第36話 零番庫へ向かう馬車には、帳簿が多すぎる
少人数で向かう、と決めたはずだった。
だが、馬車の中は少人数とは言い難かった。
クラリス。
アレクシア皇女。
ヴィクトル辺境伯。
ルシアン王子。
セバス。
ヨル。
人間五名。
暫定希少魔獣一頭。
そして、帳簿が七冊。
押収記録。
黒陽宮共同設立記録。
帝国財務省旧施設台帳。
ローゼン商会関連支出控え。
王国西庭園旧温室記録写し。
セバス記録。
ヨル記録。
最後の一冊については、クラリスも持ってくるべきか少し迷った。
だが、ヨルは過去に何度も安静指示を破り、証拠物に前足を載せ、瘴気を勝手に喰らいかけている。
記録は必要である。
「お嬢様」
セバスが言った。
「何かしら」
「ヨル記録まで零番庫へお持ちになるとは、たいへん用意周到でございます」
「現場で追記が必要になる可能性があります」
「ヨル様への信頼が、独特な方向へ育っておりますな」
足元で丸まっていたヨルが、ぱた、と尻尾を動かした。
褒められたと思ったのかもしれない。
正確には、監査対象に近い。
「それより」
アレクシアが向かいの席で腕を組んだ。
「本当にこの人数で行くのか」
「多いくらいです」
クラリスが答える。
「帝国第一皇女と王国王子と辺境伯と公爵令嬢が一台の馬車に乗っている時点で、少人数というより、事件の火種だぞ」
「名目上は、途中合流しておりません」
「書類の上では、だろう」
「はい」
「現実を軽視するな」
「軽視しておりません。偽装しています」
アレクシアは、やや疲れたように額を押さえた。
「お前といると、言葉の切れ味で少しずつ削られる」
「皇女殿下も、槍で物理的に削ります」
「あれは敵だ」
「私も敵に対してです」
「書類に対してだろう!」
ルシアンが小さく笑った。
少し前なら、クラリスとアレクシアのやり取りにおろおろしていただろう。
今はもう、二人が本気で険悪ではないと分かっている。
むしろ、これが二人なりの確認作業なのだ。
槍で距離を測る皇女。
言葉で距離を測る悪女令嬢。
相性は悪い。
だからこそ、噛み合い始めている。
馬車は帝都を出て、西へ向かう旧街道へ入った。
表向き、アレクシア皇女は西部農業視察。
ヴィクトルは国境水利会議。
ルシアンは魔術学院地方施設視察。
クラリスは両国商流調査。
実際には。
旧ハルツ税関。
通称、零番庫。
黒陽宮共同設立記録に書かれていた、最後の頁の保管先へ向かっている。
セバスは、窓の外を見ていた。
表情は静かだった。
いつも通りの執事の顔。
だが、指先だけが普段よりわずかに硬い。
クラリスはそれを見た。
「セバス」
「はい」
「具合は」
「良好でございます」
「感情の方です」
セバスが、一瞬だけ黙った。
「……良好とは言い難いかと」
「記録します」
「お嬢様」
「必要です」
「セバス記録は、思ったよりも細かいのですね」
「ヨル記録ほどではありません」
ヨルが顔を上げた。
自分の名前が出たことだけは分かるらしい。
「グレゴール・ヴァイスが本当に生きていた場合」
クラリスは続けた。
「あなたは冷静でいられますか」
馬車内が少し静まった。
アレクシアも、ヴィクトルも、ルシアンも、口を挟まない。
これは、クラリスとセバスの確認だった。
「分かりません」
セバスは正直に答えた。
「殺したいと思いますか」
「思わない、と申し上げれば嘘になります」
「分かりました」
「ですが」
セバスは白手袋の指を重ねた。
「お嬢様の命令が、私の感情より優先されます」
「私の命令で殺すことはありません」
「承知しております」
「生きたまま確保します」
「はい」
「ただし」
クラリスは、セバスをまっすぐ見た。
「グレゴール様があなたを殺そうとした場合、防衛は許可します」
「それは、私自身の防衛ですか」
「はい」
「お嬢様の護衛としてではなく」
「あなた自身です」
セバスの目が、ほんの少し揺れた。
彼は長い間、自分の命を主人や任務の付属物として扱ってきた。
暗部にいた頃は、命令のため。
公爵家へ来てからは、クラリスを守るため。
自分を守る、という発想は薄かったのかもしれない。
「セバス」
「はい」
「あなたは、損失欄に入れません」
ヨルが小さく鳴いた。
ルシアンが静かに目を伏せた。
ヴィクトルは窓の外を見ている。
アレクシアだけが、少し不器用に言った。
「そうだ。勝手に消えるな」
セバスは、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
旧街道は、途中から人通りが減った。
石畳は割れ、草が伸び、古い関所跡が点々と残っている。
かつては王国と帝国をつなぐ重要な道だった。
今は、正式な国境検問が別の場所へ移り、商人も兵も通らない。
地図の上では、細い線。
帳簿の上では、維持費だけが残る道。
その先に、旧ハルツ税関はあった。
夕暮れの山影の中。
石造りの大きな門。
半分崩れた監視塔。
朽ちた鉄柵。
そして、税関本館の扉には、古い帝国紋章が残っている。
双頭鷲。
片方の頭だけが削られていた。
「廃墟にしては、道が整っている」
ヴィクトルが言った。
「最近も使われています」
クラリスは馬車を降り、地面を見る。
轍。
新しい。
軽い馬車ではない。
荷馬車。
それも、何度も通っている。
「零番庫は、閉鎖されておりませんね」
「そのようだ」
アレクシアは長槍を手に取る。
「正面から入る」
「お待ちください」
クラリスが止める。
「またか」
「正面門は、見せるためにあります」
「だから正面から行く」
「黒陽宮も、皇女殿下がそうすることを想定しているでしょう」
アレクシアは黙った。
少し悔しそうだった。
「では、裏からか」
ヴィクトルが尋ねる。
「いいえ」
クラリスは税関本館の脇を指した。
「搬入口から入ります」
「裏ではないのか」
「荷物の正面です」
セバスが軽く微笑んだ。
「お嬢様らしい入口でございます」
搬入口には、大きな木扉があった。
鍵は新しい。
見た目は古い鉄に見せているが、錠の中身だけが替えられている。
「開けられるか」
アレクシアがセバスへ聞く。
「可能でございます」
「壊してもよいか」
「証拠が減りますので、お控えいただければ」
「全員で私を壊し屋扱いするな」
「皇女殿下には実績がございます」
クラリスが言った。
「記録に残すな」
「すでに修繕費として」
「忘れろ!」
セバスが細い工具を鍵穴へ入れる。
数秒。
かちり、と音がした。
「早いな」
ヴィクトルが言う。
「昔、少々、鍵の向こう側に用が多うございましたので」
扉を開けた瞬間、ヨルが低く唸った。
中は暗い。
だが、埃っぽくない。
床には荷物を引きずった跡。
壁には古い検査台。
天井から吊られた滑車。
その奥に、地下へ降りる石階段がある。
階段の入口には、古い木札。
『零番庫』
文字は帝国語。
その下に、小さく王国語でも書かれていた。
『未登録品保管室』
「両国語」
ルシアンが呟く。
「設立時から、両国の人間が使っていたのでしょう」
クラリスは木札を記録した。
「ここから先、痕跡を壊さないように」
アレクシアが自分の槍を見た。
「分かっている」
「皇女殿下」
「何だ」
「信じています」
アレクシアは、妙な顔をした。
「急に言うな」
「記録上、最近は改善が見られます」
「褒め方!」
地下へ降りると、空気が変わった。
土。
鉄。
古い紙。
微かな薬草。
そして、懐かしいような、嫌な匂い。
セバスの足が一度止まった。
「セバス?」
ルシアンが声を掛ける。
「この匂いを、覚えております」
「どこで」
「夜帳の炉です」
地下通路の奥に、赤い光が揺れている。
近づくと、それが火ではないことが分かった。
古い魔術灯。
赤い硝子を通した光。
その下には、大きな保管扉があった。
扉の中央に、黒い帳面を閉じる手の紋章。
夜帳。
その周りを、半分の黒い太陽が囲んでいる。
黒陽宮。
二つの紋章が一つになっていた。
「趣味が悪い」
アレクシアが言った。
「同感です」
クラリスは扉を見た。
鍵穴がない。
取っ手もない。
代わりに、中央に小さな窪みがある。
銀の懐中時計と同じ形。
セバスが懐中時計を取り出す。
「これで開くのでしょう」
「罠の可能性は」
ヴィクトルが尋ねる。
「非常に高いです」
ルシアンが魔術を読む。
「扉全体に認識記録術式があります。誰が開けたかを記録するためのものです」
「それだけ?」
「いいえ」
ルシアンの顔が少し青くなる。
「開けた人物の記憶にも触れます」
「触れる?」
「過去の記憶を参照して、本人確認する術式です」
全員がセバスを見る。
「つまり」
クラリスが言った。
「セバスの記憶を鍵にする」
「そのようでございます」
「危険です」
「はい」
セバスは、懐中時計を見た。
「ですが、私でなければ開きません」
アレクシアが槍を構える。
「壊すか」
「中身ごと燃える可能性があります」
ルシアンが言う。
「記憶照合が失敗した場合も同じです」
クラリスは静かに考えた。
扉を開けるには、セバスの記憶が必要。
だが、その記憶を黒陽宮へ読み取られる危険がある。
グレゴールは、クラリスに帳簿を持たせるなと言った。
理由は、ここにあるのかもしれない。
帳簿ではなく、記憶を証拠にする場所。
記録ではなく、人間の過去を鍵にする場所。
「セバス」
「はい」
「開ける前に、あなたの記憶をこちらで記録します」
「どこまででございましょう」
「この扉に関連する範囲を」
セバスは少し笑った。
「お嬢様」
「何かしら」
「私の記憶を、先に帳簿へ避難させるおつもりですか」
「はい」
「たいへん、お嬢様らしい防御でございます」
クラリスは、セバス記録を開いた。
「夜帳の炉。グレゴール。銀の懐中時計。児童名簿。製本工房地下。あなたが覚えている扉の構造、合言葉、紋章、匂い、音」
セバスは、一つずつ答えた。
ゆっくり。
正確に。
時々、言葉が止まる。
そのたびに、クラリスは待った。
アレクシアは急かさなかった。
ヴィクトルは周囲を警戒し、ルシアンは防護魔法陣を張り、ヨルはセバスの足元で座っている。
記録が終わるまでに、十五分かかった。
「これで」
クラリスは羽根ペンを置いた。
「万が一、記憶が混濁しても、照合できます」
セバスは深く一礼した。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「では」
セバスは銀の懐中時計を扉の窪みへ入れた。
かちり。
時計の針が動き出す。
一秒。
二秒。
三秒。
扉の紋章が、紫黒く光った。
その瞬間、セバスの身体が硬直する。
「セバス!」
ルシアンが叫ぶ。
「術式が記憶へ接続しています!」
「切れ!」
アレクシアが叫ぶ。
「切れば扉が燃えます!」
セバスの目が、遠くを見る。
そこには、今の地下ではない何かが映っているようだった。
「……炉」
小さく呟く。
「紙を」
「燃やすな」
クラリスは、セバス記録を開いた。
大きく読み上げる。
「セバス・グランツ。現在の所属、アルベルティーナ公爵家。職務、執事。記録保全担当」
セバスの指が震える。
「過去の所属、王国暗部《夜帳》。ただし、現在は退職」
扉の光が揺らぐ。
「過去の職務、記録抹消。現在の職務、記録保全」
セバスの呼吸が戻る。
ルシアンが結界を強める。
「グレゴール・ヴァイスは師であり、調査対象」
クラリスは声を止めない。
「セバス・グランツは、単独行動を禁ずる。本件において、生存を優先する」
ヨルが吠えた。
黒い影が、扉から伸びた紫黒い糸へ噛みつく。
糸が切れる。
セバスの身体が前へ崩れかけた。
ヴィクトルが支える。
「大丈夫か」
セバスは目を瞬く。
「……ええ」
「本当に」
クラリスが聞く。
「大丈夫では、ございません」
「記録します」
「お願いいたします」
扉が開いた。
重い石の音。
奥には、広い保管室。
中央に、長い机。
その上に、黒い帳簿が一冊。
壁一面に並ぶ棚。
王国の紋章。
帝国の紋章。
ローゼン商会の印。
夜帳の記録。
商務庁の極秘文書。
軍需商会の裏契約。
黒陽草の栽培記録。
そして。
一番奥の椅子に、老人が座っていた。
灰色の髪。
右目の古傷。
手元には、湯気の立つ紅茶。
まるで来客を待っていたかのように。
「遅かったな」
老人は言った。
セバスは、静かに息を吸った。
「グレゴール」
「久しいな、セバス」
グレゴール・ヴァイスは微笑んだ。
「ずいぶん立派な執事になった」
クラリスは黒檀の杖を握った。
アレクシアは長槍を構える。
ヴィクトルは剣を抜かず、逃げ道を見る。
ルシアンは魔法陣を展開する。
ヨルは低く唸る。
セバスは、一歩前に出た。
だが、クラリスが言った。
「セバス」
「はい」
「一人ではありません」
セバスは足を止めた。
ほんの少し。
それから、頷いた。
「承知しております」
零番庫の扉は開いた。
死んだはずの男は、生きていた。
そして。
帳簿の外にいた男を、今から帳簿の中へ戻す。




