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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第三章 悪女令嬢は、帝国の帳簿を読む
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第35話 死んだはずの男は、帳簿の外にいる

 死者には、支出がない。


 食事をしない。


 服を買わない。


 宿を取らない。


 馬車にも乗らない。


 だから。


 死んだはずの人間が生きているかどうかを確認するには、墓を掘るより先に、金の流れを見ればよい。


 文化展示館地下保管庫。


 黒陽宮共同設立記録は、長机の中央に置かれていた。


 クラリスの正面にはセバス。


 左右にアレクシア、ヴィクトル、ルシアン。


 ヨルは、銀の懐中時計の前で座っている。


 時計は、通信が切れたあと、再び針を止めていた。


「グレゴール・ヴァイス」


 クラリスは、その名を別紙へ記した。


「死亡時期は二十五年前」


「正確には、死亡したものとして処理した時期でございます」


 セバスが答える。


「遺体は確認したのですね」


「はい」


「顔も」


「はい」


「脈は」


「止まっておりました」


「呼吸は」


「ございませんでした」


「火葬は」


 セバスの指が、ほんの少し止まった。


「私が炉へ入れました」


「最後まで見届けましたか」


 地下室が静まる。


 アレクシアが腕を組んだ。


「それだけやって生きているなら、亡霊ではないのか」


「魔術による死体偽装は存在します」


 ルシアンが言った。


「仮死術式。脈と呼吸を止める薬。外見を模倣する魔術も」


「二十五年前にも?」


「ありました。ただ、かなり高価です」


「金が必要ですね」


 クラリスは黒陽宮共同設立記録を開く。


「共同設立者には、国境軍需商会連合と薬草研究院がいる」


 資金。


 薬。


 身代わり。


 炉から遺体を回収する人間。


 必要なものは揃っていた。


「セバス」


「はい」


「グレゴール様は、あなたに自分を消させたのですね」


 セバスは、しばらく答えなかった。


 やがて。


「その可能性がございます」


「自分の死亡記録すら残さず」


「夜帳から離れ、黒陽宮へ移るために」


 ヴィクトルが言った。


「弟子に殺されたことにすれば、追う者もいない」


「しかも、消したのが帳消しのセバス」


 アレクシアの声が低くなる。


「誰も記録を疑わない」


 セバスは、銀の懐中時計を見た。


「私は」


 ゆっくりと言う。


「最後まで、彼の指示通りに動いたのでございますな」


 クラリスは否定しなかった。


 慰めも言わない。


 記録を読む時に、事実を柔らかくしてはいけない。


「そう見えます」


 セバスの目が伏せられる。


「ですが」


 クラリスは続けた。


「児童名簿を守ったのは、あなたの判断です」


 セバスが顔を上げる。


「グレゴール様は、あなたが最後まで従うと考えた」


「はい」


「その予測は外れました」


 グレゴールは生き延びた。


 セバスを利用した。


 だが。


 児童名簿だけは消えなかった。


 十七人の名前も。


 セバスという人間も。


 完全には、帳消しにならなかった。


「敗北だけを記録する必要はありません」


 クラリスは言った。


「都合よく勝利へ書き換えるつもりもありませんが」


「お嬢様らしい慰めでございます」


「慰めではありません」


「存じております」


 セバスは、ごく小さく笑った。


 アレクシアが黒い帳面を指で叩く。


「それで、居場所は分かるのか」


「これから読みます」


「設立記録だろう。二十五年前の」


「古い帳簿にも、現在の支出が紛れることがあります」


 クラリスは最後の数頁を開いた。


 設立者。


 出資額。


 役割。


 連絡経路。


 途中から、頁の紙質が変わっている。


 前半は二十五年前の帝国製紙。


 後半は、新しい。


「追記されています」


 ルシアンが紙へ触れずに魔術灯を当てる。


「インクも一年以内です」


「内容は」


 アレクシアが覗き込む。


 古い符丁で書かれていた。


 書記、一名喪失。


 門番、二名停止。


 庭師、移植準備。


 帳消し、回収予定。


「帳消し」


 ヴィクトルの目がセバスへ向く。


「あなたのことですね」


「おそらく」


「回収予定とは」


 セバスが静かに答えた。


「殺害、再利用、いずれもあり得ます」


「再利用などさせん」


 アレクシアが即座に言った。


 セバスが少し驚いたように皇女を見る。


「お前はクラリスの執事だろう」


「はい」


「ならば、帝国の地下で勝手に回収されるな」


「たいへん光栄なお言葉でございます」


「言い方が軽い!」


 少しだけ、地下室の空気が戻った。


 クラリスは追記を読み進める。


『最後の頁は、零番庫へ』


「零番庫」


 アレクシアの表情が変わった。


「ご存じですか」


「帝国の正式施設には、その番号はない」


「非公式施設なら」


「古い国境税関に、そう呼ばれた保管庫があったと聞いたことがある」


 ヴィクトルが地図を広げる。


「どの国境だ」


「王国との西国境」


 指が一地点を示す。


 帝国と王国の間。


 現在は使われていない旧街道。


 戦争が終わるたびに開かれ。


 緊張が高まるたびに閉鎖された。


 かつて、武器、薬、捕虜、密書を検査した場所。


「旧ハルツ税関」


 アレクシアが言った。


「二十年前に閉鎖されている」


「閉鎖後の維持費は?」


 クラリスが尋ねる。


「知らん」


「調べます」


 皇女府から、帝国財務省の旧施設台帳が運ばれてきた。


 旧ハルツ税関。


 公式記録では閉鎖済み。


 人員配置なし。


 修繕なし。


 警備なし。


 だが。


 毎年、小さな支出がある。


 山道保全費。


 崩落防止費。


 害獣駆除費。


 いずれも少額。


 複数部署へ分散されている。


「合計すると」


 クラリスが数字を足す。


「金貨四百二十枚」


 アレクシアの眉が上がった。


「廃税関へ?」


「毎年です」


「少額ではないぞ」


「分ければ、少額に見えます」


 王宮の帳簿でも見た。


 名前を変える。


 部署を分ける。


 一つの大きな支出を、小さな当然へ解体する。


「支払先は」


 セバスが伝票を確認する。


「道路業者、害獣駆除組合、石工組合、輸送商会」


「すべて実在しますか」


「道路業者は三年前に廃業。害獣駆除組合は代表者死亡。石工組合は住所が空き地。輸送商会は」


 セバスの指が止まる。


「ローゼン商会北方支店の関連会社でございます」


 王都の悪徳商会。


 グランベル領の薬草。


 帝国の地下保管庫。


 そして、旧国境税関。


 線が戻ってきた。


「グレゴールは、零番庫にいる」


 アレクシアが言う。


「断定はできません」


「だが、行く理由はある」


「はい」


 クラリスは地図を見た。


 旧ハルツ税関までは、帝都から馬車で一日半。


 親善祭を続けながら大人数で動けば、黒陽宮へ伝わる。


「少人数で向かいます」


「私も行く」


 アレクシア。


「俺もだ」


 ヴィクトル。


「僕も」


 ルシアン。


 ヨルも短く鳴いた。


 セバスは、何も言わない。


 クラリスは全員を見た。


「少人数の意味を、ご存じですか」


「帝国皇女一名」


「辺境伯一名」


「王子一名」


 ルシアンが指を折る。


「公爵令嬢一名、執事一名、希少魔獣一頭」


「十分少ないです」


「身分が重すぎます」


 セバスが穏やかに言った。


「馬車が沈みそうでございますな」


「あなたまで」


「私は同行いたします」


 セバスの声が変わった。


 柔らかいが。


 迷いはない。


「グレゴール・ヴァイスが生きているなら」


「はい」


「今度こそ」


 銀の懐中時計を見る。


「最後まで確認いたします」


「殺すのですか」


 アレクシアが尋ねた。


 セバスは答える前に、クラリスを見た。


「生きたまま確保してください」


 クラリスが言う。


「尋問が必要です」


「お嬢様」


「何かしら」


「私の感情を確認なさったのでは?」


「確認しました」


「では」


「それと、調査手順は別です」


 セバスは、しばらく黙った。


 そして。


 本当に困ったように笑った。


「左様でございますか」


「恨みがあることは否定しません」


「はい」


「ですが、グレゴール様は黒陽宮の設立、両国への工作、偽造戦争計画について知っています」


「はい」


「死なせるには、情報が多すぎます」


「まことに」


「帳簿向きのお考えでございます」


「褒めていますか」


「もちろんでございます」


 出発準備が始まった。


 帝国側には、アレクシアが西部農業視察へ向かうと記録。


 ヴィクトルは国境水利会議。


 ルシアンは帝国魔術学院の地方施設視察。


 クラリスは両国商流調査。


 それぞれ別の名目。


 だが、同じ馬車に乗る。


「名目が多すぎないか」


 アレクシアが言った。


「一つの目的に全員をまとめると目立ちます」


「同じ馬車なのに?」


「途中で合流したことにします」


「書類の上では」


「はい」


「お前は時々、黒陽宮より複雑ではないか」


「失礼です」


「否定はそこか」


 夜。


 出発前の仮眠を取るため、クラリスたちは帝国迎賓館へ戻った。


 セバスだけが、部屋に残る。


 机の上には銀の懐中時計。


 黒陽宮共同設立記録。


 そして、新しく作られた一冊。


 表紙には、クラリスの字。


『セバス記録』


「本当にお作りになったのですね」


 頁を開く。


 第一項。


 過去の所属。


 王国暗部《夜帳》。


 第二項。


 グレゴール・ヴァイスとの関係。


 師弟。


 第三項。


 現在の希望。


 最後の頁を確認する。


 その下に。


 小さな追記がある。


『単独行動を禁ずる』


 セバスは、静かに笑った。


 そして。


 その横へ自分で署名した。


 セバス・グランツ。


 かつて、名前のなかった男。


 人の名を消していた男。


 今は。


 自分の名を。


 自分の意思で記録へ残す。


 その時。


 銀の懐中時計が、再び一度だけ鳴った。


 蓋が自動的に開く。


 内部に、小さな文字が浮かび上がる。


『零番庫で待つ』


『ただし』


『悪女に帳簿を持たせるな』


 セバスの目が細くなる。


「それは」


 静かに蓋を閉じる。


「難しいご注文でございます」


 クラリスから帳簿を取り上げることなど。


 グレゴールでも。


 皇帝でも。


 おそらく神でも。


 容易ではない。


 死んだはずの男は、帳簿の外にいる。


 ならば。


 帳簿の内側へ連れ戻せばよい。


 名前。


 行動。


 利益。


 罪。


 すべてを書き。


 今度こそ。


 誰にも消せない形で。


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