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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第三章 悪女令嬢は、帝国の帳簿を読む
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第37話 最後の頁に、署名はしません

 帳簿の最後の頁に書かれるのは、合計金額だけではない。


 誰が確認したか。


 誰が承認したか。


 そして。


 誰が責任を引き受けたか。


 最後の頁とは。


 逃げ道を閉じるための場所である。


「遅かったな」


 零番庫の中央。


 グレゴール・ヴァイスは、湯気の立つ紅茶を前にして笑っていた。


 灰色の髪。


 右目を横切る古い傷。


 セバスの記憶に残る姿より、当然ながら老いている。


 だが。


 声も。


 指の動きも。


 紅茶のカップを持つ角度も。


 セバスが知る男のものだった。


「グレゴール」


 セバスが名を呼ぶ。


「師を呼び捨てか」


「二十五年前に、関係は終了しております」


「私を殺した時に?」


「はい」


 グレゴールは楽しそうに笑った。


「相変わらず堅い」


「現在は執事でございますので」


「執事」


 その言葉を、グレゴールは口の中で転がした。


「夜帳で最も優秀だった帳消しが、今は令嬢の紅茶を淹れている」


「紅茶だけではございません」


「何をしている」


「記録を守っております」


 グレゴールの笑みが、わずかに薄くなった。


 クラリスは一歩前へ出た。


 黒檀の杖は右手。


 左手には、押収記録用の帳面。


「あなたがグレゴール・ヴァイス様であることを証明できるものはありますか」


 老人がクラリスを見る。


「本人を前にして、最初に聞くことがそれか」


「声や外見は偽装できます」


「セバスが認めている」


「記憶は改ざんできます」


 ルシアンが銀杖を構えたまま頷く。


「この零番庫の扉にも、記憶へ干渉する術式がありました」


「つまり」


 クラリスは言った。


「あなたが本当にグレゴール・ヴァイス様であるかも、現在は確認中です」


 アレクシアが隣で小さく笑った。


「死者扱いの男が、さらに本人確認で止められたか」


「皇女殿下」


「何だ」


「今は笑うところではありません」


「少しだけだ」


 グレゴールは、クラリスをしばらく観察していた。


「報告以上だな」


「どのような報告でしょう」


「肩書を恐れず、言葉を曲げず、目の前にいる人間より紙を信じる」


「最後は正確ではありません」


「違うのか」


「人間より紙を信じているのではありません」


 クラリスは答えた。


「人間の言葉と、紙の記録を照合しています」


「結果は同じだ」


「いいえ」


 クラリスは零番庫の棚を見渡した。


 王国の極秘文書。


 帝国の軍務記録。


 黒陽草の栽培記録。


 ローゼン商会の裏契約。


 黒陽宮共同設立記録。


「紙にも嘘は書けます」


 グレゴールの目が細くなった。


「それを、お前が言うのか」


「何か問題が?」


「帳簿で王宮を動かし、帝国皇女まで動かした女が」


「私は帳簿だけで動かしておりません」


「では何だ」


「事実です」


 部屋が静まった。


 グレゴールは紅茶を一口飲んだ。


「良い答えだ」


「評価は不要です」


「では、話を始めよう」


 老人が指を鳴らした。


 零番庫の扉が、重い音を立てて閉じた。


 ヴィクトルがすぐに振り返る。


「退路が閉じた」


「予想通りだ」


 アレクシアが長槍を構える。


「壊すか」


「まだです」


 クラリスが止めた。


「毎回止めるな」


「中の資料が燃える可能性があります」


 ルシアンが扉へ魔術を当てた。


「クラリス様の言う通りです。扉を破壊すると、棚の焼却術式が作動します」


「本当に趣味が悪いな」


 アレクシアが吐き捨てる。


「記録は、扱い方を誤れば危険だからな」


 グレゴールが言った。


「お前たちは、その価値をよく知っている」


 彼は机の上に置かれた黒い帳簿へ手をかけた。


 分厚い表紙。


 中央には、半分だけ描かれた黒い太陽。


「これは何ですか」


 クラリスが尋ねる。


「黒陽宮の最後の帳簿だ」


「共同設立記録とは別の?」


「あれは始まりの記録。こちらは完成の記録だ」


 グレゴールが帳簿を開く。


 最初の頁。


 王国王宮の防御結界図。


 次の頁。


 帝国皇城の防御結界図。


 王国西部軍の配置。


 帝国東部軍の補給経路。


 国境村の食料備蓄。


 軍需商会の契約額。


 薬草研究院の実験記録。


 そのすべてが、一つの計画表へつながっている。


「偽造戦争計画」


 ルシアンが呟いた。


「そう呼んでいるのか」


「両国の結界を同時に暴走させ、互いの攻撃に見せかける」


 クラリスは頁を目で追った。


「王国には帝国式の痕跡を残す」


「帝国には王国式を」


 ヴィクトルが言う。


「国境軍が動く」


「王族は結界内に閉じ込められる」


 アレクシアの声が低くなった。


「命令系統が混乱したところで、偽の出撃命令を流す」


「そうだ」


 グレゴールは穏やかに答えた。


 まるで、天候の話をするように。


「何人死ぬ」


 アレクシアが尋ねる。


「計画では、初月に兵と民を合わせて一万二千ほど」


 長槍の穂先が、わずかに上がった。


 ヴィクトルが皇女の前へ片腕を出す。


「まだだ」


「一万二千だぞ」


「分かっている」


「分かっていて止めるのか」


「今殺せば、計画を止める方法が分からなくなる」


 アレクシアの歯が鳴った。


 それでも、槍を下げる。


 クラリスは計画表から目を離さなかった。


「戦争を始めることが目的ではありませんね」


 グレゴールの笑みが戻る。


「続けることだ」


 武器が売れる。


 薬が売れる。


 食料が売れる。


 橋を壊せば、石材が売れる。


 水路を止めれば、復旧費が出る。


 孤児が増えれば、慈善予算が増える。


 兵士が負傷すれば、魔術義肢が売れる。


 国が疲れれば。


 国境商人。


 軍需貴族。


 薬草研究院。


 情報組織。


 暗部。


 そのすべてが必要とされ続ける。


「どちらかが勝ってはいけない」


 グレゴールは言った。


「王国も帝国も、強くなりすぎてはいけない」


「弱くなりすぎても?」


「困る。商品を買えなくなる」


 アレクシアの顔から、怒りさえ消えた。


 残ったのは、冷たい軽蔑だった。


「帝国の名を使いながら、国を商品としか見ていないのか」


「国とは大きな市場だ」


「民は」


「市場を構成する数字だ」


 クラリスの羽根ペンが止まった。


「数字ではありません」


「お前がそれを言うのか」


 グレゴールはクラリスを見る。


「負傷者数。被害額。支援費。未払い金。お前も人を数字で並べる」


「並べます」


「同じだ」


「違います」


 クラリスは迷わなかった。


「私は、見落とさないために数えます」


 負傷者二十七名。


 重傷者三名。


 死者零。


 水路損傷四か所。


 数字にするから。


 誰が治療を必要としているか分かる。


 どの水路を直すべきか分かる。


 何枚の毛布が足りないか分かる。


 誰へ謝罪し。


 誰へ支払い。


 誰の暮らしを戻すべきか分かる。


「あなたは」


 クラリスはグレゴールへ言った。


「消してもよい人間を決めるために数えている」


「お前は救える人間を選んでいるだけだ」


「選びません」


「すべてを救えると?」


「できないこともあります」


「なら同じだ」


「できなかったことを、なかったことにはしません」


 クラリスの声が、零番庫へ静かに響いた。


「失ったものを損失として残します」


「亡くなった方のお名前を残します」


「届かなかった毛布の枚数を残します」


「曲げられた水の行き先を残します」


「そして」


 黒い帳簿を指す。


「誰が、それを行ったかを残します」


 グレゴールの指が、帳簿の上で止まった。


「セバス」


 老人は、突然彼を呼んだ。


「はい」


「お前は、この女に何を教えた」


「何も」


「嘘だ」


「お嬢様は、私が教える前から記録しておられました」


 セバスは一歩前へ出る。


「私が教わったのでございます」


「記録を消してきたお前が?」


「はい」


「何人の名を消した」


「数えておりません」


「では、覚えてもいない」


「だから」


 セバスの白手袋が、静かに握られる。


「これから数えます」


 グレゴールが鼻で笑った。


「遅い」


「遅くとも」


 セバスは答えた。


「始めないよりは、ましでございます」


「私を憎んでいるか」


「はい」


 セバスは、正直に言った。


「殺したいか」


「はい」


 アレクシアがわずかに振り返る。


 ルシアンも息を止めた。


 セバスは続ける。


「ですが、殺しません」


「なぜだ」


「お嬢様の命令です」


「自分の意思はないのか」


「ございます」


 セバスはクラリスの前ではなく。


 隣に立った。


「私は、あなたを帳簿の中へ戻したい」


 グレゴールの目が細くなる。


「名前を残す」


「行ったことを残す」


「誰に命じられ」


「誰と手を結び」


「誰を消したのか」


「すべて」


 セバスは言った。


「消せない形で残します」


 しばらく。


 誰も動かなかった。


 やがてグレゴールは、喉の奥で笑った。


「完成したな」


「何がですか」


 クラリスが尋ねる。


「最後の頁に必要なものが」


 グレゴールは黒い帳簿を、クラリスの方へ滑らせた。


 最終頁。


 そこには、すでに複数の印章が押されている。


 帝国商務庁。


 王国王宮薬草局。


 国境軍需商会連合。


 黒陽宮。


 さらに。


 王国王妃の偽造印章。


 帝国皇女アレクシアの偽造印章。


 王太子レオンハルトの偽造印章。


 皇帝府の偽造印章。


 そして、一番下。


 空欄の確認者欄。


『両国合同特別監査確認者』


 その横に。


 クラリス・フォン・アルベルティーナ。


 名前だけが、先に印刷されていた。


「私の署名が必要なのですね」


「そうだ」


「何のために」


「事実にするためだ」


 グレゴールは、満足そうに答えた。


「王宮を帳簿で精算した悪女」


「帝国皇女と正面から渡り合った王国の公爵令嬢」


「ローゼン商会の不正を暴き、両国の陰謀を追った監査者」


「今、お前の言葉を疑う者は少ない」


 黒陽宮が作った偽の記録。


 両国による攻撃準備。


 皇女の承認。


 王太子の承認。


 その最後へ。


 クラリスが確認したと署名する。


 それだけで。


 偽造された戦争は、誰よりも信頼される記録になる。


「お前が署名すれば」


 グレゴールは言った。


「両国の民は、戦争を信じる」


「お断りします」


 即答だった。


 グレゴールの笑みは崩れない。


「まだ条件を話していない」


「聞く必要がありません」


「署名すれば、王宮と皇城の暴走術式を停止する」


 ルシアンが顔を上げた。


「すでに作動しているのですか」


「日付が変われば始まる」


「あと何時間だ」


 ヴィクトルが問う。


「二時間半」


 アレクシアが槍を構えた。


「解除しろ」


「署名が先だ」


「断れば」


「両国の結界が閉じる」


 王国王宮。


 帝国皇城。


 内部にいる王族。


 文官。


 兵士。


 給仕。


 侍女。


 すべてが閉じ込められる。


 同時に、偽の攻撃記録が両国軍へ流れる。


「人質ですね」


 クラリスが言った。


「国を人質に取るとは、規模の大きいことです」


「感想はそれだけか」


「いいえ」


 クラリスは最終頁を見た。


 署名欄。


 偽造印章。


 作動時刻。


 そして、頁の端。


 ほんの小さな数字。


「この帳簿は、いつ作成されましたか」


「何?」


「最終頁の紙は、ほかの頁より新しい」


 グレゴールの目が、初めてわずかに動いた。


「署名の話をしている」


「確認しています」


 クラリスは紙を光へ傾ける。


「さらに、作動時刻が記された欄だけ、インクが違います」


「だから何だ」


「術式の開始時刻を、あなたが変更した」


 ルシアンが最終頁へ銀杖を近づける。


 青い光。


 消されていた文字が浮かび上がる。


 元の時刻。


 親善祭最終日の正午。


 現在記載されている時刻は、今夜零時。


「早めたのですね」


 クラリスが言った。


「私たちが零番庫へ来ることになったから」


 グレゴールは答えない。


「そして、手書きで時刻を変更した」


「何が言いたい」


「あなたにも時間がない」


 グレゴールの笑みが消えた。


「術式は零番庫と接続されています」


 ルシアンが魔力導線を読む。


「ここから命令を送る必要がある」


「つまり」


 クラリスは、最終頁を閉じた。


「私たちを今すぐ殺せない」


 アレクシアの黄金の目が輝く。


 ヴィクトルは、すでに退路と棚の配置を確認している。


 セバスの手から、静かに銀の短杖が現れた。


 ヨルが低く唸る。


 グレゴールは椅子から立ち上がった。


「署名しろ」


「しません」


「一万二千人が死ぬ」


「あなたが殺すのです」


「お前が署名を拒んだからだ」


「責任をこちらへ移さないでください」


 クラリスは黒檀の杖を構えた。


「実行者は、あなたです」


 グレゴールの足元に、黒い魔法陣が広がった。


 零番庫の棚が一斉に震える。


 黒陽草の根が、壁の隙間から伸び始める。


「最後の頁を閉じよう、セバス」


 グレゴールが言った。


 セバスは、クラリスの横で短杖を構える。


「いいえ」


 静かな声だった。


「今度は」


 白手袋を外す。


 古傷に覆われた手。


「あなたの頁を、開きます」


 時刻は、午後九時三十二分。


 王宮と皇城の結界が暴走するまで。


 残り二時間二十八分。


 クラリスは、押収記録の新しい頁を開いた。


「記録を開始します」


 アレクシアが叫ぶ。


「この状況でか!」


「この状況だからです」


 悪女令嬢は。


 最後の頁に署名しなかった。


 代わりに。


 黒陽宮の最後を記録するための頁を。


 自分の手で開いた。



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