幕間 帳消しの執事は、最後の頁を閉じられなかった
人を消す仕事には、二種類ある。
命を消す仕事。
そして。
その人が、最初から存在しなかったことにする仕事。
セバス・グランツは、後者を得意としていた。
名前を消す。
宿帳を抜く。
手紙を燃やす。
目撃者の記憶を別の物語で上書きする。
誰が命じたのか。
誰が金を払ったのか。
何のためだったのか。
それらを一枚ずつ帳簿から剥がしていく。
最後に残るのは。
空欄。
だから、彼は《帳消し》と呼ばれた。
まだセバスが、執事服ではなく黒い外套を着ていた頃。
王国暗部《夜帳》の拠点は、王都南側の地下にあった。
表向きは閉鎖された製本工房。
地下には、書庫。
武器庫。
尋問室。
そして。
燃やすための炉があった。
紙を燃やす。
証拠を燃やす。
時には、名前ごと。
「記録は残すな」
グレゴール・ヴァイスは、いつもそう言った。
背の高い男だった。
灰色の髪。
右目に古い傷。
声は低く、怒鳴ることはない。
セバスへ刃物の使い方を教えた。
毒の見分け方を教えた。
足音で人数を数える方法を教えた。
そして。
記録を消す方法を教えた。
「人間は、紙に書かれると事実になる」
若いセバスは、炉の前で聞いていた。
「では、紙を消せば」
「事実も消える」
「人の記憶は」
「記憶は弱い」
グレゴールは、古い帳面を炎へ投げた。
「三人が同じ嘘を言えば、一人の真実は負ける」
帳面が燃える。
文字が縮む。
名前が黒くなる。
「だから、記録を残す者から先に消せ」
その教えを。
セバスは長い間、疑わなかった。
王国のため。
秩序のため。
王家を守るため。
そう言われた。
夜帳は、国を表から支える組織ではない。
表へ出せないものを、裏から片づける組織。
政治家の密会。
軍人の横流し。
貴族の私兵。
国境商人の二重契約。
消せないなら。
利用する。
利用できないなら。
切る。
グレゴールは、迷わなかった。
だから、セバスも迷わないふりをした。
最初に疑問を持ったのは。
一冊の児童名簿だった。
王都北部の救貧院。
黒陽宮の資金洗浄に利用されている疑い。
夜帳へ下った命令は。
帳簿の回収。
関係者の処理。
建物の焼却。
その中に。
児童名簿も含まれていた。
「子どもの名前まで消すのですか」
セバスは尋ねた。
グレゴールは、いつも通りの声で答えた。
「残せば、利用される」
「どなたに」
「敵に」
「その敵は」
「知る必要はない」
その頃には。
セバスも気づいていた。
夜帳が消しているのは、王国の敵だけではない。
王国にとって、不都合な者。
黒陽宮にとって、不都合な者。
王家に近い誰かにとって、不都合な者。
命令の出所は、少しずつ曖昧になっていた。
紙を消し続けるうちに。
自分たちが、誰のために働いているのか。
それさえ、帳消しになっていた。
「この名簿は処分しません」
セバスは言った。
グレゴールが、ゆっくり振り向く。
「命令だ」
「命令の署名がありません」
「夜帳の命令に署名はない」
「ならば、誰の命令か確認できません」
グレゴールは、ほんの少し笑った。
「お前は、紙を信じすぎるようになった」
「あなたが教えました」
「何を」
「人間は、紙に書かれると事実になる、と」
児童名簿には。
十七人の名前があった。
生年月日。
好きな食べ物。
引き取り先。
病歴。
夜泣きが多い。
左利き。
歌が好き。
人間が、そこにいた。
燃やせば。
誰も、その子たちを探せなくなる。
「これは証拠ではありません」
グレゴールは言った。
「名簿です」
「同じだ」
「違います」
セバスは帳面を胸元へ入れた。
「これは、人間です」
その夜。
セバスは初めて、上官へ刃を向けた。
勝てるとは思っていなかった。
グレゴールは師だった。
刃物。
間合い。
毒。
人間の迷い。
すべてにおいて、上だった。
製本工房の地下で。
二人は、音を立てずに戦った。
棚が倒れる。
紙が舞う。
炉の火が揺れる。
グレゴールの短剣が、セバスの脇腹へ入った。
セバスの刃は、グレゴールの胸へ。
一度。
深く。
「甘くなったな」
グレゴールが言った。
「そうかもしれません」
「記録を守る者は、記録に殺される」
「それでも」
セバスは刃を抜かなかった。
「消す側よりは、ましです」
グレゴールは笑った。
血を吐きながら。
それでも、満足そうに。
「では、最後の仕事だ」
「何でしょう」
「私を消せ」
セバスは。
その命令に従った。
遺体を炉へ。
武器を溶かす。
衣服を燃やす。
血痕を洗う。
グレゴール・ヴァイスという名を、夜帳の記録から抜く。
死亡報告さえ残さない。
存在そのものを。
帳消しにした。
ただ一つ。
銀の懐中時計だけは見つからなかった。
戦いの前まで。
確かに、グレゴールの胸元にあった。
それが消えていた。
だが、あの夜のセバスには。
追う力が残っていなかった。
児童名簿を抱え。
血を流し。
夜帳の地下から逃げた。
そして。
路地裏で倒れた。
目を覚ました時。
知らない天井があった。
「起きたか」
低い声。
アルベルティーナ公爵だった。
まだ今より若く。
だが、すでに人を黙らせるだけの目をしていた。
「ここは」
「公爵家の別邸だ」
「なぜ、私を」
「娘が拾った」
セバスは、意味が分からなかった。
当時のクラリスは。
まだ八歳。
公爵家の馬車で外出した帰り。
路地裏に倒れていた男を見つけた。
護衛は、関わらない方がよいと言った。
血まみれ。
武器持ち。
身元不明。
危険人物。
だが、幼いクラリスは。
倒れているセバスを見て。
こう言ったらしい。
「生きているのなら、医師を」
公爵が尋ねた。
「お前は何者だ」
セバスは答えなかった。
名乗れる名がなかった。
夜帳のセバスは。
グレゴールを消した夜に、死んだことになっている。
「名前は」
「ありません」
「では、今から作れ」
公爵は、簡単に言った。
「過去を聞かないのですか」
「必要なら調べる」
「私が敵なら」
「娘を拾ったふりをして近づくには、倒れ方が下手すぎる」
公爵は、児童名簿を見た。
血で汚れた表紙。
胸元へ抱えたまま、気を失っていた帳面。
「これは」
「消してはいけない記録です」
公爵は、中を読んだ。
一頁ずつ。
急がず。
最後まで。
「十七人か」
「はい」
「全員、探す」
その言葉を。
セバスは信じなかった。
信じられなかった。
だが。
アルベルティーナ公爵家は、十七人全員を探した。
生きている者。
別の救貧院へ移された者。
貴族家へ引き取られた者。
すでに亡くなっていた者。
そのすべてを。
名簿へ追記した。
数か月後。
幼いクラリスが、完成した名簿をセバスへ渡した。
「これで、全員います」
セバスは頁を開いた。
消されるはずだった十七人。
その後が。
書かれている。
「なぜ、ここまで」
クラリスは不思議そうな顔をした。
「名前があったからです」
「名前があれば、探すのですか」
「探せます」
「記録がなければ」
「探せません」
それだけだった。
幼い令嬢にとって。
大きな思想ではなかった。
記録がある。
だから、探せる。
人がいる。
だから、残す。
それだけ。
セバスは。
その日から、公爵家へ仕えた。
最初は護衛。
次に、記録保管。
やがて執事。
クラリスが王太子妃教育へ入る頃には。
銀盆を持ち。
紅茶を淹れ。
銀のワゴンで資料を運んでいた。
以前は、資料を燃やしていた手で。
今は、資料を並べる。
以前は、名前を消していた目で。
今は、署名の抜けを見つける。
以前は、誰かの足跡を消していた。
今は。
クラリスが歩いた跡を。
誰にも消させない。
文化展示館の地下。
銀の懐中時計は、二十五年ぶりに時を刻んだ。
『久しいな、セバス』
グレゴールの声。
忘れるはずがない。
呼吸の間。
言葉の終わりに混じる、小さな擦れ。
本人だった。
少なくとも。
声は。
「セバス」
クラリスが呼んだ。
地下保管室には、まだ皆がいた。
アレクシア。
ヴィクトル。
ルシアン。
ヨル。
誰も急かさない。
銀の懐中時計と。
黒陽宮共同設立記録。
そして。
過去を見つめる老執事。
「はい」
「大丈夫ですか」
大丈夫。
昔なら。
そう答えていた。
感情は報告に不要。
痛みは任務に不要。
迷いは記録に残さない。
だが。
今の主人は。
嘘を嫌う。
「大丈夫ではございません」
セバスは答えた。
アレクシアが少し目を見開く。
ルシアンも。
ヴィクトルだけは、静かに頷いた。
クラリスは言った。
「では、休みますか」
「いいえ」
「無理は認めません」
「承知しております」
セバスは、銀の懐中時計を見た。
「ただ」
「何かしら」
「確認したいことがございます」
「グレゴール・ヴァイスが、本当に生きているか」
「はい」
「生きていた場合」
クラリスは、そこで言葉を止めた。
「あなたは、どうしたいですか」
倒すか。
殺すか。
捕らえるか。
普通なら、そう聞く。
だが。
クラリスは違った。
セバスがどうしたいかを聞いた。
それが。
少し困る。
セバスは長い間。
自分の希望を、記録してこなかった。
「私は」
ゆっくり言葉を探す。
「最後の頁を確認したいのでございます」
「最後の頁」
「私が殺した男が、なぜ生きているのか」
「夜帳と黒陽宮が、どこでつながったのか」
「そして」
セバスは黒い帳面へ手を置いた。
「私が消した記録の中に」
「まだ、生きている人間がいるのか」
クラリスは頷いた。
「分かりました」
「よろしいのですか」
「あなたの過去は、あなたのものです」
クラリスは言った。
「ですが、今回の事件に関係する部分は、調査対象です」
セバスは。
ほんの少し笑った。
「お嬢様らしいお言葉でございます」
「公私を分けています」
「心得ております」
「それから」
「はい」
「一人では行かないでください」
セバスは、銀の懐中時計を見る。
グレゴールの伝言。
『悪女を連れて来い』
クラリスを。
自分の過去へ巻き込みたくない。
そう思った。
だが。
一人で行けば。
また同じことをする。
誰にも言わず。
記録を残さず。
自分ごと消そうとする。
「承知いたしました」
セバスは答えた。
ヨルが足元へ来た。
黒い子犬が、セバスの靴へ鼻を寄せる。
そして。
前足を一度だけ載せた。
「ヨル様」
ヨルは、じっとセバスを見る。
「慰めてくださるので?」
小さく鳴く。
セバスは身をかがめ。
黒い頭を、そっと撫でた。
「ありがとうございます」
クラリスが帳面を開く。
「セバス記録を作成します」
「お嬢様」
「何かしら」
「それは、少々恥ずかしゅうございます」
「必要です」
「ヨル記録と同じ扱いで?」
「別帳です」
「安心いたしました」
何に安心したのか。
自分でも分からない。
だが。
セバスは初めて。
自分の過去が記録されることを。
怖いと思わなかった。
消したはずの男がいる。
閉じたはずの頁がある。
ならば。
もう一度、開けばいい。
今度は。
燃やすためではなく。
最後まで読むために。




