第32話 人質は、損失欄に入れません
人質交渉では、相手の言葉をそのまま信じてはいけない。
だが、聞かなくてもいけない。
嘘の中にも、相手が欲しいものは残る。
帝都西門。
昼間は商人と旅人で混み合う大通りから、すべての人影が消えていた。
門は閉じられている。
帝国親衛隊が広場を囲み、屋根の上には弓兵。
その中央に、王国使節団の馬車が一台止まっていた。
御者台は空。
扉は半分だけ開いている。
車内には二人。
黒陽宮の《門番》と疑われる文書管理補佐官、エルンスト・ハーゲン。
そして、人質となった王国随行文官。
名は、テオ・マーレイ。
二十歳になったばかりの若い文官だった。
今回が初めての国外公務。
親善祭の文化展示品と、王国側の旅費精算を担当している。
今朝もクラリスへ、帝国のパンは王国より硬いですが、食費区分は同じでしょうか、と真剣な顔で聞いてきた。
その青年の首元に、細い短剣が当てられている。
「全員、下がれ!」
エルンストの声が馬車の中から響いた。
「皇女もだ! 槍を捨てろ!」
アレクシアの眉が動く。
手にしていた深紅の長槍を、石畳へ突き立てた。
「私に命令するとは、よい度胸だ」
「皇女殿下」
クラリスが横から言った。
「刺激しないでください」
「まだ何もしていない」
「お顔が十分刺激的です」
「どういう意味だ」
「後ほど説明します」
アレクシアは不満そうだったが、槍から手を離した。
ヴィクトルは広場全体を見渡している。
「弓兵を二人下げろ」
小声で兵へ命じた。
「馬車の窓から見える。隠れているつもりでも、鏃が光っている」
帝国兵が配置を変える。
ヴィクトルは続ける。
「南路地へ四人。北側の屋根に二人。西門を開けるな。だが、開けられるように見せろ」
「開けられるように?」
兵士が尋ねる。
「逃げ道がないと思えば、人質を殺す。逃げられると思わせて、選ばせろ」
兵士は頷き、走った。
ルシアンは銀杖を地面へ軽く当てている。
青白い魔力が石畳を這い、馬車の下へ伸びていた。
「術式が二つあります」
「内容は」
クラリスが聞く。
「一つは、小さな爆発術式。馬車の車輪へ仕込まれています」
「規模は」
「馬車一台を壊す程度です。広場全体には届きません」
「もう一つは」
ルシアンの顔が険しくなる。
「テオさんの首元です。短剣に、自壊術式がついています」
「短剣を落とせば」
「発動する可能性があります」
アレクシアが歯を食いしばった。
「厄介だな」
「解除できますか」
「近づければ。でも、ここからでは細部が読めません」
「ヨルは」
黒い子犬はクラリスの足元にいた。
馬車の方角へ鼻を向けている。
低く唸ってはいない。
ただ、耳が忙しなく動いている。
「瘴気反応は弱いようです」
クラリスは言った。
「術式の中心は黒陽草ではなく、魔石でしょう」
セバスは馬車を見たまま、静かに手袋を整えていた。
「裏側へ回れますか」
クラリスが尋ねる。
「可能でございます」
「見つからずに?」
「努力いたします」
「成功率は」
「九割ほど」
アレクシアが横から言った。
「残り一割は何だ」
「年齢でございます」
「お前はいくつだ」
「執事の年齢は、紅茶の蒸らし時間ほど重要ではございません」
「答えになっていないぞ」
セバスは一礼し、人影のない建物の陰へ消えた。
本当に。
消えたようにしか見えなかった。
「お嬢様!」
馬車の中から、テオの声がした。
「申し訳ありません!」
「謝罪は後です」
クラリスは少し声を張った。
「怪我はありますか」
「ありません!」
「呼吸は」
「できます!」
「手足は動きますか」
「右手だけ、縛られています!」
「分かりました」
「おい!」
エルンストがテオの首へ短剣を近づける。
「勝手に話すな!」
クラリスは、エルンストへ向けて言った。
「要求を伺います」
「西門を開けろ」
「その後は」
「馬車で出る」
「どちらへ」
「国境だ」
「通行証は」
沈黙。
「出国には通行証が必要です」
「皇女に発行させろ!」
「発行名義は」
「アレクシア・フォン・グランツ!」
「目的地は」
「何でもいい!」
「何でもよい、では書類が作れません」
「今は書類の話をしている場合か!」
「あなたが通行証を求めました」
エルンストの呼吸が荒くなる。
アレクシアが、小さな声で尋ねた。
「わざとか」
「はい」
クラリスは馬車から目を離さない。
「怒らせているのではありません。考えさせています」
人は怒鳴りながら、同時に複雑な嘘を組み立てにくい。
行き先を言えない。
通行証の名目も決めていない。
つまり、最初から国境へ逃げる計画ではなかった可能性がある。
「エルンスト様」
「その名で呼ぶな!」
「では、何とお呼びすれば」
「……」
「黒陽宮の《門番》ですか」
馬車の中が静まった。
「あなたは、エルンスト・ハーゲンではありませんか」
「黙れ」
「皇女府文書管理補佐官。帝国暦四百八年生まれ。帝都中央区出身。皇城勤務二十三年」
「黙れ!」
「甘い紅茶がお好きです」
わずかに、短剣が止まった。
「砂糖二つ。焼き菓子も」
「何を」
「毎月第一金曜日、夜十一時。皇女府記録室で受け取っていましたね」
エルンストは答えない。
「オスカー副侍従官の名を使って」
「違う」
初めて、否定した。
クラリスは、その言葉を拾う。
「では、どなたが?」
また沈黙。
否定は、時に新しい質問を生む。
「あなたではないなら、別の《門番》が皇女府にいることになります」
「私は何も言っていない」
「今、あなたではないと」
「言葉遊びをするな!」
「記録確認です」
アレクシアが、ほんの少しクラリスへ顔を近づける。
「別人なのか」
「まだ分かりません」
「では、今のは」
「反応を確認しました」
ヴィクトルが低く言う。
「馬車が少し沈んだ」
「どちら側ですか」
「後方左」
誰かが、馬車の後ろへ乗った。
セバスだ。
エルンストは気づいていない。
「要求を続けてください」
クラリスが言った。
「通行証のほかには」
「黒陽宮の帳簿を渡せ」
「どの帳簿でしょう」
「競技場で押収したものだ!」
「二冊あります」
「黒い方だ!」
「どちらも黒です」
「半分の太陽がある方だ!」
「どの頁が必要ですか」
「全部だ!」
「原本でなければいけませんか」
エルンストが言葉に詰まる。
「写しでもよろしいなら、準備時間が短くなります」
「原本だ!」
「なぜ」
「証拠だからだ!」
口にした瞬間。
エルンスト自身が息を止めた。
クラリスは静かに続ける。
「何の証拠ですか」
「……」
「黒陽宮の資金記録ですか」
「……」
「皇女殿下の偽造印章ですか」
「……」
「それとも、あなた以外の《門番》へ続く記録でしょうか」
「黙れ!」
テオが小さく身を震わせた。
短剣が首元へ食い込む。
クラリスはすぐに声の温度を下げた。
「要求は理解しました」
押しすぎてはいけない。
相手の感情が、人質へ向いた。
「帳簿を渡します」
アレクシアがクラリスを見る。
「本気か」
「写しを」
「原本だと言った!」
「原本を運ぶには、押収責任者全員の署名が必要です」
「誰だ」
「私、皇女殿下、帝国親衛隊長、帝国商務庁臨時監査官、ルシアン王子殿下」
「多すぎる!」
「共同押収ですので」
「面倒なことを!」
「同感です」
アレクシアが横から囁いた。
「お前がそうしたのだろう」
「今は役に立っています」
時間を稼ぐ。
ルシアンが短剣の術式を読む。
セバスが馬車へ近づく。
ヴィクトルが兵を配置する。
アレクシアは、正面に立ち続ける。
全員に役割がある。
「テオさん」
クラリスは呼びかけた。
「はい」
「本日の立替金はいくらですか」
「え?」
「文化展示館で、個人立替をしましたね」
「はい。銀貨三枚と銅貨十二枚です」
「内訳は」
「展示用の紐が銀貨一枚、紙札が銀貨一枚と銅貨八枚、それと昼食が」
「自分の昼食を混ぜるな」
エルンストが怒鳴った。
だが。
クラリスは見た。
テオの右肩がわずかに動いた。
右手だけ縛られている。
左手は自由。
立替金の内訳を答えながら、左手を座席の下へ伸ばしている。
若い文官は理解した。
これは、いつもの経費確認ではない。
動く準備をさせるための会話だ。
「昼食は個人負担です」
クラリスが言った。
「はい」
「では、銀貨二枚と銅貨八枚」
「違います」
「違う?」
「展示用の蝋が、銅貨四枚です」
「そうでしたね」
テオは時間を稼いでいる。
意外に肝が据わっている。
「おい、もういい!」
エルンストが叫ぶ。
「帳簿を持ってこい!」
「準備します」
クラリスはルシアンを見る。
少年が、ほんのわずかに頷いた。
短剣の術式を読めた。
「皇女殿下」
「何だ」
「帳簿を」
「本物を?」
「表紙だけ」
アレクシアの口元が上がった。
「悪女だな」
「よく言われます」
黒い革表紙をつけた空の帳面が用意された。
アレクシアがそれを持つ。
「私が行く」
「近づきすぎないでください」
「分かっている」
「合図までは投げない」
「分かっている!」
皇女は、馬車へ向かって歩いた。
長槍は持っていない。
両手が見えるよう、帳面を掲げている。
「帳簿だ!」
アレクシアが叫ぶ。
「人質を離せ!」
「先に寄越せ!」
「帝国皇女へ命令するな!」
「皇女殿下」
クラリスが後ろから呼んだ。
「交渉中です」
「分かっている!」
アレクシアは馬車から十歩の位置で止まった。
エルンストが扉から身を乗り出す。
短剣は、テオの首元。
視線は帳面へ。
「投げろ!」
アレクシアが、帳面を軽く振った。
その瞬間。
ルシアンの銀杖が光る。
「今です!」
短剣の柄だけが凍った。
刃ではない。
術式の刻まれた柄。
自壊魔術の流れが止まる。
同時に、テオが座席下へ隠していた展示用の紐を引いた。
馬車の内側に積まれていた布が、エルンストの腕へ絡む。
「何を!」
馬車の後方扉が開いた。
セバスが滑り込む。
短剣を持つ手首へ、二本の指。
関節が外れる寸前の角度。
短剣が落ちる。
凍った柄は作動しない。
テオが床へ身を伏せる。
「確保!」
ヴィクトルの声。
兵が一斉に馬車を囲む。
エルンストは反対側の扉へ体を向けた。
だが、そこにはアレクシアがいた。
いつの間にか距離を詰めている。
皇女の拳が、馬車の扉を貫いた。
木片が飛ぶ。
「皇女殿下」
クラリスが言った。
「馬車は王国の備品です」
「あとで払う!」
「修繕費として記録します」
「好きにしろ!」
アレクシアは壊れた扉から腕を入れ、エルンストの襟を掴んだ。
そのまま馬車の外へ引きずり出す。
石畳へ押さえつける。
「生かして確保したぞ!」
「確認します」
「見れば分かるだろう!」
セバスが脈を確かめる。
「生存しております」
「私の確認は信用しないのか」
「疑うことと、確認することは別です」
「四度目だぞ!」
テオは兵に支えられ、馬車から降りた。
首元に浅い傷。
それ以外は無事だった。
「クラリス様」
「怪我の確認を」
「はい」
「それから」
「何でしょう」
「立替金の明細を、後ほど提出してください」
テオは一瞬、ぽかんとした。
それから笑った。
「はい」
緊張が切れたのか、目に涙が浮かぶ。
「昼食は入れません」
「当然です」
エルンストは地面へ押さえられながら、クラリスを睨んだ。
「私を捕らえても遅い」
「何がですか」
「庭師は、もう温室に火をつけている」
クラリスの表情が変わる。
その時。
影の中から薄い紙が現れた。
セバスが手を伸ばす。
《夜帳》の旧経路から届いた返信。
アルベルティーナ公爵の筆跡。
『旧温室、封鎖完了。
放火犯一名を拘束。
帳簿および印章は保全。
庭師は逃走した可能性あり。
娘へ。
帰国を急ぐな。
こちらは、こちらで働く。』
クラリスは最後の一文を二度読んだ。
帰国を急ぐな。
父は、分かっている。
黒陽宮は、クラリスを王国へ戻したい。
帝国側の調査から引き離すために。
「残念でしたね」
クラリスは、エルンストへ言った。
「温室の証拠は保全されました」
男の顔から、初めて余裕が消えた。
「そして」
クラリスは返信文を折り畳む。
「あなたが『庭師』の行動を知っていたという供述も、記録します」
「供述は証拠ではないのだろう」
「はい」
「なら、何の意味がある」
「次に照合する場所が増えました」
エルンストは黙った。
親衛隊が彼を立たせる。
その懐から、一枚の薄い紙が落ちた。
ヨルがすぐに近づき、鼻を鳴らす。
紙には、王国王宮の見取り図。
西庭園。
旧温室。
そして、王太子執務室。
三か所に、黒い印がついている。
「兄上の執務室」
ルシアンの顔色が変わる。
クラリスは見取り図を拾い上げた。
庭師の次の標的か。
それとも。
すでに根がある場所か。
人質は救出した。
門番も確保した。
だが、黒陽宮が残した印は、王太子レオンハルトのすぐそばまで伸びていた。
クラリスは見取り図を証拠袋へ入れる。
「ルシアン殿下」
「はい」
「王国へ戻る準備を」
「すぐに?」
「いいえ」
クラリスは帝国皇城の方角を見た。
「帝国側の《門番》が一人とは限りません」
アレクシアが深紅の槍を拾い上げる。
「先に、こちらの根を抜く」
「はい」
二つの国。
二つの王宮。
そして、互いの国を疑わせるための黒い印。
人質一人を救えば終わる話ではない。
だからこそ。
クラリスは、人の命を帳尻合わせには使わない。
一人を救うことと。
国を守ること。
その二つを、同じ帳簿の反対側へ置くつもりはなかった。
人質は、損失欄に入れない。
最初から。
失ってよい命など、計上されていない。




