第3話 聖女様、その涙は経費で落ちません
王宮の朝は、噂で焼ける。
太陽より早く目を覚ますのは、厨房の火でも、近衛兵の足音でもない。
噂だ。
昨夜、大広間で何があったか。
王太子レオンハルト殿下が、公爵令嬢クラリスとの婚約破棄を宣言した。
聖女候補リリア・メルクール嬢こそ、真実の愛だと告げた。
ところが、断罪されるはずだった悪女は泣き崩れるどころか、請求書を取り出した。
それも、一枚ではない。
銀のワゴンに積まれた、十年分の記録。
王太子の失言。
外交調整。
公爵家立替金。
慈善基金。
そして、聖女候補リリアに関する支出記録。
夜会に出席していた者たちは、昨夜のうちに各屋敷へ戻り、それぞれの食卓や寝室や馬車の中で同じことを言った。
「あれは、いったい何だったのだ」
何だったのか。
クラリスに言わせれば、ただの精算である。
翌朝。
王宮東棟、小会議室。
クラリスは窓際の席に座り、目の前に置かれた資料の山を整えていた。
大広間ではない。
夜会でもない。
白い壁。
細長い机。
人数分の椅子。
入口に立つ書記官。
湯気の立たない茶。
物事を正しく揉めるには、華やかな場所より、こういう部屋の方がいい。
花がない。
音楽がない。
余計な拍手もない。
つまり、逃げ場が少ない。
「お嬢様、第二資料でございます」
老執事セバスが、革紐で綴じられた資料束を机に置いた。
表紙には、整った文字でこう記されている。
『リリア・メルクール嬢関連支出および予定変更記録』
クラリスは表紙を指先でなぞった。
「ありがとう、セバス」
「いえ。昨晩は、なかなか良い夜でございました」
「そうかしら」
「はい。王宮の空気が久しぶりに換気されておりました」
クラリスは思わず、少しだけ笑った。
セバスの言い回しは、時々、刃物を布で包んだようになる。
部屋の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、王国会計院長だった。
白髪の老官僚。
痩せた体に、深緑の官服。
杖をついているが、目だけは若い剣士のように鋭い。
その後ろに、若手監査官ユリウス。
ユリウスは、クラリスと目が合うと、小さく頭を下げた。
「クラリス嬢」
会計院長は椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。
「本日も、開くつもりかね」
「はい」
「昨日だけでも、王宮は十分にざわついている」
「隠していたものが揺れただけでございます」
「君は、本当に公爵令嬢にしておくには惜しい」
「悪女だそうですので」
クラリスは、静かに微笑んだ。
会計院長は口元だけで笑った。
次に入ってきたのは、王妃エレノアだった。
昨日と同じく、完璧な微笑み。
深青のドレス。
首元には王家の宝石。
その後ろに、王太子レオンハルトと、聖女候補リリアが続く。
レオンハルトの目元には、眠れなかった跡があった。
リリアは白いドレスではなく、淡い水色の控えめな服を着ていた。
昨日より化粧は薄い。
目元は赤い。
その姿は、よくできていた。
やつれて見える。
傷ついて見える。
守られるべき少女に見える。
クラリスは、それを否定しない。
リリアは、おそらく本当に傷ついている。
だが。
傷ついた者が、必ずしも何も傷つけていないとは限らない。
「クラリス」
王妃が席についた。
「本日の確認は、非公開です」
「承知しております」
「昨日のようなことは困ります」
「昨日のようなことになったのは、殿下が公開の場で婚約破棄を宣言なさったためでございます」
王妃の扇が、静かに閉じた。
「あなたは変わりましたね」
「いいえ」
クラリスは答えた。
「変わらなかったため、不要になったのだと思っております」
王妃は、何も言わなかった。
その沈黙は、少しだけ重かった。
やがて、会計院長が杖の先で床を一度叩いた。
「では、始めよう」
小会議室に、紙の音が立った。
クラリスは第二資料を開く。
「本日の確認事項は、リリア・メルクール嬢が王宮に滞在されるようになって以降、発生した予定変更、支出、業務負担についてです」
「まるで、私が悪いことをしたみたい……」
リリアが小さく言った。
声は震えていた。
隣のレオンハルトが、すぐに反応する。
「リリア、君は悪くない」
クラリスは、二人を見た。
「悪いかどうかは、後で確認いたします」
「確認、確認と……君はそれしかないのか」
レオンハルトが睨む。
「人の心は、確認できるものではない」
「はい」
クラリスは頷いた。
「ですので、本日は心ではなく、支出を確認します」
会計院長が、咳払いをした。
笑いかけたのを誤魔化したようにも見えた。
クラリスは読み上げる。
「第一項目。リリア・メルクール嬢、王宮滞在初日。殿下のご希望により、東棟客室を急きょ改装。壁布、寝具、香炉、花器を交換。理由は、リリア様が『白いお部屋の方が落ち着く』とおっしゃったため」
「それは……」
リリアの声が小さくなる。
「私は、そんな大げさなことをお願いしたつもりでは」
「はい」
クラリスは資料を見たまま言った。
「リリア様ご本人の発言は、『白いお部屋の方が落ち着く』のみと記録されています」
リリアは、ほっとしたような顔をした。
だが、クラリスは続けた。
「その発言を受け、殿下が侍従長へ『すぐに整えよ』と命じられました。結果、当日夜までに壁布交換のため職人八名、侍女六名、運搬係四名が追加招集。費用は王宮接遇費から支出」
リリアの顔が、また曇る。
レオンハルトが机を叩いた。
「私が命じたのだ。リリアには関係ない」
「では、この項目は殿下負担でよろしいですか」
「なっ」
クラリスは羽根ペンを持つ。
「王宮接遇費から支出されたものを、殿下個人の指示による私的支出として修正いたします。会計院長、ご確認を」
「待て!」
レオンハルトが叫んだ。
会計院長は、無表情のまま顎を撫でる。
「理屈としては、成り立ちますな」
「会計院長!」
「殿下。王宮接遇費とは、国賓や公的来訪者への接遇に用いるものです。聖女候補の滞在環境を整えること自体は公務と見なせますが、壁布の趣味まで公費に含めるかは、少々検討が必要です」
レオンハルトは言葉を詰まらせた。
リリアは俯く。
「私……そんなつもりじゃ……」
「リリア様」
クラリスは、静かに言った。
「お気持ちは分かります。ですが、『そんなつもりじゃない』という言葉では、職人の残業代は消えません」
小会議室の空気が、少し冷えた。
クラリスは次の頁をめくる。
「第二項目。慈善礼拝前日。リリア様が『貧しい子どもたちには、もっと可愛らしいお菓子を配れたら素敵ですね』と発言。殿下の指示により、配布予定だった黒パンと干し果物を、砂糖菓子入りの小袋へ変更」
リリアが顔を上げた。
「それは、子どもたちに喜んでほしくて」
「ええ」
クラリスは頷く。
「喜んでおりました」
「なら……」
「ただし、当初予定より費用は四倍になりました」
リリアの唇が止まる。
「加えて、砂糖菓子は保存に向かず、翌日までに一部が湿気を含みました。交換対応のため、菓子職人二名が徹夜。配送馬車を二台追加。なお、当初予定の黒パンと干し果物は、孤児院で三日分の朝食に回る予定でした」
リリアの顔が、青くなる。
「そんな……私は、知らなくて……」
「はい」
クラリスは、また頷いた。
「知らなかったのだと思います」
その声は責めていなかった。
だからこそ、逃げにくかった。
「ですが、知らないまま善意を口にすると、誰かの食事が消えることがあります」
リリアの目に涙が浮かんだ。
レオンハルトがすぐに立ち上がる。
「クラリス! 言いすぎだ!」
「殿下」
クラリスは、レオンハルトを見た。
「黒パンと干し果物の再手配費用は、どなたがお支払いになりましたか」
「それは……王宮が」
「いいえ」
クラリスは別紙を出した。
「一時的には、私が立て替えました」
レオンハルトの表情が凍った。
「なぜ君が」
「当日朝、孤児院側から数量不足の連絡がありました。王宮会計の承認を待っていては配布時刻に間に合わなかったため、アルベルティーナ公爵家の名で手配しました」
「聞いていない」
「申し上げました」
「いつだ」
「当日の午後、殿下はリリア様と庭園で詩集を読んでおられました」
レオンハルトの顔が赤くなる。
「そのようなことまで……」
「記録しております」
クラリスは淡々と言った。
「婚約者でしたので」
その言葉が、また部屋に落ちる。
何度でも同じ言葉だ。
けれど、言うたびに意味が少しずつ変わる。
婚約者でしたので。
だから支えました。
だから記録しました。
だから精算します。
リリアは、とうとう涙をこぼした。
「私、ただ……みんなが笑ってくれたらいいなって……」
それは、本心なのだろう。
クラリスはそう思った。
リリアは、誰かを苦しめようとしていたわけではない。
たぶん彼女は、可愛らしい善意の中で生きてきた。
泣けば誰かが布を差し出し、笑えば誰かが道を開けた。
願えば誰かが叶えてくれた。
その願いの裏側に、夜中まで働く人間がいることを知らなかった。
知らないことは、罪ではない。
だが、知らないまま力を持つことは、時に罪に似る。
「リリア様」
クラリスは言った。
「子どもたちを笑顔にしたいと思われたこと自体は、悪ではありません」
リリアが涙の中で顔を上げる。
「ですが、笑顔にかかる費用を、誰が払うのか。誰が手配するのか。誰の予定が変わるのか。そこまで見なければ、善意はただの注文になります」
「注文……」
「はい」
クラリスは、資料を閉じずに言った。
「聖女様の涙や願いは、美しいのでしょう。けれど、美しさは経費で落ちません」
会計院長が、今度こそ小さく咳き込んだ。
ユリウスは必死に俯いている。
リリアは、何も言えなかった。
レオンハルトが歯を食いしばる。
「君は、リリアを侮辱している」
「いいえ」
「では何だ」
「教育しております」
小会議室が凍った。
王妃エレノアの目が、わずかに細くなる。
クラリスは続けた。
「リリア様は聖女候補として、今後も多くの人々の前に立たれるのでしょう。ならば、ご自身の言葉がどれほど人を動かすのか、早めに知るべきです」
「君にその資格があるのか」
「少なくとも」
クラリスは静かに答えた。
「十年間、殿下のお言葉の後始末をしてきた者として、言葉の費用については多少存じております」
レオンハルトが黙る。
王妃も黙る。
会計院長だけが、深く頷いた。
「続けたまえ」
「はい」
クラリスは、第三項目へ移った。
「王宮庭園茶会。リリア様が体調不良を訴えたため、殿下は予定されていた東方使節との面会を延期。代替日程調整に伴い、通訳二名、護衛四名、料理人三名、馬車係二名が待機延長」
「リリアは本当に具合が悪かった!」
レオンハルトが叫ぶ。
「それは否定しておりません」
「ならば仕方ないだろう」
「はい。体調不良は仕方ありません」
クラリスは、そこで一枚の小さな紙を取り出した。
「ですが、茶会前にリリア様が召し上がった蜂蜜菓子は、本来、東方使節への献上品でした」
リリアの肩が跳ねた。
「それは……殿下が、食べてもいいと」
「はい。殿下が許可されています」
クラリスはレオンハルトを見た。
「その結果、献上品が不足し、同等品の再手配が必要になりました」
「菓子ひとつで……」
「外交において、菓子ひとつは菓子ひとつではありません」
クラリスの声が、少しだけ鋭くなった。
「相手国の紋章を模した特注品です。数が合わなければ、軽視と取られます」
会計院長が補足する。
「東方は贈答品の数に厳しい。奇数と偶数を間違えるだけで、意味が変わることもある」
レオンハルトは、また黙った。
リリアは、膝の上で手を握りしめる。
「私、そんなに……悪いことを……?」
誰もすぐには答えなかった。
クラリスは、少し考えた。
ここで「はい」と言えば簡単だ。
断罪式を返せる。
涙で人を動かした聖女候補を、泣いたまま追い詰めることもできる。
だが、それでは同じになる。
昨夜、王太子がやろうとした断罪と、何も変わらない。
クラリスは、リリアを見た。
「リリア様。あなたは、ご自身の言葉が誰かを動かしていることに、無自覚でした」
「……はい」
「それは、悪意より厄介です」
リリアの涙が止まった。
「悪意のある方は、止めれば済みます。けれど無自覚な方は、自分が何をしているか分からないまま、何度でも人を疲れさせます」
クラリスは、資料の束に手を置いた。
「本日ここで確認しているのは、あなたを悪女にするためではありません」
「では、何のために……」
「あなたが、次に誰かを疲れさせないためです」
リリアは、初めてクラリスをまっすぐ見た。
その顔に浮かんだのは、怯えだけではなかった。
困惑。
羞恥。
そして、ほんの少しの理解。
レオンハルトは、それが気に入らなかったらしい。
「リリア、聞く必要はない。君は優しい。君はただ、皆の幸せを願っただけだ」
リリアの目が揺れた。
クラリスは、レオンハルトを見た。
「殿下」
「何だ」
「そのお言葉が、リリア様から学ぶ機会を奪っています」
「奪っている?」
「はい」
クラリスは言った。
「『君は悪くない』は、時に優しさではなく、成長の妨害です」
部屋の空気が、さらに張り詰めた。
レオンハルトは立ち上がった。
「もういい!」
椅子が床を擦る音が響く。
「私は、こんな茶番に付き合うつもりはない!」
「では、ご退席の前にこちらへ署名を」
クラリスは、すっと一枚の書面を差し出した。
レオンハルトの動きが止まる。
「これは何だ」
「本日の確認を途中退席される旨の記録でございます」
「なぜそんなものが用意されている!」
「殿下は、会議の途中で退席なさることが多いので」
ユリウスが、ついに小さく肩を震わせた。
会計院長が杖で床を軽く叩く。
「監査官。笑うなら廊下で笑え」
「申し訳ございません」
ユリウスは真っ赤になって頭を下げた。
レオンハルトの顔は、怒りで燃えるようだった。
「私は署名などしない!」
「承知いたしました。署名拒否として記録いたします」
「それも記録するのか!」
「はい」
クラリスは、まっすぐに言った。
「記録しなかった結果が、昨夜の断罪式です」
その一言に、レオンハルトは言葉を失った。
王妃エレノアが、静かに口を開く。
「クラリス」
「はい」
「あなたは、王家を敵に回すつもりですか」
その声は、柔らかかった。
柔らかい声ほど、時々、硬い刃を隠している。
クラリスは姿勢を正した。
「いいえ、王妃陛下」
「では、何を望んでいるのです」
「王家が、王家自身の支出を確認することです」
王妃の目が、少しだけ冷えた。
「それは、あなたが口を出すことではありません」
「昨日までなら、そうでした」
「昨日まで?」
「はい」
クラリスは、ゆっくりと言った。
「私は昨日、王太子殿下より婚約破棄を告げられました。つまり、今の私は王家の身内ではございません」
部屋の空気が変わる。
「ですので、遠慮なく申し上げます」
クラリスは王妃を見た。
「王宮の会計は、少し緩んでおります」
誰も動かなかった。
王妃の表情だけが、ほとんど見えないほどわずかに変わった。
怒りではない。
動揺でもない。
痛いところに、正確に針を置かれた顔だった。
会計院長が、低く言う。
「……クラリス嬢」
「はい」
「少し、ではない」
小会議室に、重い沈黙が落ちた。
王妃が会計院長を見る。
「会計院長」
「王妃陛下。昨夜の資料を一部確認いたしました。クラリス嬢の記録は、非常に正確です」
「あなたまで」
「王家を守るためにも、確認は必要です」
王妃は黙った。
レオンハルトは母を見る。
リリアは膝の上で手を握りしめる。
ユリウスは息を殺している。
クラリスは、資料を閉じた。
「本日は、ここまでにいたします」
「また、途中で終えるのか」
レオンハルトが低く言う。
「はい。すべてを一度に確認しては、リリア様が持ちません」
リリアが驚いたように顔を上げた。
クラリスは、彼女を責める目では見なかった。
「リリア様。本日の資料は写しをお渡しします。ご自身で確認なさってください」
「私が……?」
「はい」
「でも、難しくて……」
「分からない箇所には印を。次回、説明いたします」
リリアは、何か言おうとして、やめた。
その目に、初めて涙以外のものが浮かんでいた。
恐れ。
悔しさ。
そして、ほんの少しの意地。
「……読みます」
小さな声だった。
レオンハルトが驚いた顔をする。
「リリア?」
「私、読みます」
リリアは、まだ震えていた。
けれど今度は、自分の足で立とうとしている人間の震えだった。
クラリスは頷いた。
「結構です」
レオンハルトは不満げだった。
「リリア、君がそんなことをする必要はない」
リリアは、殿下を見た。
それから、ゆっくり視線を落とした。
「でも……私のことで、誰かが困ったなら、知らないままは嫌です」
その言葉に、クラリスは少しだけリリアを見直した。
泣く子は、弱いとは限らない。
泣いたあと、自分の涙の跡を見られるかどうかだ。
そこに、人の分かれ道がある。
クラリスはセバスに目配せした。
セバスが資料の写しをリリアの前に置く。
リリアは、おそるおそるそれに触れた。
紙は冷たい。
だが、冷たい紙は人を責めない。
ただ、そこにある。
王宮の美しい言葉より、ずっと誠実に。
「次回は」
会計院長が言った。
「慈善基金の使途確認ですな」
リリアの手が止まる。
王妃の扇も止まる。
レオンハルトが、また顔を強張らせた。
クラリスは、静かに微笑んだ。
「はい」
そして、資料の次の束に触れた。
表紙には、金の文字でこう記されている。
『王宮慈善基金 支出明細および承認経路』
小会議室の窓の外で、朝の光が白く差し込んでいた。
光は美しい。
だが、光に照らされるものが、すべて美しいとは限らない。
クラリスは思う。
聖女の涙は、経費で落ちない。
けれど、その涙の裏でこぼれた誰かの時間は、必ず記録されるべきだ。
どの世界でも。
王宮でも、教室でも。
黙って損をする者を、もう増やさないために。




