第33話 門番は、一人ではありません
捕らえた者が、すべてを知っているとは限らない。
むしろ。
自分が組織の中心だと思わせる者ほど、別の誰かを隠している。
帝都西門での人質事件から、一時間。
エルンスト・ハーゲンは帝国親衛隊の護送馬車へ移されていた。
両手には魔術封じの枷。
口内に自壊術式がないことを確認し、衣服も交換済み。
所持品はすべて押収され、番号札をつけて机へ並べられている。
財布。
懐中時計。
偽造通行証。
王国王宮の見取り図。
黒陽宮の通信紙。
小型魔石。
そして。
砂糖を包んでいたらしい、小さな紙が二枚。
「砂糖二つ」
クラリスは、その紙を見つめた。
皇女府の夜間厨房記録。
毎月第一金曜日。
夜十一時。
記録室へ紅茶一杯。
砂糖二つ。
焼き菓子。
受取人の欄には、オスカー副侍従官の頭文字。
しかし、オスカー本人は甘い物を好まない。
右利きの署名。
エルンストは右利き。
甘い紅茶を飲む。
ここまでは一致している。
「やはり、夜の記録室へ入っていたのはエルンストではないのか」
アレクシア皇女が言った。
「可能性は高いです」
クラリスは答えた。
「だが?」
「整いすぎています」
アレクシアの眉が上がる。
「またそれか」
「はい」
「砂糖の包みまで持っていたのだぞ」
「だからこそです」
クラリスは紙を手袋越しに持ち上げた。
「逃亡する人間が、使用済みの砂糖包みを二枚、丁寧に懐へ残すでしょうか」
「捨て忘れたのでは」
「財布の内側へ挟まれていました」
「では、何だ」
「見つけてほしかった」
部屋が静まった。
ルシアンが、紙へ銀杖を近づける。
青い光が表面をなぞる。
「弱い保存魔術がかかっています」
「砂糖の紙に?」
ヴィクトルが尋ねた。
「はい。湿気や汚れを防ぐ程度ですが」
「ただのゴミではないということか」
「ええ」
セバスが紙の端を観察する。
「折り目も揃っておりますな」
「砂糖を使ったあと、証拠として保存した」
クラリスは言った。
「または」
「自分が夜の記録室へ入った者だと、我々へ思わせるために持たされた」
アレクシアが机を叩きかける。
だが、途中で止めた。
拳が空中で一度揺れ、ゆっくり下ろされる。
「エルンストは黒陽宮ではないのか」
「黒陽宮の構成員ではあるでしょう」
「では」
「ですが、《門番》が彼一人とは限りません」
クラリスは、エルンストから押収した王宮見取り図を広げた。
西庭園の旧温室。
王太子執務室。
そして、印章のない小さな黒点。
図面の隅。
王宮の外へ続く搬入口。
「黒陽宮は、役割で名乗るとハインツは供述しました」
書記。
庭師。
薬師。
門番。
「門番が一人だけだとは、誰も言っていません」
ルシアンが顔を上げる。
「王国の門番と、帝国の門番」
「さらに、一つの場所に複数いる可能性もあります」
ヴィクトルが腕を組んだ。
「一人が捕まっても、もう一人が門を開ける」
「はい」
アレクシアの黄金の瞳が冷える。
「エルンストは、人質事件まで起こして逃げた。十分に重要な構成員だ」
「同感です」
「だが、印章保管庫を開けたのが、あの男とは限らない」
「はい」
「ならば」
アレクシアは振り返った。
「印章保管庫を、もう一度調べる」
皇女府の印章保管庫は、地下でも塔の上でもなかった。
執務棟の中央。
人通りの多い廊下に面している。
誰にも見られず侵入することより。
大勢の中へ紛れて入ることを防ぐ構造だった。
厚い鉄扉。
二重錠。
アレクシア本人の鍵。
侍従長マルタの鍵。
二本を同時に使わなければ開かない。
「最後に開けたのは」
クラリスが尋ねる。
マルタが答える。
「親善祭開会の前日でございます。皇女殿下の公式文書六通へ押印いたしました」
「閉鎖時刻は」
「午後六時二十一分」
「立会人は」
「私と皇女殿下。それから、鍵庫長のヘルマン・クルーガー」
クラリスの羽根ペンが止まる。
「鍵庫長?」
「錠の定期点検でございます」
アレクシアが言った。
「保管庫の鍵は皇族付き錠前師の一点物。ヘルマンの家は三代、皇城の鍵を管理している」
「先日の確認では、複製には元型と特殊合金が必要と伺いました」
「そうだ」
「元型を管理するのは」
マルタの顔色が変わった。
「皇城鍵庫でございます」
「責任者は」
「ヘルマン・クルーガー」
アレクシアは、すぐに親衛隊長へ命じた。
「鍵庫長を呼べ」
「皇女殿下」
クラリスが止める。
「今度は何だ」
「先に、保管庫を開けます」
「逃げられたら」
「すでに逃げている可能性もあります」
「なら、なおさら」
「保管庫の中に、逃亡を判断する材料があるかもしれません」
アレクシアは奥歯を噛んだ。
「分かった」
二本の鍵が差し込まれる。
右へ一度。
左へ二度。
内部で重い金属音がした。
鉄扉が開く。
中には、皇女の印章が並んでいた。
公文書用。
軍務命令用。
外交文書用。
私信封蝋用。
すべて箱へ収められ、番号札がついている。
「数を」
クラリスが言った。
マルタが一つずつ確認する。
「すべてございます」
「欠けや傷は」
「ございません」
見た目には、異常がない。
だが、ヨルが保管庫の入口で鼻を動かした。
低く唸る。
「瘴気ですか」
ルシアンが尋ねる。
ヨルは印章ではなく、扉の蝶番へ顔を向けた。
セバスがしゃがみ込み、蝶番の下を指でなぞる。
手袋に、薄い灰色の粉がついた。
「金属粉でございます」
「錠の摩耗では?」
マルタが言う。
「通常の摩耗粉より、粒が細かい」
クラリスは小瓶へ採取する。
「鍵穴ではなく、蝶番側に」
ルシアンが魔術灯を近づけた。
扉の縁。
目立たない場所に、小さな線がある。
切断跡。
「鍵を使わず、蝶番の軸を一度抜いています」
ヴィクトルが言った。
「扉ごと外したのか」
「完全には外していません」
セバスが答える。
「軸を緩め、扉にわずかな隙間を作ったのでしょう」
「印章を取り出せるほどの?」
「腕の細い者なら」
クラリスは保管箱の配置を見る。
偽造されたのは、皇女府特別支出に使う印章。
その箱は、扉から最も近い位置にある。
隙間から手を入れれば届く。
「鍵の複製は、必要なかった」
クラリスが言った。
「錠前師なら、鍵を開けずに扉を扱えます」
アレクシアの顔から、表情が消えた。
「ヘルマン」
幼い頃から皇城にいた男。
アレクシアの剣箱の鍵を作った。
初めての軍務遠征では、魔術具保管箱を調整した。
親善祭の直前にも。
印章保管庫の安全を保証した。
「皇女殿下」
マルタが苦しそうに言う。
「まだ断定は」
「分かっている」
アレクシアは答えた。
力を入れず。
机も扉も壊さず。
「疑うことと、確認することは別だ」
クラリスは少しだけ目を見開いた。
「覚えておられましたか」
「何度も言われたからな!」
声は大きくなった。
だが、少しだけ前より柔らかかった。
「鍵庫の点検記録を」
皇城鍵庫は、皇女府から渡り廊下を二つ越えた場所にある。
皇城内で使用される鍵。
錠前。
金庫部品。
封印具。
すべてを管理する部署。
点検記録によれば。
ヘルマン・クルーガーは今日も出勤している。
午前八時二分。
昼休憩は十二時から十二時四十五分。
午後五時二十分、業務終了。
退庁記録。
午後五時三十二分。
「今から二時間前か」
ヴィクトルが言った。
「自宅は」
「帝都北区です」
親衛隊長が答える。
「すでに兵を向かわせます」
「待て」
アレクシアが言う。
クラリスを見る。
「今度は何を見る」
少し学び方が乱暴である。
だが、確認する姿勢はある。
「退庁記録です」
クラリスは帳面を開いた。
入庁時。
ヘルマン・クルーガー。
署名。
退庁時。
同じ名前。
同じ筆跡。
「問題ないように見えます」
「綺麗すぎるのか」
「いいえ」
今回は、訂正もある。
インクの濃さも違う。
生活のある記録だ。
ただし。
「入庁時刻と退庁時刻の筆圧が違います」
「筆圧?」
「退庁時の署名だけ、線が浅い」
セバスが拡大鏡を取り出す。
「同じ筆跡を真似た者が書いた可能性がございますな」
「筆跡は同じだぞ」
アレクシアが言う。
「書いたのが本人でも、手が違えば筆圧は変わります」
「どういう意味だ」
「負傷していた。急いでいた。疲れていた」
クラリスは帳面の横に置かれた警備日誌を見る。
午後三時五十分。
鍵庫内で小さな事故。
金庫扉で職員一名が右手を負傷。
医務室へ。
氏名欄。
空白。
「負傷した職員は」
警備兵が呼ばれる。
「覚えていますか」
「鍵庫長です」
「ヘルマン様が?」
「はい。右手を布で巻いておられました」
「退庁署名は右手で?」
「……はい」
負傷した右手。
だが、退庁署名はいつも通り。
筆跡を真似た誰かが書いた。
「ヘルマン様は午後三時五十分以降、正門から出ていない」
クラリスは言った。
「皇城内に残っています」
その瞬間。
遠くで鐘が鳴った。
皇城火災を知らせる鐘。
一度。
二度。
場所を示す鐘が続く。
鍵庫。
親衛隊員が扉を開ける。
「皇女殿下! 皇城鍵庫より出火!」
「全員、急げ!」
アレクシアが走り出す。
ヴィクトルと兵が続く。
クラリスも黒檀の杖を手にした。
「ルシアン殿下」
「消火術を準備します!」
「水系統の魔術を。黒陽草があれば、風は使わないでください」
「はい!」
「ヨルは」
黒い子犬は、すでに廊下を走っていた。
「待ちなさい!」
待たない。
セバスが横から言う。
「先行偵察でございましょう」
「許可していません」
「後ほど記録を」
「もちろんです」
皇城鍵庫から、黒い煙が上がっていた。
普通の火ではない。
紫色の光が、煙の中で脈打っている。
「黒陽草だ!」
ルシアンが叫ぶ。
「資料を焼くだけではありません! 鍵に残った使用記録ごと、魔力で消すつもりです!」
鍵にも記録がある。
どの錠へ使われたか。
どの魔力印を受けたか。
誰が触れたか。
黒陽宮は、それを消そうとしている。
「入口は!」
アレクシアが叫ぶ。
「内側から封鎖されています!」
親衛隊員が答える。
「壊すぞ!」
皇女が長槍を構える。
「お待ちください」
クラリスが言う。
「今度は何だ!」
「正面扉には、燃焼術式が集中しています」
「では」
「裏の搬入口を」
ヴィクトルが周囲を見る。
「場所は」
クラリスは先ほどの鍵庫図面を思い出す。
荷車用搬入口。
記録では、三年前から使用停止。
「北壁です」
全員が北側へ回る。
石壁には、扉らしいものはない。
だが、ヨルが一か所で吠えた。
黒い鼻を壁の下へ押しつけている。
「認識阻害です」
ルシアンが銀杖を振る。
青い魔法陣が広がり、石壁の一部が揺らぐ。
古い鉄扉が現れた。
「皇女殿下」
「今度こそ壊してよいな」
「扉の状態を先に記録してから」
「この状況でか!」
「三秒で」
セバスが素早く書く。
「旧搬入口。認識阻害あり。外傷なし。封鎖状態」
「記録完了でございます」
「よし!」
アレクシアの槍が鉄扉を貫いた。
蝶番が外れる。
扉が内側へ倒れた。
熱と煙が噴き出す。
ルシアンが水の結界を張る。
「中に人がいます!」
鍵庫の奥。
炎の向こうに、一人の男が立っていた。
灰色の作業服。
白い髪。
右手には包帯。
左手には、黒い鍵。
ヘルマン・クルーガー。
帝国皇族付き鍵庫長。
彼の足元には、開かれた金庫。
中に入っていたのは。
皇城。
皇女府。
帝国商務庁。
そして王国使節館。
主要施設の元鍵。
「ヘルマン!」
アレクシアが叫ぶ。
老鍵庫長は、悲しそうな顔で皇女を見た。
「お早いお着きでございます」
「何をしている」
「門を閉じております」
「誰のために」
「古い帝国のために」
アレクシアの顔が歪む。
「国民を危険にさらし、王国を弱らせ、私の印を盗むことが、帝国のためか」
「皇女殿下は、扉を開けすぎます」
ヘルマンは黒い鍵を持ち上げた。
「農民に政治を語らせる。商人の帳簿を公開する。軍人の支出を監査する。王国と学術を共有する」
「それがどうした」
「国は、すべてを見せてはなりません」
「だから、腐敗を隠したのか」
「守ったのです」
クラリスは、燃える鍵庫の中を見た。
棚ごとに炎の色が違う。
一部だけ。
まだ燃えていない棚がある。
「皇女殿下」
「何だ」
「時間を稼いでいます」
ヘルマンの顔がわずかに動いた。
「燃やしたいのは、鍵庫全体ではありません」
クラリスは黒檀の杖で、奥の棚を指す。
「第三列、下段だけ火が強い」
ルシアンが魔力を読む。
「地下保管庫の鍵です!」
「どこの地下だ」
「皇城ではありません」
ルシアンの顔が変わる。
「親善祭の文化展示館。その地下です」
ヘルマンが黒い鍵を炎へ投げようとする。
アレクシアが一歩踏み込んだ。
だが。
クラリスの黒檀の杖の方が早かった。
手首を払う。
鍵が宙へ飛ぶ。
ヴィクトルが剣の平で受け止め、そのまま床へ落とした。
セバスが布で包んで回収する。
「押収時刻」
クラリスが言う。
「今か!」
アレクシアが叫ぶ。
「今です!」
ルシアンが懐中時計を見る。
「午後七時四十六分!」
「押収場所、皇城鍵庫旧搬入口側、第三保管区前!」
セバスが記録する。
「押収者、共同でよろしいでしょうか」
「よい!」
アレクシアが答えた。
以前より早い。
ヘルマンは、静かに笑った。
「何を笑う」
「皇女殿下も、悪女の帳簿へ入った」
「違う」
アレクシアは長槍を向ける。
「私が入ったのではない」
「帝国の帳簿に、事実を戻している」
ヘルマンの笑みが消えた。
「確保しろ」
帝国兵が老鍵庫長を拘束する。
ルシアンの消火術が、棚の炎を一つずつ消していく。
ヨルは第三列下段の前で、低く唸っていた。
焦げた扉の奥。
焼け残った木箱が一つ。
中には、鍵の使用記録。
文化展示館地下。
過去半年で、十二回開錠。
使用者欄。
記載なし。
保管品。
黒陽草。
帝国式魔力導管。
王国王宮西庭園から運ばれた、未登録の木箱。
「王国から?」
ルシアンが言った。
「旧温室の物でしょうか」
「確認が必要です」
クラリスは木箱の記録を見つめた。
帝国側の門番。
エルンスト。
ヘルマン。
二人を捕らえた。
だが。
王国の旧温室から、すでに何かが帝国へ運ばれている。
王国の《庭師》と。
帝国の《門番》。
二つの根は、ずっと前からつながっていた。
「文化展示館を封鎖する」
アレクシアが言った。
「親善祭はどうしますか」
クラリスが尋ねる。
「表は続ける」
皇女は答えた。
「裏で、私たちが根を抜く」
クラリスは頷いた。
「合理的です」
「今度こそ褒めたか」
「はい」
アレクシアは、一瞬だけ言葉を失った。
それから、少し照れたように顔を背けた。
「そうか」
燃え残った鍵庫。
押収された黒い鍵。
捕らえられた、二人目の門番。
門を守る者が。
門を開けていた。
だが、扉が一つ閉じても。
根は、別の扉へ続いている。
次に開く場所は。
親善の名で両国の文化を並べた、帝国文化展示館。
その地下。
王国から運び込まれた、名前のない木箱だった。




