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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第三章 悪女令嬢は、帝国の帳簿を読む
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第38話 悪女令嬢は、残り時間まで記録する



 残り時間。


 二時間二十八分。


 人は、時間が減ると焦る。


 焦ると。


 目の前に差し出された答えを、正しいものだと思いたくなる。


 署名すれば止まる。


 従えば助かる。


 諦めれば、誰かの責任にできる。


 グレゴール・ヴァイスが用意したのは。


 そういう時間だった。


「記録を開始します」


 クラリスが言った。


 零番庫の床を、紫黒い魔法陣が覆っていく。


 壁の隙間から黒陽草の根が這い出す。


 棚に収められた帳簿が、ばたばたと頁を開き始めた。


 風はない。


 魔力で動いている。


「記録だと?」


 グレゴールが笑う。


「あと二時間もない。王宮と皇城が閉じれば、紙など何の役にも立たん」


「ですので、時刻も残します」


 クラリスは帳面へ書いた。


 午後九時三十二分。


 グレゴール・ヴァイス、黒陽宮最終帳簿への署名を要求。


 拒否。


 王国王宮および帝国皇城の結界暴走まで、二時間二十八分。


「何をしている!」


 アレクシアが叫んだ。


「敵の発言を記録しています」


「見れば分かる!」


「後で、誰が見ても分かるようにしています」


「今は戦闘中だぞ!」


「まだ戦闘開始前です」


 その瞬間。


 黒陽草の根が床から跳ねた。


 クラリスの手首へ伸びる。


 黒檀の杖が動く。


 杖先で根を受け。


 止めず。


 横へ流す。


 根は机の脚へ絡みついた。


「今、始まりました」


「訂正が早い!」


 アレクシアが長槍を振るう。


 深紅の穂先が根をまとめて薙ぎ払った。


 切断された根から、黒紫色の煙が噴き出す。


「ヨル!」


 クラリスが呼ぶ。


 黒い子犬が前へ出る。


 背後に、巨大な影狼。


 だが。


 飛びつこうとしたヨルの前を、クラリスの杖が遮った。


「全部は喰わないでください」


 ヨルが不満そうに唸る。


「前回、限界を超えました」


 さらに唸る。


「交渉ではありません」


 ヨルは、黒紫の煙の細い部分だけへ噛みついた。


 少しは学習している。


 少しだけ。


「セバス」


 クラリスが言う。


「グレゴール様の確保を」


「承知いたしました」


 セバスは白手袋を外した。


 古傷に覆われた手。


 右手には銀の短杖。


 左手は空いている。


 グレゴールは椅子から立ち上がった。


 杖も剣も持っていない。


 だが。


 袖口から、細い刃が二本滑り出す。


「昔と同じだな」


 グレゴールが言った。


「お前は正面から来ない」


「現在は、正面に立っております」


「女の横に隠れているだけだ」


 セバスの目が、わずかに冷える。


「お嬢様の隣でございます」


「同じだ」


「違います」


 二人が動いた。


 音が遅れて聞こえた。


 グレゴールの刃。


 セバスの短杖。


 金属が触れ。


 外れ。


 もう一度ぶつかる。


 グレゴールは老いている。


 それでも速い。


 セバスの喉を狙う。


 次に脇腹。


 二十五年前と同じ場所。


 セバスは半歩下がり、刃の軌道を短杖で逸らした。


「覚えているか」


 グレゴールが囁く。


「その傷をつけたのは私だ」


「はい」


「怖いか」


「はい」


 正直な返答だった。


 グレゴールの動きが、ほんのわずかに止まる。


「恐怖を認めるようになったか」


「主人が、嘘を嫌いますので」


 セバスの短杖が、グレゴールの手首へ入った。


 一本目の刃が落ちる。


 だが、二本目がセバスの肩を浅く裂いた。


「セバス!」


 ルシアンが叫ぶ。


「軽傷でございます」


「まだ確認していません!」


 クラリスが言った。


「後ほど、確認を」


 セバスは視線をグレゴールから外さない。


 その間にも。


 零番庫の魔法陣は広がっていた。


「術式の中心はどこですか」


 クラリスがルシアンへ尋ねる。


 少年は銀杖を床へ突き立てている。


 青白い魔力線が、黒い術式の上を走る。


「一つではありません!」


「複数?」


「王宮用と皇城用。二つの術式があります。それから、この零番庫を焼却する術式も」


「合計三つ」


「いいえ」


 ルシアンの声が強張る。


「四つです」


「もう一つは」


「クラリス様の署名を読み取る術式」


 黒陽宮最終帳簿。


 空白の署名欄。


 そこから、細い紫の線が伸びている。


 クラリスの羽根ペンへ。


「書くだけでも危険です!」


 ルシアンが叫んだ。


「筆跡を集めています!」


 クラリスは、手元の帳面を見る。


 先ほどから書いていた記録。


 羽根ペン。


 インク。


 紙へ残した筆跡。


「この帳面も罠の一部に?」


「零番庫全体が記憶と筆跡を読む術式になっています!」


 グレゴールが笑う。


「記録を始めると思っていた」


 セバスの短杖を避けながら。


 老人は言う。


「お前は、何があっても書く」


「そうですね」


 クラリスは答えた。


「ならば、その筆跡はこちらで使わせてもらう」


 最終帳簿の署名欄へ、紫色の線が集まり始めた。


 一画。


 二画。


 クラリスの名が。


 勝手に書かれていく。


「止めます!」


 ルシアンが銀杖を向ける。


 だが、別の黒い導線が少年の魔法陣へ噛みついた。


 青白い光が揺れる。


「魔力を吸われています!」


 クラリスは、署名欄を見た。


 自分の筆跡。


 よく似ている。


 だが。


「違います」


「何?」


 グレゴールが彼女を見る。


「私の署名ではありません」


「筆跡は同じだ」


「最後の払いが、わずかに長い」


「その程度」


「それから」


 クラリスは、自分の帳面を閉じた。


「私は、確認前の書類へ姓まで署名しません」


 署名欄には。


 クラリス・フォン・アルベルティーナ。


 正式名が書かれつつある。


 だが、彼女が通常の仮確認で使う署名は。


 クラリス・A。


 正式な承認時のみ、全名を書く。


「あなたは筆跡を読みました」


 クラリスは言った。


「ですが、運用を読んでいません」


 グレゴールの表情から、少しだけ余裕が消えた。


「ルシアン殿下」


「はい!」


「偽造署名を完成させてください」


「えっ」


 全員がクラリスを見る。


 アレクシアが叫んだ。


「何を言っている!」


「正確には、完成したように見せます」


「どうやって」


「最後の一画だけ、異なる魔力で書きます」


 ルシアンが理解した。


「術式に署名完了と誤認させる」


「はい」


「でも、それでは暴走解除の命令も」


「作動します」


「敵の条件を受け入れるのか!」


 アレクシアが言う。


「いいえ」


 クラリスは、最終帳簿の一つ前の頁を指した。


 解除条件。


 署名。


 確認者魔力。


 そして。


 承認時刻。


「時刻欄が空白です」


「それが?」


「署名だけでは、正式承認になりません」


 グレゴールが帳簿へ手を伸ばそうとする。


「ヴィクトル様!」


 クラリスの声。


 ヴィクトルは、すでに動いていた。


 剣を抜かず。


 鞘のまま、グレゴールと帳簿の間へ差し込む。


 老人の手を押し返す。


「帳簿へ触るな」


「辺境伯風情が」


「現場では、帳簿より先に人を止める」


 ヴィクトルは兵を連れていない。


 だが、部屋全体を戦場として見ている。


 棚。


 扉。


 魔法陣。


 逃げ道。


 誰をどこへ置けば、全員が動けるか。


「アレクシア皇女殿下」


 クラリスが言った。


「零番庫の北側の根を」


「全部切ればよいのか」


「半分だけ」


「なぜだ!」


「王宮用と皇城用の導線を分離します」


「どちらがどちらだ」


「右が王宮。左が皇城」


「根に国名を書いておけ!」


 アレクシアは叫びながらも、正確に左側だけを薙いだ。


 深紅の槍。


 黒陽草の根が切れる。


 帝国皇城へ伸びる魔力導線が、一瞬だけ露出した。


「今です!」


 ルシアンが銀杖を振るう。


「氷結封印!」


 左側の導線が青白く凍る。


「皇城側、停止!」


「残りは王宮側です」


 クラリスが言う。


「ヴィクトル様、中央の根を右へ」


「了解した」


 巨大な根が床を這う。


 ヴィクトルは剣を抜いた。


 斬るのではない。


 剣の腹で押す。


 兵の隊列を動かすように。


 根の向きを変える。


「ヨル」


 クラリスが呼ぶ。


「その根の瘴気だけを」


 ヨルが飛びつく。


 影狼の牙が、王宮側の黒紫の煙を噛み砕く。


 だが。


 床の下から、さらに根が湧いた。


 一つ。


 二つ。


 十。


 王国王宮へ伸びる術式を守るように。


「多すぎます!」


 ルシアンが叫ぶ。


「倒しても、また来ます!」


「薬草畑と同じです」


 クラリスは床を見る。


 根を倒しても終わらない。


 発生点。


 流れを束ねる場所。


 それは。


 黒陽宮最終帳簿ではない。


 帳簿は命令書。


 動力は別にある。


「ヴィクトル様」


「何だ」


「この部屋に、風はありますか」


「風?」


 零番庫は地下。


 扉も閉じている。


 だが、帳簿の頁が揺れている。


 魔力だけではない。


 わずかな風。


 右奥の棚。


「通気口です」


 クラリスが言った。


「違います!」


 ルシアンが魔力を読む。


「あれは魔力の吸入口です!」


 グレゴールが初めて明確に顔を歪めた。


「黙れ!」


 セバスへ向けていた刃を、クラリスへ投げる。


 セバスが身を投げ出した。


 短杖で刃を弾く。


 だが、体勢が崩れる。


 グレゴールの蹴りが、セバスの胸へ入った。


 老執事が床へ倒れる。


「セバス!」


「問題……ございません」


「今の声は問題があります!」


 クラリスは駆け寄ろうとした。


 だが、セバスが片手を上げる。


「お嬢様」


 息を整えながら。


「吸入口を」


 クラリスは止まった。


 セバス自身が。


 自分ではなく、任務を優先した。


 以前なら、そのまま従っていたかもしれない。


「ヴィクトル様」


「分かっている」


 ヴィクトルがセバスの前へ入る。


「ここは俺が守る」


「辺境伯様」


「自分の傷を確認しろ。命令だ」


 セバスは少しだけ目を見開いた。


 そして。


「承知いたしました」


 自分の胸へ手を当てる。


 呼吸。


 出血。


 骨。


 自分自身を確認する。


 その間に。


 クラリスは右奥の棚へ向かった。


 根が襲う。


 杖術《流水》。


 一本目を流す。


 二本目を踏み越える。


 三本目を杖で絡め、別の根へぶつける。


「アレクシア皇女殿下!」


「今度は何だ!」


「通路を開けてください!」


「正面からか!」


「正面からです!」


 アレクシアの顔が、わずかに笑った。


「ようやく分かったか!」


 長槍を回す。


 力。


 速度。


 正面突破。


 根を切り。


 払い。


 踏みつぶす。


 クラリスのために、一直線の道を作る。


「行け、クラリス!」


 クラリスは走った。


 右奥の棚。


 魔力吸入口。


 その前へ、グレゴールが立つ。


 セバスをヴィクトルへ任せ。


 老人自身が来た。


「ここは通さん」


「なぜですか」


「お前には理解できない」


「では、説明してください」


「戦闘中だぞ」


「話しながらでも構いません」


「本当に面倒な女だ」


 グレゴールの袖から、新しい刃が出る。


「この先にあるのは、黒陽宮の心臓だ」


「動力源ですか」


「二十五年分の記録だ」


「記録?」


「消された名前」


 グレゴールの声が低くなる。


「死んだ兵士。消えた商人。処理された密偵。売られた孤児。存在しなかったことにされた者たち」


 クラリスの足が、ほんの少し止まる。


「その記録を魔力へ変えている」


「人の記憶を?」


「記録は力だと、お前も知っているだろう」


「だから、燃料にしたのですか」


「誰にも覚えられていない者は、使わなければ完全に消える」


「使う?」


「国を変えるために使う」


「違います」


 クラリスの紫の瞳が、冷たくなる。


「あなたは、もう一度その人たちを利用している」


 生きている時に利用され。


 死んだあと。


 記録まで燃料にされる。


 どこまでも。


 本人の意思がない。


「名前を残すことと」


 クラリスは黒檀の杖を構えた。


「所有することは別です」


 グレゴールが踏み込む。


 刃。


 速い。


 クラリスは正面で受けない。


 杖を沿わせ。


 刃を外へ流す。


 グレゴールの手首へ杖先を当てる。


 だが、老人はそれを読んでいた。


 逆の手。


 細い針。


 クラリスの首元へ。


 その針を。


 銀の短杖が横から弾いた。


「セバス」


 老執事が立っていた。


 呼吸はまだ浅い。


 だが、自分の足で。


「確認は」


「肋骨に、ひびの可能性」


「下がってください」


「お断りいたします」


「命令です」


「その命令だけは」


 セバスはグレゴールを見た。


「後ほど、始末書を提出いたします」


「先に治療費の請求です」


「承知しました」


 グレゴールが笑った。


「二人で私を止めるか」


「いいえ」


 クラリスが答える。


「全員です」


 ルシアンの魔法陣が、グレゴールの足元へ広がる。


 氷が靴底を固定する。


 アレクシアの槍が、逃げ道を塞ぐ。


 ヴィクトルが中央の根を押さえる。


 ヨルの影狼が、瘴気を噛む。


 セバスが刃を止める。


 そして。


 クラリスの杖が、グレゴールの手首を払った。


 刃が落ちる。


「今です」


 セバスの短杖が、師の喉元へ。


 二十五年前と同じ距離。


 今度は。


 刺さない。


「終わりです、グレゴール」


「殺さないのか」


「はい」


「甘くなったな」


「そうかもしれません」


 セバスは答えた。


「ですが」


 クラリスが、魔力吸入口の奥にある小さな扉へ手をかける。


「記録を残す方が」


 扉を開く。


「あなたには、重いでしょう」


 扉の向こう。


 無数の紙片が浮いていた。


 一枚ずつ。


 名前。


 日付。


 年齢。


 所属。


 死亡理由。


 消去命令。


 誰かの人生が、細い魔力の糸で束ねられている。


 その中心。


 黒い魔石。


 脈打つたび。


 王国と帝国へ魔力を送っている。


「ルシアン殿下!」


「見えています!」


 少年が銀杖を向ける。


「でも、壊せません!」


「なぜ」


「魔石を壊せば、記録も全部消えます!」


 グレゴールが、喉元に短杖を当てられたまま笑う。


「選べ」


「国を救うなら、記録を消せ」


「記録を守るなら、一万二千人を見捨てろ」


 残り時間。


 二時間十一分。


 クラリスは。


 浮かぶ無数の名前を見た。


 国を救う。


 記録を守る。


 どちらか一つ。


 また。


 人の命を反対側の欄へ置く問い。


「お断りします」


 クラリスは言った。


「何を」


「その二択を」


 グレゴールの目が細くなる。


「選ばなければ、両方失う」


「いいえ」


 クラリスは黒檀の杖を、魔石ではなく。


 魔力の糸が束ねられた結び目へ向けた。


「帳簿は、二列だけではありません」


 収入。


 支出。


 資産。


 負債。


 責任。


 未処理。


 保留。


 移管。


 再計上。


「ルシアン殿下」


「はい」


「記録を別の媒体へ移せますか」


「量が多すぎます」


「零番庫の帳簿へ」


 壁一面の棚。


 空白の頁。


 消された記録を保管するために作られた場所。


「魔力記録を文字記録へ戻します」


「そんなこと」


「できますか」


 ルシアンは、無数の紙片と魔石を見る。


 怖い。


 難しい。


 失敗すれば。


 だが。


 少年は銀杖を握り直した。


「やります」


「成功率は」


「……分かりません」


「正直でよろしい」


「姉様」


「公務中です」


「今だけは言わせてください」


 ルシアンは笑った。


「姉様なら、そう言うと思いました」


 アレクシアが叫ぶ。


「私たちは何をすればいい!」


「魔力の流出を止めてください!」


「具体的に!」


「皇女殿下は皇城側!」


「分かった!」


「ヴィクトル様は王宮側!」


「了解!」


「ヨルは漏れた瘴気だけを!」


 ヨルが吠える。


「セバスは」


 クラリスは一瞬、老執事を見る。


 グレゴールを押さえている。


 過去。


 師。


 決着。


「グレゴール様を、生きたまま」


「承知いたしました」


 セバスの短杖は揺れない。


 クラリスは、押収記録を開いた。


「私は」


 羽根ペンを取る。


「移された記録を、一人ずつ確認します」


 グレゴールが初めて声を荒らげた。


「間に合うものか!」


「残り時間まで記録します」


「無駄だ!」


「無駄かどうかは」


 クラリスは、最初の名前を書く。


「最後に確認します」


 午後九時四十九分。


 記録移管作業、開始。


 対象。


 黒陽宮により消去された個人記録。


 推定件数。


 未確認。


 目的。


 王国王宮・帝国皇城の結界暴走停止。


 および。


 消された名前の回復。


 悪女令嬢は。


 国か。


 記録か。


 どちらかを選ばなかった。


 両方を取り戻すため。


 残り時間まで、帳簿へ書き始めた。


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