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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第三章 悪女令嬢は、帝国の帳簿を読む
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第30話 供述は、証拠ではありません

 尋問室には、窓がなかった。


 窓がない部屋は、時間が分からなくなる。


 朝なのか。


 夜なのか。


 外で親善祭の音楽が鳴っているのか。


 それとも、すでに祭典が終わったのか。


 分かるのは、机の上に置かれた時計と、記録係が頁をめくる音だけだった。


 帝国皇城、西棟地下。


 国家反逆罪を扱うための特別尋問室。


 中央には、鉄製の机。


 向こう側の椅子には、黒陽宮の構成員が座っていた。


 白い仮面は外されている。


 四十歳前後の男。


 痩せた頬。


 短く刈られた黒髪。


 左耳の後ろには、半分だけ描かれた黒い太陽の刺青。


 名前は、まだ分からない。


 所持していた身分証は三枚。


 帝国商務庁の下級書記。


 薬草研究院の搬送係。


 中央競技場の地下整備主任。


 すべて別人名義だった。


「もう一度聞く」


 アレクシア皇女が言った。


「名は」


 男は答えない。


 アレクシアの指が、机を一度叩いた。


 鉄の机が低く鳴る。


「帝国の皇女が聞いている」


「皇女殿下」


 クラリスが横から呼んだ。


「何だ」


「肩書を重くしても、答えが正しくなるとは限りません」


「では、どうしろと」


「先に、こちらが確認できている事実を整理します」


 アレクシアは不満そうだった。


 だが、クラリスを止めなかった。


 昨日までなら、机をもう一度叩いていただろう。


 少しずつ学習している。


 鉄の机にとっても良いことである。


 クラリスは、記録係へ頷いた。


「押収品一覧を」


「はい」


 帝国文官が読み上げる。


「偽造印章、六点。皇女府、帝国商務庁、王宮薬草局、王妃慈善委員会、ローゼン商会本店、クラリス・フォン・アルベルティーナ公爵令嬢」


 最後の一つは、未完成。


 それでも、クラリスの筆跡見本と紋章の一部は彫られていた。


「黒陽宮関連帳簿、二冊。欠落頁、一枚。自壊術式用魔石、一点。認識固定術式用の銀粉、三袋」


 ルシアンが補足する。


「銀粉には、記憶を読み取るための魔術触媒が混ぜられていました」


「つまり」


 ヴィクトルが言う。


「クラリスの署名を作るつもりだった」


「はい」


 クラリスは男を見る。


「ここまでは、あなたが何も話さなくても確認できます」


 男の目が、わずかに動いた。


「ですので、お名前を名乗らないことに大きな意味はありません」


「では、なぜ聞く」


 男が初めて口を開いた。


 低い声だった。


「記録に必要だからです」


「偽名を書くかもしれない」


「その場合、偽名を名乗った事実が残ります」


 男は小さく笑った。


「本当に帳簿の女だな」


「よく言われます」


「王宮を壊した悪女」


「壊しておりません」


「読ませただけ、か」


「ご存じなのですね」


 クラリスは、そこを拾った。


「私が王宮で使った言葉を」


「有名だ」


「帝国内で?」


「必要な者の間では」


 アレクシアが身を乗り出す。


「必要な者とは誰だ」


 男は答えない。


「話せ」


「皇女殿下」


 クラリスが止める。


「まだです」


「何がまだだ」


「彼は、こちらが何を知っているのか確認しています」


 男の目が細くなった。


「質問へ答えず、こちらの反応を見ている。どの資料が押収されたか。誰が黒陽宮の名を知っているか。皇女殿下がどこまで把握しているか」


「なら、何も話させず牢へ戻せばいい」


「それでは、相手の目的を確認できません」


「では、どうする」


「こちらも確認します」


 クラリスは押収帳簿を開いた。


「あなたの身分証のうち、地下整備主任名義は三年前に死亡した男性のものです」


 男の表情は変わらない。


「薬草研究院の搬送係は、半年前から行方不明」


 変わらない。


「帝国商務庁の下級書記は実在します。現在も勤務しています」


 わずかに、指が動いた。


「三枚のうち、一枚だけ生きている人間の身分証でした」


 アレクシアが男を見る。


「商務庁の書記が仲間か」


「断定はできません」


 クラリスは答えた。


「身分証を盗まれただけかもしれません」


「本人を拘束する」


「まず、勤務状況と身分証の使用履歴を」


「逃げたらどうする」


「監視を」


 アレクシアは親衛隊長へ視線を送った。


「聞いたな」


「はっ」


「拘束はするな。だが、目を離すな」


 クラリスは少しだけ頷いた。


 話が早くなっている。


「それから」


 クラリスは、男が持っていた革袋を置いた。


「この袋は、帝都北区の皮革工房で作られたものです」


「どこにでもある袋だ」


「いいえ」


 セバスが穏やかに答えた。


「縫い糸が特殊でございます」


 男の視線がセバスへ移る。


 そこには、警戒があった。


「帝国軍の騎兵装具に使われる、耐火性の銀糸。一般流通はしておりません」


「昔の知識か」


 男が言った。


「ええ」


 セバスは微笑む。


「昔は、持ち主の分からない荷物を、持ち主より先に調べる仕事をしておりました」


「帳消しのセバス」


「その呼び名は、あまり好みではございません」


「何人消した」


「数えておりません」


 室内が静まった。


 セバスは笑顔を崩さない。


「数えなかったことを、今では後悔しております」


 クラリスが、ほんの少し彼を見る。


 セバスは過去を美化しない。


 誇りもしない。


 ただ、消した記録を覚えている。


 数えていなかったことまで含めて。


「だから今は、すべて記録するのか」


 男が尋ねた。


「お嬢様が、そうなさいますので」


「忠犬だな」


 机の下で、ヨルが低く唸った。


 今日は正式に許可を得て、尋問室へ入っている。


 暫定希少魔獣。


 同行目的、瘴気反応確認。


 ただし、証拠能力なし。


 その注意書きまで記録されていた。


「ヨル」


 クラリスが言う。


「威嚇は不要です」


 ヨルは唸るのをやめた。


 だが、男から目を離さない。


「その獣も、私を疑っている」


「ヨルの反応は参考所見です」


「便利だな」


「便利だからといって、証拠にはしません」


 クラリスは机の上に、帝国の地図を広げた。


 押収帳簿に記されていた符丁。


 黒陽草の搬送先。


 偽造印章が使用された支出先。


 魔力導管の設置場所。


 すべて印をつけてある。


 帝都。


 国境地帯。


 薬草研究院。


 王国のグランベル領。


 王都のローゼン商会。


「黒陽宮は、王国を弱体化させることだけが目的ではありません」


 クラリスは言った。


「帝国皇女殿下の失脚も計画していた」


 男は何も答えない。


「王国と帝国の対立を作るため、両国の印章を偽造した」


 沈黙。


「その一方で、ローゼン商会を通じて利益を得ている」


 沈黙。


「黒陽宮は、帝国のための組織ではありませんね」


 男の目が動いた。


 アレクシアが声を低くする。


「何だと」


「帝国を強くするためなら、皇女殿下を失脚させる理由がありません」


「私を傀儡に替えるつもりなら」


「可能性はあります」


 クラリスは続けた。


「ですが、王国も帝国も、強くなりすぎることを避けようとしているように見えます」


「どういう意味だ」


 ヴィクトルが尋ねる。


「水路を壊し、農地を弱らせ、魔物を呼ぶ。皇女殿下を犯人にし、両国を対立させる。そのたびに、武器、薬、食料、復旧資材が必要になります」


「商人が儲かる」


「はい」


「戦争を始めたいのか」


「始めることより」


 クラリスは男を見た。


「終わらせたくないのではありませんか」


 男の口元から、笑みが消えた。


「王国も帝国も、勝たせない」


「どちらかが勝てば、争いは終わります」


「終われば、必要とされなくなる者がいる」


 クラリスは帳簿を指で押さえた。


「国境商人。軍需貴族。薬草研究院。商務官。情報屋。暗部」


 セバスの目がわずかに細くなる。


「争いが続く限り、利益と立場を守れる者たち」


「それが黒陽宮ですか」


 ルシアンが尋ねた。


 男は答えない。


 だが、沈黙の質が変わった。


 先ほどまでは、こちらを試す沈黙。


 今は、答えを隠す沈黙。


「姉様」


 ルシアンが小さく言う。


「公務中です」


「クラリス様。今の、当たっています」


「反応だけでは断定できません」


 アレクシアは立ち上がった。


「十分だ」


「皇女殿下」


「こいつらは帝国を食い物にしている」


 黄金の目に怒りが宿る。


「王国も帝国も弱らせ、争いを続けさせ、その間に肥える。外道以下だ」


「ですから、証拠を」


「分かっている!」


 アレクシアは拳を机へ振り下ろしかけた。


 途中で止める。


 拳を開き、ゆっくり椅子へ戻った。


 鉄の机は無事だった。


 セバスが静かに紅茶を置く。


「ご成長でございますな」


「聞こえているぞ、執事」


「失礼いたしました」


 まったく失礼した顔ではない。


「名前を」


 クラリスが男へ言った。


「もう一度、伺います」


「なぜ名前にこだわる」


「責任を、組織名へ逃がさないためです」


 黒陽宮が命じた。


 帝国のためだった。


 命令に従っただけ。


 その言葉では、人間が消える。


 だが、行動したのは誰か。


 印章を作ったのは誰か。


 薬草を運んだのは誰か。


 水路を曲げたのは誰か。


 そこを記録しなければ、責任はまた霧の中へ逃げる。


「組織が命じても」


 クラリスは言った。


「署名するのは人です」


 男は、しばらく彼女を見ていた。


 やがて、視線を落とす。


「ハインツ」


 小さな声だった。


 記録係の羽根ペンが動く。


「姓は」


「ヴァルナー」


「生年月日」


「帝国暦四百十二年、冬月十九日」


「所属」


 ハインツは再び黙った。


 アレクシアは急かさなかった。


 クラリスも待った。


 時計の針が進む。


「元、帝国商務庁対外流通監査室」


 アレクシアの顔が変わる。


「監査官だったのか」


「そうだ」


「監査する側が、不正へ回った?」


 クラリスが尋ねる。


 ハインツは乾いた笑いを漏らした。


「監査すれば、分かる」


「何がですか」


「国が、正しい記録だけでは動いていないことが」


「それは存じています」


「なら分かるだろう」


「いいえ」


 クラリスは首を横へ振った。


「正しい記録だけで動いていないことと、誤った記録を作ってよいことは別です」


 ハインツが目を上げる。


「正すには、壊すしかない時もある」


「誰の暮らしを?」


「国のためだ」


「どちらの国ですか」


 ハインツは答えられなかった。


 王国か。


 帝国か。


 黒陽宮か。


 あるいは、自分たちの立場か。


「黒陽宮の本拠地は」


 アレクシアが尋ねる。


「本拠地などない」


「指導者は」


「一人ではない」


「構成員は」


「知らない」


「知らないだと?」


「互いに名を持たない。役割だけだ」


「お前は何だ」


 ハインツは少し迷い、答えた。


「書記」


 帳簿を作る者。


 偽造する者。


 残すべき記録と、消すべき記録を選ぶ者。


 クラリスとは、正反対の書記だった。


「他の役割は」


「導師。商人。庭師。薬師。門番」


「符丁ですね」


「そうだ」


「皇女府にいる者は」


 ハインツの目が、ほんの一瞬だけ扉へ向いた。


 クラリスは見逃さなかった。


「門番ですか」


 ハインツは答えない。


「王宮にいる者は」


 今度は動かない。


「庭師?」


 指が震えた。


 わずかに。


「王国王宮の構成員は、庭師と呼ばれている」


 クラリスは記録係へ目を向けた。


 庭師。


 王宮。


 根を育てる者。


「本名は」


「知らない」


「接触方法は」


「文書だけだ」


「どこへ」


「王国側の古い温室」


 クラリスの記憶に、一つの場所が浮かんだ。


 王宮西庭園。


 現在は使われていない、古い硝子温室。


 王太子妃教育の頃、備品帳簿から外されていた建物。


 修繕費だけが毎年、少額ずつ計上されていた。


 誰も使っていないのに。


「クラリス様」


 ルシアンが彼女の顔を見る。


「心当たりが?」


「あります」


 その時、尋問室の扉が激しく叩かれた。


 親衛隊員が入ってくる。


「皇女殿下。王国王宮より緊急文書です」


 封蝋は、王妃エレノアのもの。


 ルシアンが受け取り、封を確認する。


「本物です」


 クラリスが文書を開く。


 内容は短かった。


『王宮西庭園の旧温室にて、王妃慈善委員会の旧帳簿および偽造印章を発見。


調査に入った会計院職員一名が襲撃を受けた。


犯人は逃走。


現場には、黒い太陽の紋章あり。』


 室内の全員が、ハインツを見る。


 ハインツは目を閉じた。


「遅かったな」


 アレクシアが立ち上がる。


「王国へ戻るぞ」


「皇女殿下も?」


 ルシアンが聞く。


「黒陽宮は帝国の名を使った」


「だが、王国王宮の事件です」


 ヴィクトルが言う。


「外交問題になる」


「ならば正式に行く」


 アレクシアは言い切った。


「帝国第一皇女として、王国へ謝罪し、調査協力を申し出る」


「親善祭は」


「続ける」


「よろしいのですか」


「祭典を止めれば、黒陽宮の望み通りだ」


 彼女はクラリスを見る。


「両国を揉めさせたいなら、逆に両国で調べる」


 クラリスは少し考えた。


「合理的です」


「褒めたか」


「確認しました」


「一度くらい素直に褒めろ!」


 ハインツが、小さく笑った。


 アレクシアが睨む。


「何がおかしい」


「お前たちは、自分たちが一緒に動けば勝てると思っている」


「違うのか」


「黒陽宮は、王宮にも皇女府にも根を張った」


「だから何だ」


「どちらか一つを切れば」


 ハインツは静かに言った。


「もう一方が動く」


 クラリスは、その言葉を記録した。


 供述は、証拠ではない。


 だが、次に探す場所を示すことはある。


 王国王宮、西庭園の旧温室。


 帝国皇女府、門番。


 二つの国。


 二つの根。


 切るべき場所は、一つではなかった。


「ハインツ・ヴァルナー」


 クラリスは、男の名を初めて呼んだ。


「何だ」


「今の供述も、すべて裏付けを取ります」


「私を信用しないのか」


「はい」


 即答だった。


「ですが」


 クラリスは帳簿を閉じる。


「あなたが話したという事実は、残します」


 ハインツはしばらく黙った。


 それから、初めてほんの少しだけ疲れた顔をした。


 黒陽宮の書記。


 偽の帳簿を作ってきた男。


 その男の供述が、今度は正確に記録されている。


 皮肉なことに。


 彼の名を最初に正しく残したのは、敵である悪女令嬢だった。


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