第39話 名前は、魔力より強い
人は、名前を呼ばれることで、自分が誰かを思い出す。
だから。
名前を奪うことは、人を消すことだった。
零番庫の最深部。
黒い魔石は鼓動のように脈打ち、そのたびに無数の紙片が宙を舞う。
名前。
年齢。
役職。
家族。
消去命令。
誰かの人生が、魔力へ変えられていた。
「ルシアン殿下。」
「はい!」
「移管を開始してください。」
銀の杖が床へ突き立てられる。
青白い魔法陣が零番庫いっぱいに広がった。
「《記録転写》!」
魔石から一本の光が伸びる。
壁一面の空白帳簿へ吸い込まれていく。
だが一本では終わらない。
二本。
三本。
百本。
千本。
魔石の中に閉じ込められていた記録が、一斉に流れ始めた。
「量が……!」
ルシアンの膝が震える。
「多すぎます!」
「止めません。」
クラリスは帳面を開いた。
「一件ずつ確認します。」
「全部ですか!」
「全部です。」
「終わりません!」
「終わらせます。」
その言葉に、迷いはなかった。
アレクシアは槍を構え、黒陽草の根を薙ぎ払う。
「ルシアン!」
「はい!」
「時間は私が稼ぐ!」
「ありがとうございます!」
深紅の槍が唸る。
一本。
二本。
三本。
根を切っても、すぐ次が伸びる。
「まるで雑草だ!」
「薬草です。」
クラリスが答えた。
「今そこじゃない!」
ヴィクトルは中央で兵を指揮するように声を飛ばす。
「右から来る!」
「ヨル!」
黒い影狼が跳ぶ。
紫黒い瘴気だけを噛み砕く。
前回よりも、明らかに学習していた。
全部食べない。
必要な分だけ。
食べ過ぎれば、自分も倒れることを覚えた。
「偉いです。」
クラリスが小さく言う。
ヨルの尻尾が一度だけ揺れた。
「そんなことで!」
グレゴールが笑う。
「名前を書き写して何になる!」
「死者は帰らん!」
「ええ。」
クラリスは否定しなかった。
「帰りません。」
「ならば!」
「ですが。」
羽根ペンは止まらない。
「誰が生きたかは残せます。」
一枚目。
王国西部歩兵隊。
エリオット・バルド。
二十三歳。
故郷、風車村。
妹一人。
削除命令。
「確認。」
二枚目。
帝国薬草研究員。
マリア・エルン。
三十一歳。
研究途中死亡。
実際は口封じ。
「確認。」
三枚目。
国境商人。
ハンス。
娘二人。
黒陽宮資金洗浄拒否。
処理。
「確認。」
ルシアンの転写速度が上がっていく。
名前が帳簿へ戻る。
紙片が光となり。
文字へ戻る。
魔石の鼓動が少しずつ弱くなる。
グレゴールの顔から、笑みが消えた。
「まさか。」
「気付きましたか。」
クラリスが言う。
「魔石の燃料は。」
壁一面の帳簿を見る。
「記録そのものではありません。」
ルシアンも気付いた。
「記録が。」
「忘れられている状態です。」
「はい。」
クラリスは頷く。
「名前が戻れば。」
「燃料ではなくなる。」
グレゴールが初めて大きく舌打ちした。
「止めろ!」
黒い魔力が爆発する。
零番庫全体が揺れた。
天井から石片が落ちる。
「アレクシア!」
ヴィクトルが叫ぶ。
「左柱!」
「任せろ!」
槍が石柱を支える。
正面突破しか知らない皇女が。
初めて。
誰かを守るためだけに槍を使った。
「持て!」
全身で柱を押さえる。
瓦礫が肩へ落ちる。
それでも動かない。
「皇女殿下!」
ルシアンが叫ぶ。
「集中しろ!」
アレクシアは笑った。
「私は丈夫だ!」
その隣へ。
ヴィクトルが立つ。
「一人で支えるな。」
「辺境伯!」
「兵は一人で壁にならない。」
二人で柱を支える。
その姿を見て。
クラリスは少しだけ安心した。
王国。
帝国。
肩書は違う。
だが今は。
同じ柱を支えている。
グレゴールはセバスを見る。
「見ろ。」
「これが現実だ。」
「理想を語れば、誰かが潰れる。」
「違います。」
セバスは静かだった。
「今。」
柱を見る。
「潰れておりません。」
アレクシアとヴィクトル。
二人で支えている。
「一人で背負わない。」
「それを。」
「私は。」
「公爵家で教わりました。」
グレゴールの瞳が揺れた。
「お前は変わった。」
「はい。」
「弱くなった。」
「はい。」
「それでも。」
セバスは短杖を握る。
「今の方が。」
「誇れます。」
グレゴールが吠えた。
黒い魔法陣が巨大化する。
魔石へ最後の魔力が集まる。
「全部燃やせ!」
「記録ごと!」
「王国も帝国も!」
「全部!」
魔石が赤黒く染まる。
暴走。
ルシアンが顔を上げた。
「クラリス様!」
「あと少しです!」
帳簿の最後の一冊。
まだ空白。
あと数十名。
数十名で。
魔石は止まる。
だが。
時間が足りない。
クラリスは羽根ペンを見る。
普通なら。
一人ずつ書く。
確認する。
署名する。
それが監査。
だが。
「今回は。」
羽根ペンを置いた。
「全員。」
両手を帳簿へ置く。
「まとめて受領します。」
紫色の魔法陣。
帳簿全体が光る。
王国の記録。
帝国の記録。
黒陽宮が奪った名前。
すべてが一冊へ流れ込む。
「そんな馬鹿な!」
グレゴールが叫ぶ。
「人間にそんな量!」
「受領未開封ではありません。」
クラリスは静かに言う。
「受領確認済みです。」
紫の光が。
零番庫いっぱいへ広がる。
名前。
名前。
名前。
忘れられていた全員の名前が。
帳簿へ戻っていく。
魔石の鼓動が止まる。
静寂。
その次の瞬間。
ぱきん。
小さな音。
黒い魔石へ一本の亀裂が入った。
続いて。
二本。
三本。
蜘蛛の巣のように広がる。
グレゴールが初めて青ざめた。
「止まれ……。」
「止まるな……!」
だが。
魔石は命令を聞かなかった。
名前を失った魔力は強い。
だが。
名前を取り戻した人間の記録は。
もっと強かった。
ぱあん!!
黒い魔石が砕け散る。
紫黒い瘴気が天井へ昇る。
ヨルが一歩前へ出た。
「全部ではありません。」
クラリスが言う。
「最後だけ。」
ヨルは小さく頷いたように見えた。
黒い煙の最後の欠片だけを。
静かに飲み込んだ。
零番庫の灯りが戻る。
赤い光は消えた。
王宮。
皇城。
結界暴走術式。
停止。
ルシアンが崩れ落ちた。
「終わりました……。」
クラリスは帳簿を閉じる。
「確認。」
午後十時三分。
黒陽宮魔力炉。
停止。
消去記録。
移管完了。
未確認。
一件。
クラリスは。
グレゴールを見た。
「あなたです。」
老人は静かに笑った。
もう。
逃げる顔ではなかった。
「最後まで。」
「帳簿だったな。」
「はい。」
「最後まで。」
「人でした。」
クラリスは答えた。
「帳簿は、人を残すためにあります。」
零番庫に。
長い静寂が降りた。
偽りの戦争は終わった。
だが。
黒陽宮の全貌は。
まだ、すべてを書き終えてはいなかった。




