あるのは、読み切れないほどの記録だけだった。
「終わった……のでしょうか」
ルシアンが銀杖を下ろした。
クラリスは首を横へ振る。
「戦闘は終了しました。」
「では。」
「監査が残っています。」
アレクシアが思わず天井を仰ぐ。
「やはりそう来るか。」
「黒陽宮は組織です。」
クラリスは黒い帳簿を閉じた。
「代表者を確保しただけでは終わりません。」
ヴィクトルも頷く。
「兵でも同じだ。大将を捕らえても補給線が残れば再編される。」
「はい。」
クラリスは壁一面の棚を見上げた。
王国。
帝国。
商会。
貴族。
軍。
研究院。
膨大な帳簿が並ぶ。
「これ全部を読むのか?」
アレクシアが聞く。
「全部です。」
「何年かかる。」
「数年かもしれません。」
「気が遠くなるな。」
「ですが。」
クラリスは静かに笑う。
「二十五年かけて作られたものです。」
「二、三年で終わるなら早い方です。」
その考え方に。
アレクシアは苦笑した。
「敵にしたくない女だ。」
部屋の隅で、グレゴールは拘束されたまま座っていた。
抵抗はしない。
逃げようともしない。
「何がおかしい。」
クラリスが尋ねる。
「勝った気でいる。」
老人は静かに笑った。
「黒陽宮は私一人ではない。」
「承知しています。」
「私を捕らえても第二、第三が現れる。」
「その可能性もあります。」
「なら意味はない。」
「あります。」
クラリスは即答した。
「なぜだ。」
「あなたが初めて、責任を持つからです。」
グレゴールは黙った。
「今までは。」
クラリスは帳簿を一冊開く。
「命令した。」
「利用した。」
「消した。」
「帳消しにした。」
「ですが。」
羽根ペンで一行だけ書く。
――実行責任者 グレゴール・ヴァイス
「これで終わりです。」
老人はその一行を見つめた。
短い。
たった一行。
だが。
二十五年間、誰も書かなかった一行だった。
「名前を残されるのは。」
グレゴールが呟く。
「案外、重いものだな。」
「はい。」
クラリスは答える。
「だから私は、軽々しく書きません。」
セバスは静かに目を閉じた。
師を討つことはなかった。
だが。
師を歴史へ戻すことはできた。
それで十分だった。
ヨルが小さく鳴く。
黒い影狼の姿は消え、いつもの子犬の姿へ戻っていた。
「お疲れさまでした。」
クラリスが頭を撫でる。
ヨルは嬉しそうに尻尾を振ったあと、その場で丸くなって眠り始めた。
「今回は。」
ルシアンが笑う。
「食べ過ぎませんでしたね。」
「学習しました。」
「成長しましたね。」
「ヨル記録へ追記します。」
「やっぱり書くんですね。」
零番庫の外では、夜明けが近づいていた。
帝国皇城。
王国王宮。
両国の結界は正常へ戻り、偽造された出撃命令も停止している。
戦争は起きなかった。
それでも。
黒陽宮が残した傷は消えない。
「クラリス。」
アレクシアが声を掛けた。
「何でしょう。」
「この先、お前はどうする。」
クラリスは窓から差し込む朝焼けを見る。
「まず。」
「零番庫の全資料を押収します。」
「それから。」
「両国共同監査委員会を提案します。」
「共同監査?」
「王国だけでも。」
「帝国だけでも。」
「また隠されます。」
「だから。」
クラリスは皇女を見た。
「お互いが、お互いを監査できる仕組みを作ります。」
アレクシアは静かに笑った。
「面白い。」
「帝国は王国を監査する。」
「王国は帝国を監査する。」
「どちらも好き勝手はできなくなる。」
「ええ。」
クラリスは頷いた。
「信頼とは、監査できる関係です。」
その言葉に。
ヴィクトルも。
ルシアンも。
セバスも。
それぞれ静かに頷いた。
零番庫で終わったのは、戦いだけだった。
本当の仕事は。
ここから始まる。
悪女令嬢は、剣で世界を変えなかった。
帳簿で。
制度で。
そして、人を残す記録で。
世界を書き換え始めるのだった。




