第31話 門番は、門の内側にいました
門番とは、門の外を見る者だと思われている。
誰が来るのか。
何を持ち込むのか。
許可はあるのか。
だが、本当に怖い門番は違う。
門の内側に立ち。
誰を通したかではなく。
誰を通した記録を残すかを決める。
王国王宮から緊急文書が届いた一時間後。
アレクシア皇女府の正門は、閉鎖された。
「全員を集めろ」
帝国皇城へ戻ったアレクシアは、長槍を侍従へ預けるより先に命じた。
「侍従、文官、護衛、清掃係、厨房、馬車係。皇女府に所属する者は、一人も外へ出すな」
「皇女殿下」
クラリスが呼び止める。
「何だ」
「一斉に集めれば、内通者にも調査開始が伝わります」
「すでに門を閉じた」
「ですから、もう伝わっています」
アレクシアの眉間に皺が寄った。
「では、どうしろというのだ」
「普段通りにしてください」
「王宮の旧温室が襲撃されたのだぞ」
「はい」
「皇女府にも黒陽宮の《門番》がいる」
「その可能性があります」
「ならば、今すぐ捕らえる」
「誰を?」
アレクシアが言葉を止めた。
黒陽宮の構成員ハインツは、皇女府にいる者を《門番》と呼んだ。
だが、その本名も役職も話していない。
門を守る者なのか。
情報を止める者なのか。
皇女へ近づく者を選ぶ立場なのか。
それすら、まだ分からない。
「全員を疑えと言うのか」
「全員を疑う必要はありません」
クラリスは答えた。
「記録を確認します」
アレクシアは天井を仰いだ。
「また帳簿か」
「今回は、帳簿だけではありません」
「ほかに何を見る」
「厨房、洗濯、照明、馬車、鍵、夜勤表」
「皇女府の内通者を、洗濯物から探すのか?」
「人は、何も使わずには暮らせません」
食べる。
飲む。
灯りを使う。
服を汚す。
扉を開ける。
馬車を出す。
正式な入退室記録を改ざんできても。
生活の全部までは消せない。
「大きな嘘は、小さな日常に足を取られます」
クラリスが言った。
アレクシアは、しばらく彼女を見ていた。
「分かった」
「では」
「全員を集めるのはやめる」
皇女は側近へ向き直った。
「閉鎖も解除しろ。通常勤務へ戻せ」
「よろしいのですか」
「普段通りに見せる」
アレクシアは低く言った。
「ただし、出入口はすべて記録しろ。記録係も二人一組だ」
「はっ」
皇女府の記録室は、帝国らしく広かった。
王国の公爵家記録室よりも棚が高く、鉄製の保管箱が多い。
壁には部署ごとの紋章札。
皇女執務室。
私室。
軍務室。
魔術研究室。
接遇室。
宝物庫。
印章保管庫。
「皇女殿下の印章保管庫へ入れる者は」
クラリスが尋ねた。
「私と侍従長だけだ」
「侍従長のお名前を」
「マルタ・シュタイン」
アレクシアの後ろに立っていた老婦人が、一歩前へ出た。
銀色の髪を固く結い、黒い侍従服を着ている。
背筋はアレクシアにも負けていない。
「私でございます」
声も硬い。
「皇女殿下が七歳の頃より、お仕えしております」
「印章を持ち出したことは」
「一度もございません」
「保管庫の鍵は」
「私が首から下げております」
マルタは衣服の下から銀の鍵を取り出した。
鎖は古い。
鍵も使い込まれている。
「複製の可能性は」
「ございません」
「なぜ断言できますか」
マルタの目が鋭くなる。
「この鍵は、帝国皇族付き錠前師の一点物。複製には元型と特殊合金が必要です」
「鍵そのものを使われた可能性は」
「私から盗んだと?」
「眠っている間、入浴中、着替えの最中」
「ありません」
マルタの声が、さらに硬くなる。
アレクシアが口を挟んだ。
「マルタは違う」
「皇女殿下」
「この者は、私が母を亡くした時からそばにいた」
「承知しました」
「なら」
「だからこそ、記録で無関係を確認します」
マルタはクラリスをじっと見た。
怒るかと思った。
だが、老侍従長は深く頭を下げた。
「お願いいたします」
「マルタ?」
「疑いを残したままお仕えすることの方が、私には耐えられません」
アレクシアは少し黙った。
それから、小さく頷いた。
「分かった」
クラリスは印章保管庫の入退室記録を開いた。
過去一年。
入室者はアレクシアとマルタのみ。
開錠時刻。
閉錠時刻。
用途。
すべて整っている。
「綺麗ですね」
「問題ないということか」
「いいえ」
クラリスは記録へ指を置いた。
「綺麗すぎます」
アレクシアが顔をしかめる。
「王国でも聞いたぞ、その言葉」
「現場の記録には、誤記や訂正があります」
人が書く。
時間を間違える。
インクをこぼす。
前の行と同じ記号を書き、あとで直す。
だが、この記録には一つも訂正がない。
一年間。
筆跡も。
インクの濃さも。
行間も。
すべて同じ。
「後から清書されています」
クラリスが言った。
「入退室のたびに書いた記録ではありません」
マルタの顔色が変わる。
「記録係を」
「印章保管庫の記録は、副侍従官が月末に確認し、保管しております」
「副侍従官の名は」
「オスカー・ベルン」
アレクシアが答えた。
「私の予定と文書管理を任せている」
「今はどちらに」
「執務室にいるはずだ」
「呼びますか」
「いいえ」
クラリスは首を横へ振った。
「まだです」
次に確認したのは、厨房記録だった。
皇女府では、夜間勤務者へ軽食と茶が支給される。
時刻。
部署。
人数。
受取人。
厨房係の記録は、印章保管庫の記録よりずっと汚れていた。
茶を一杯こぼした跡。
パンの数を五個から六個へ訂正した箇所。
夜勤者の字が読みにくく、厨房長が横へ名前を書き直した頁。
「こちらの方が信用できますね」
クラリスが言う。
「汚れているのに?」
ルシアンが尋ねた。
「使用中の記録だからです」
クラリスは一か所を指した。
毎月、第一金曜日。
夜十一時。
皇女府記録室へ、紅茶一名分。
砂糖二つ。
小さな焼き菓子。
「記録室に夜勤者が?」
アレクシアが聞く。
マルタは首を横へ振った。
「夜間は閉鎖しております」
「では、この茶は誰に」
受取人の欄。
記号は、O・B。
オスカー・ベルン。
「毎月一度、副侍従官が夜の記録室へ入っています」
ヴィクトルが言った。
「入退室表には」
セバスが別の帳面を開く。
「記録がございません」
アレクシアの顔が冷える。
「オスカーを連れてこい」
「まだです」
「まだ何が必要だ!」
「茶を受け取っただけでは、黒陽宮とは断定できません」
「夜中に閉鎖された記録室へ入り、入室記録を残していない!」
「規則違反ではあります」
「十分だろう!」
「内通者である証拠としては足りません」
アレクシアは何か言い返そうとした。
だが、拳を握ったまま止まる。
机は無事だった。
「続きを」
低く言った。
洗濯記録。
夜勤者用の外套が、毎月一着だけ余分に洗われている。
名札なし。
泥ではなく、灰色の粉がついているとの注記。
照明記録。
第一金曜日だけ、記録室の魔石灯が通常より二時間長く使われている。
鍵管理記録。
記録室の予備鍵が、年に十二回、点検名目で持ち出されている。
担当。
オスカー・ベルン。
「揃いすぎていますね」
クラリスが言った。
「黒なのでは?」
ルシアンが聞く。
「逆です」
「逆?」
「一人へ集中しすぎています」
すべてが、オスカーを指している。
夜の茶。
外套。
灯り。
予備鍵。
清書された入退室表。
「誰かが彼を犯人に見せている可能性もあります」
「では、何を信じる」
アレクシアが苛立った声で尋ねる。
「記録同士の一致ではなく、記録が生まれる前を見ます」
クラリスは厨房係を呼んだ。
夜の茶を渡した若い女中だった。
「受取人のお顔を覚えていますか」
「いいえ。帽子を深く被っておられましたので」
「声は」
「オスカー副侍従官様に似ていたような」
「似ていた」
「はい。でも、いつもより低かった気もします」
「茶は毎回、同じ注文ですか」
「紅茶と砂糖二つ、それと焼き菓子です」
「オスカー様のお好みは」
女中は不思議そうな顔をした。
「副侍従官様は、甘いものを召し上がりません」
室内の空気が止まった。
「砂糖も?」
「紅茶は、いつも何も入れずに」
クラリスは、厨房記録へ目を落とした。
砂糖二つ。
焼き菓子。
誰かが、オスカーの名を使った。
しかし、その好みまでは知らなかった。
「オスカー様は右利きですか」
「左利きでございます」
クラリスは受取署名を見る。
O・B。
文字の払いは右へ流れている。
右利きの字。
「オスカー様ではありません」
アレクシアの目が見開かれる。
「では、誰だ」
クラリスは、記録係の一覧を確認した。
副侍従官の代理として、夜間の文書受領を担当できる者。
三人。
そのうち、右利き。
二人。
甘い紅茶と焼き菓子を好む者。
一人。
「皇女殿下」
「何だ」
「文書管理補佐官、エルンスト・ハーゲンという方をご存じですか」
アレクシアの表情が固まった。
「知っている」
「どのような方ですか」
「父上の代から皇城に仕えている」
帝国皇帝の時代から。
「私の親善祭日程を組んだのも、グランベル領から届いた報告書を最初に受け取ったのも、エルンストだ」
「つまり」
ヴィクトルが言う。
「クラリスたちの入国時刻を知っていた」
消えた帳簿は、王国一行が国境を越える半刻前に盗まれた。
エルンストなら、到着時刻を知ることができた。
「現在地を」
アレクシアが親衛隊へ命じる。
隊員が駆けていく。
ほどなくして戻った。
「文書管理補佐官エルンスト・ハーゲンは、午後の勤務を終え、皇女府を退出した記録がございます」
「いつだ」
「午後六時十二分」
「現在は」
「自宅には戻っておりません」
アレクシアが立ち上がる。
「門を閉じろ!」
「皇女殿下」
今度は、クラリスも止めなかった。
「帝都の各門へ手配を。ですが、エルンスト様の名前だけではなく、変装を前提に」
「親衛隊!」
アレクシアが叫ぶ。
「城門、駅馬車、河港、地下水路。すべて押さえろ!」
ヴィクトルも立ち上がった。
「帝都の外へ出る道は」
「西、北、河川の三つ。だが、皇城の古い地下道もある」
「兵を分ける」
セバスが静かに尋ねた。
「エルンスト様の執務机を確認しても?」
「今すぐやれ」
文書管理補佐官の執務室は、皇女府二階にあった。
机の上は整っている。
書類も少ない。
私物もほとんどない。
「逃げた者の机ですね」
クラリスが言った。
「なぜ分かる」
「戻る者は、もう少し物を残します」
引き出しには何もない。
書棚にも不審な帳簿はない。
だが、ヨルが部屋の隅で鼻を動かした。
小さく唸る。
「何かあります」
ルシアンが壁へ魔術を当てる。
棚の後ろ。
薄い認識阻害。
セバスが棚をずらすと、壁に小さな穴があった。
中には、一本の筒。
帝国式の伝書筒。
中から出てきたのは、短い通信記録だった。
『庭師へ。
温室の帳簿を移せ。
書記は確保された。
悪女は帝国にいる。
帰還前に、根を焼け。』
クラリスの顔から、わずかに温度が消えた。
王宮西庭園の旧温室。
会計院職員が襲撃された現場。
そこに残る証拠を、焼く。
「いつ送られた」
アレクシアが問う。
ルシアンが筒の魔力痕を調べる。
「一時間以内です」
「間に合うか」
「通常の伝書術なら、すでに王国へ」
ルシアンの声が沈む。
クラリスは通信記録を見た。
帰還前に。
黒陽宮は、クラリスたちが王国へ戻ることまで想定している。
「王宮へ緊急通信を」
「通常回線は使わない方がよいでしょう」
セバスが言った。
「庭師が王宮内部にいるなら、通信を先に見られる可能性がございます」
「では、どうする」
アレクシアが問う。
セバスは、ほんの少しだけ昔の顔をした。
「《夜帳》の旧経路を使います」
室内が静まる。
「まだ使えるのですか」
クラリスが尋ねる。
「一つだけ」
「誰へ届きますか」
「アルベルティーナ公爵閣下へ」
クラリスの父。
王宮ではなく、公爵家へ。
そこから会計院と王妃へ知らせれば、庭師に読まれる可能性は下がる。
「お願いします」
「承知いたしました」
セバスは伝書用の薄紙を取り出した。
ペンを走らせる。
短い文。
『西庭園旧温室。
今夜、証拠焼却の恐れ。
王宮回線を使用するな。
公爵家の者のみで封鎖せよ。
庭師を探せ。』
最後に、セバスが小さな印を押す。
黒い帳面を閉じる手の紋章。
かつて記録を消した者たちの印。
今は。
記録を守るために使う。
「送ります」
薄紙が青い炎に包まれた。
燃えたのではない。
影の中へ沈んだ。
クラリスは、空になった伝書筒を見る。
「門番は、エルンスト・ハーゲン」
「そう見えます」
アレクシアが言った。
「まだ断定しないのか」
「本人を確保し、通信記録と照合してからです」
「相変わらずだな」
「ですが」
クラリスは皇女を見る。
「逃げた時点で、確認すべき理由は十分です」
アレクシアの口元が上がった。
「それでいい」
その時、皇女府の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
外門からの緊急信号。
親衛隊員が走り込んでくる。
「皇女殿下!」
「何だ」
「西門にて、エルンスト・ハーゲンと思われる人物を発見!」
「確保したか」
「いえ」
兵士が息を整える。
「王国使節団の馬車へ乗り込み、人質を取っております!」
ルシアンの顔色が変わった。
「誰を」
「王国側の随行文官です!」
アレクシアは長槍を取る。
ヴィクトルも剣帯を締めた。
「行くぞ」
クラリスは通信記録を証拠袋へ納めた。
「皇女殿下」
「何だ」
「生かして確保を」
「分かっている!」
その返答は、以前より少し早かった。
門番は。
門の外にはいなかった。
皇女府の奥で。
皇女へ届く文書を選び。
皇女の印を盗み。
帝国と王国の扉を、内側から開けていた。
そして今。
自分が守っていたはずの門から、逃げようとしている。




