表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第三章 悪女令嬢は、帝国の帳簿を読む
PR
33/63

第29話 悪女令嬢は、一人で来いと言われても一人では行かない

 一人で来い。


 その言葉には、たいてい二つの意味がある。


 一つ。


 証人を連れてくるな。


 二つ。


 助けが来ない場所まで歩いてこい。


 どちらにしても、従う理由はない。


「つまり、全員で行くのだな」


 アレクシアが言った。


 時刻は、夜の九時。


 帝国中央競技場の地下へ続く管理室。


 昼間まで道具倉庫として使われていた部屋には、競技用の槍、折り畳み椅子、魔術演武用の石板が積まれている。


 その中央に簡易机を置き、クラリスたちは地下第七導管室の図面を広げていた。


「全員で突入するわけではありません」


 クラリスが答える。


「では、私とお前で行く」


「皇女殿下は待機してください」


「なぜだ」


「皇女殿下が正面から現れた時点で、相手が逃げるからです」


「逃げる前に捕まえる」


「地下導管を壊して証拠ごと埋めます」


「壊さん!」


「先ほど、敵を引きずり出すと」


「あれは言葉だ!」


「力の入り方が、言葉だけの方ではありませんでした」


 アレクシアの眉間に皺が寄る。


 隣でヴィクトルが地図を眺めたまま言った。


「皇女殿下。クラリス嬢の言う通りだ」


「お前まで何だ」


「あなたは隠密行動に向いていない」


「帝国の皇女を何だと思っている」


「目立つ」


 アレクシアは言葉を失った。


 黒と金の軍装。


 腰には魔術剣。


 背丈ほどある長槍。


 黄金の瞳。


 たしかに、地下道へ溶け込む装いではない。


「では、辺境伯はどうなのだ」


「俺も目立つ」


「堂々と言うな」


「だから俺は別の入口を押さえる」


 ヴィクトルは地図の東側を指した。


「地下第七導管室には、表向き一つしか入口がない。だが排水経路が西と東に分かれている。人が通れる幅なら、逃走路になる」


「東側は帝国親衛隊に任せる」


 アレクシアが即座に言う。


「親衛隊の中に内通者がいた場合は」


 クラリスが尋ねる。


「私の親衛隊を疑うのか」


「皇女殿下の印章が使用されました」


 アレクシアが黙る。


「疑うことと」


「確認することは別、だろう。もう覚えた」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。腹が立つ」


 ルシアンは図面の上へ銀杖をかざしていた。


 青白い光が細い線となり、地下導管の魔力経路をなぞっていく。


「第七導管室には、まだ弱い魔力反応があります」


「黒陽草ですか」


「それもあります。でも、別の術式が混じっています」


「何の術式でしょう」


「認識阻害です」


 ルシアンは、図面の一角を指した。


「この場所。図面では壁ですが、魔力が通っています」


「隠し部屋か」


 ヴィクトルが言う。


「可能性があります」


「なら、そこへ相手がいる」


「または、見せたいものだけ置いているか」


 クラリスは、招待状を机へ置いた。


『今夜、地下第七導管室へ。


帝国皇女の無実を証明したければ、一人で来い。


帳簿の足りない頁を渡す。』


「文章に違和感があります」


「今度は何だ」


 アレクシアが尋ねる。


「皇女殿下の無実を証明したければ、とあります」


「私の無実を証明するために、お前を呼んだのだろう」


「それなら、帳簿の頁は皇女殿下へ渡す方が早い」


 室内が静かになる。


「相手の目的は」


 ルシアンが聞く。


「頁を渡すことではありません」


 クラリスは言った。


「私に、皇女殿下の無実を証明させることです」


「同じでは?」


「違います」


 クラリスは黒陽宮の帳簿を開いた。


「皇女殿下の偽造印章が押された支出記録があります。ここへ足りない頁を加えれば、帳簿として一つの物語が完成します」


「どんな物語だ」


 アレクシアの声が低くなる。


「現時点では分かりません。ですが、黒陽宮は私が帳簿を読むことを知っている」


「王宮を精算した悪女だからですね」


 ルシアンが言う。


「はい」


「つまり、クラリス様の判断を利用して、何かを事実として認めさせたい」


「その可能性があります」


 ヴィクトルが腕を組む。


「罠は、殺すためではないのか」


「殺すだけなら、招待状は要りません」


「では何だ」


「署名です」


 アレクシアの黄金の目が細くなる。


「お前に、偽の結論へ署名させるつもりか」


「または、署名したように見せる」


 クラリスは、招待状の紙を光へ透かした。


「相手は証拠を操ります。皇女殿下の印章を偽造し、支出記録を作り、親善祭の帳簿へ紛れ込ませた」


「次は、お前の筆跡か」


「私の確認印があれば、王国側の調査官が皇女殿下の関与を認めたことになります」


「王国と帝国を揉めさせる気か」


 ヴィクトルの声が冷えた。


「その可能性が高いです」


 アレクシアが長槍を取った。


「やはり、全員で叩き潰す」


「潰しません」


「言葉だ!」


「言葉でも、ほどほどに」


 セバスは皆の会話を聞きながら、黒い外套を一枚ずつ机へ置いていた。


「お嬢様」


「何かしら」


「ご準備が整いました」


 用意されたのは、侍女でも貴族でもない、地下整備員の服だった。


 灰色の上着。


 革手袋。


 深く被る帽子。


「こちらを着るのですか」


「目立たない服装でございます」


「皇女殿下の分は」


「ございません」


「なぜだ!」


 アレクシアが声を上げた。


「どのような服をお召しになっても、皇女殿下は皇女殿下に見えますので」


「褒めているのか」


「もちろんでございます」


 セバスは笑顔だった。


 クラリスは灰色の上着へ袖を通す。


 黒檀の杖は、整備用の長い工具袋へ隠した。


 髪も布で覆う。


「ヨルは」


 ルシアンが尋ねる。


 ヨルは扉の前に座り、当然のように同行する顔をしている。


「待機です」


 ヨルの耳が下がった。


「地下には瘴気があります」


「でも、ヨルなら匂いを追えます」


「だからこそです。先日の戦闘から、まだ完全には回復していません」


 ヨルは小さく鼻を鳴らした。


 そのままクラリスの裾を前足で押さえる。


「同行許可を求めても、判断は変わりません」


 ヨルは裾を離さない。


「ヨル」


 離さない。


「……地下入口までです」


 ヨルの耳が立った。


 セバスが帳面を開く。


「ヨル様、交渉により同行範囲を獲得」


「交渉ではありません」


「結果としては」


「記録しないでください」


「すでに」


 地下への階段は、中央競技場の北側にあった。


 昼間は観客の歓声と音楽に包まれていた建物も、夜は別の顔を見せる。


 石壁に残る灯り。


 水滴の音。


 足元を走る細い魔力導管。


 クラリス、セバス、ルシアンの三人が先行する。


 ヴィクトルは東側の排水経路。


 アレクシアは親衛隊と共に中央通路の一つ上で待機。


 地下第七導管室から異常な魔力が立ち上がれば、すぐに踏み込む手筈だった。


「姉様」


 ルシアンが小さく呼んだ。


「公務中です」


「今は、地下整備員ですよ」


「なおさら呼称にご注意ください」


「では、クラリス様」


「何でしょう」


「僕は一人に数えられますか」


「数えられます」


「招待状には、一人で来いと」


「相手の希望です」


「契約ではない?」


「はい」


「やっぱり来てよかったです」


 声が少し弾んでいる。


 ルシアンは危険な場所でも、クラリスのそばにいることが嬉しいらしい。


 その気持ち自体を否定する必要はない。


 だが、足元への注意は必要である。


「前を見てください」


「はい」


 地下第七導管室の前には、黒い鉄扉があった。


 錠は開いている。


 扉の下から、かすかに紫色の光が漏れていた。


 ヨルが低く唸る。


「ここから先は待機です」


 クラリスはヨルの前へ膝をついた。


「異常を感じたら、アレクシア皇女殿下のところへ戻ってください」


 ヨルはクラリスを見つめる。


「約束を」


 小さな前足が、クラリスの手の甲へ置かれた。


 返事のつもりだろう。


「よろしい」


 クラリスは立ち上がった。


 セバスが鉄扉へ手をかける。


「開けます」


 扉の向こうは、広い円形の部屋だった。


 中央に石の机。


 壁には魔力導管。


 天井からは、黒陽草の乾燥束がいくつも吊られている。


 石机の上に、一枚の紙。


 そして、椅子に座る黒い外套の人物。


 顔には白い仮面。


「よく来た」


 男とも女とも分からない声だった。


「一人ではないようだが」


「一人で来ることに、同意しておりません」


 クラリスが答える。


「招待を理解できなかったか」


「理解した上で、条件を受け入れませんでした」


 白い仮面が、わずかに傾く。


「王宮を黙らせた女は、言葉遊びが好きらしい」


「黙らせたのではありません。読ませました」


「噂通りだ」


「足りない頁を」


 クラリスは手を差し出した。


「先に話を聞こうとは思わないのか」


「頁を渡すと書いてあります」


「帝国皇女の無実に興味はないのか」


「無実かどうかは、証拠を確認して判断します」


 仮面の人物が笑った。


「皇女は無実だ」


「では、なぜ偽造印章を使いましたか」


「帝国を救うためだ」


「説明になっていません」


「アレクシアは強すぎる」


 仮面の人物の声から、笑いが消えた。


「国民に愛され、軍に慕われ、皇帝からも信頼されている。あの女が皇位につけば、帝国は変わる」


「よい方向へ、では?」


「強い皇帝は、古い者を切る」


 壁の魔力導管が低く鳴った。


「商務官。軍需貴族。薬草研究院。国境商人。何代も帝国を支えてきた者たちを、あの女は腐敗と呼んで排除する」


「実際に腐敗しているのでは?」


 ルシアンが言った。


 仮面が少年へ向く。


「天才王子。お前には分からない。国は綺麗な帳簿だけでは動かない」


「汚れた帳簿なら、直せばいい」


「子どもの答えだ」


「子どもを危険物として扱わなかった人から教わりました」


 ルシアンは銀杖を握る。


「失敗は、記録すれば次の手順になるって」


 クラリスは一瞬、彼を見る。


 今は感傷に浸る場面ではない。


 だが、少しだけ胸が温かくなった。


「足りない頁を」


 クラリスはもう一度言った。


「焦るな」


 仮面の人物は石机の紙を指した。


「そこにある」


 クラリスは近づかない。


「セバス」


「はい」


 セバスが細い金属棒を取り出した。


 離れた位置から紙の端を引っかけ、ゆっくり手元へ寄せる。


「用心深いな」


「昔からでございます」


 セバスが紙を裏返す。


 魔術印なし。


 針なし。


 毒粉なし。


「安全でございます」


 クラリスは手袋をつけ、紙を受け取った。


 帳簿の四十八頁。


 四十七頁に続く皇女府特別支出の内訳。


 黒陽草。


 魔力導管。


 蓄積魔石。


 支払承認者。


 アレクシア・フォン・グランツ。


 その下に、確認者欄がある。


 空欄。


「ここへ署名しろ」


 仮面の人物が言った。


「何のために」


「その頁が、押収帳簿の一部であると認めるためだ」


「認めません」


 即答だった。


「まだ何も確認していない」


「紙質は同じ。通し番号も合う」


「インクの年代、筆跡、断面、頁を切り離した時期を確認していません」


「この場で確認しろ」


「設備が足りません」


「署名すれば、皇女の罪は帳簿に残る」


 クラリスは紙を見た。


「先ほど、皇女殿下は無実だと」


「皇女は無実だ。だが、帳簿の上では犯人になる」


「それが目的ですね」


 仮面の人物は答えない。


「皇女殿下を失脚させる。王国の調査官である私に、証拠として認めさせる。王国側が帝国皇女の関与を指摘した形にする」


 クラリスは紙を石机へ戻した。


「そして、両国の友好を壊す」


「友好など、紙一枚で破れる」


「紙一枚だからこそ、慎重に扱います」


 仮面の人物が立ち上がった。


「署名しろ」


「お断りします」


「ならば、お前の署名はこちらで作る」


 壁の魔力導管が強く光った。


 床へ黒い魔法陣が広がる。


 ルシアンが銀杖を突く。


「認識固定術式!」


「何をする術ですか」


「記憶と筆跡を読み取ります!」


「つまり」


「クラリス様の署名を複製する気です!」


 魔法陣から黒い鎖が伸びた。


 クラリスの腕へ。


 その前に、セバスが入る。


 銀の短杖が鎖を弾いた。


 黒い光が散る。


 仮面の人物が、初めて明確に息を呑んだ。


「その構え」


 セバスの表情から、微笑みが消えていた。


「まだ生きていたのか」


 地下室の空気が変わる。


「《夜帳》の」


 仮面の人物が言った。


「帳消しのセバス」


 ルシアンがセバスを見る。


 クラリスも。


 セバスは、ほんの少し首を傾けた。


「懐かしい呼び名でございます」


「王国暗部の後始末役が、なぜ悪女の執事をしている」


「退職いたしましたので」


「人を何人消した」


「数えておりません」


 セバスは静かに短杖を構える。


「当時の仕事は、記録を消すことでございました」


 白い手袋の下。


 古傷のある手。


「ですが現在は」


 彼はクラリスの前へ立った。


「お嬢様の記録を、誰にも消させない仕事をしております」


 仮面の人物が手を上げる。


 天井の黒陽草が一斉に破裂した。


 瘴気が降る。


「ルシアン殿下!」


「結界を!」


「はい!」


 青白い魔法陣が広がり、瘴気を押し返す。


 だが、量が多い。


 ルシアンの腕が震える。


「姉様、長くは!」


「公務中です」


「今それを言いますか!」


 鉄扉の外で、ヨルが吠えた。


 約束を破り、部屋へ飛び込んでくる。


「ヨル!」


 黒い子犬の背後に、巨大な影狼が現れた。


 瘴気へ噛みつく。


 黒紫の煙が一気に薄くなる。


「待機指示は!」


 ヨルは聞こえないふりをした。


「あとで記録します!」


 クラリスは工具袋から黒檀の杖を抜いた。


 仮面の人物が短剣を投げる。


 杖で逸らす。


 もう一本。


 セバスが受ける。


 魔法陣の中心へ、クラリスが踏み込んだ。


 術式を壊すなら、中心ではない。


 力が集まる前。


 複数の導線が交わる結び目。


 帳簿と同じ。


「ルシアン殿下、右から三本目の導管を凍結!」


「はい!」


「ヨル、左側の瘴気だけを!」


 ヨルが吠える。


「セバス、正面をお願いします!」


「お任せください」


 仮面の人物が後退する。


 その背後。


 図面では壁だった場所が、黒く揺れていた。


 隠し通路。


「逃げます!」


 ルシアンが叫ぶ。


 だが、通路の向こうから声が響いた。


「逃がさん」


 アレクシアの声。


 次の瞬間。


 隠し壁が、外側から吹き飛んだ。


 石片が地下室へ散る。


 深紅の長槍を持った皇女が、煙の中から現れた。


 後ろにはヴィクトルと帝国兵。


「皇女殿下」


 クラリスが言った。


「壁は証拠の一部です」


「壊すなとは聞いていない!」


「地下施設を壊さないようにと」


「入口だけだ!」


「後ほど修繕費を計上します」


「今する話か!」


 仮面の人物が別の通路へ走ろうとする。


 ヴィクトルがその先を塞ぐ。


「残念だったな」


 剣を抜く。


「逃げ道は兵を置く場所でもある」


 仮面の人物が止まった。


 前にはセバス。


 右にクラリス。


 左にルシアンとヨル。


 後ろにはアレクシアとヴィクトル。


「終わりだ」


 アレクシアが長槍を向ける。


 仮面の人物は、ゆっくり笑った。


「終わり?」


 白い仮面の奥。


 目だけが細くなる。


「黒陽宮には、皇女府にも」


 床の魔法陣が、再び光った。


「王宮にも」


 帝国皇城の方角を示す紋章。


 その隣に、王国王家の紋章。


「すでに根がある」


 仮面の人物が自分の胸へ手を置いた。


 セバスの顔が変わる。


「自壊術式です!」


 クラリスは叫んだ。


「生かして確保を!」


「分かっている!」


 アレクシアが槍を投げた。


 仮面の人物の胸ではなく。


 足元の魔法陣へ。


 深紅の穂先が床を貫く。


 魔力の流れが止まる。


 同時にルシアンの氷が胸元の術式を封じた。


 ヴィクトルが腕を取り。


 セバスが首筋へ短杖を当てる。


 仮面の人物の体から、力が抜けた。


 倒れる前に、帝国兵が受け止める。


「生きているか」


 アレクシアが尋ねる。


 セバスが脈を確認する。


「はい」


「よし」


 クラリスは石机へ向かった。


 足りない頁。


 そして、仮面の人物が持っていた小さな革袋。


 中には、複数の偽造印章。


 アレクシア皇女。


 帝国商務庁。


 王宮薬草局。


 王妃慈善委員会。


 さらに。


 クラリス・フォン・アルベルティーナ。


 まだ作りかけの確認印。


「私の印まで」


「今夜、完成させる予定だったのでしょう」


 クラリスは偽造印章を布へ包む。


「押収時刻を」


 アレクシアが呆れた顔をする。


「今すぐか」


「今すぐです」


 ルシアンが懐中時計を見る。


「午後十時十八分」


「押収場所」


「地下第七導管室、認識阻害壁奥の隠し区画」


「押収者」


 全員が一瞬、顔を見合わせた。


「共同でよいのでは?」


 ルシアンが言う。


「押収に直接関与した者を」


 アレクシアが槍を抜きながら言った。


「私だ」


「触れる前に、セバスが袋を確認しました」


「ではセバスだ」


「私は皇女殿下の指示に従った形でございます」


「なら私でよいだろう!」


「ヴィクトル様が先に逃走路を封鎖しています」


「面倒だな!」


 クラリスは羽根ペンを取った。


「共同押収。立会人全員を記録します」


「最初からそうしろ!」


「確認が必要でした」


 アレクシアは、深く息を吐いた。


 それから、石机の上にある足りない頁を見た。


「これで、私の無実は証明できるか」


「いいえ」


 クラリスは答えた。


「まだなのか」


「この頁が本物か確認していません」


「だが、偽造印章が」


「偽造印章の存在は、皇女殿下の印を偽造できたことを示します。実際にどの記録へ使われたかは、個別に照合が必要です」


「では」


「無実を証明するのではなく、事実を確認します」


 アレクシアは少し黙った。


 やがて、短く笑った。


「やはり、お前は正確すぎる」


「ありがとうございます」


「褒めている」


「承知しています」


 地下室の隅で、ヨルが大きなくしゃみをした。


 瘴気を喰いすぎたらしい。


 クラリスはすぐにヨルを抱き上げる。


「薬湯です」


 ヨルの耳が下がる。


「待機指示違反も記録します」


 さらに下がる。


「ただし」


 クラリスは黒い頭を一度撫でた。


「救援功績あり」


 ヨルの尻尾が、腕の中で小さく動いた。


 セバスが帳面へ記す。


 ヨル様。


 待機指示違反。


 ただし、救援功績あり。


 処遇。


 薬湯。


「それは処遇なのですか」


 ルシアンが尋ねる。


「治療です」


「ヨルは納得していません」


「記録と本人の納得は別です」


 アレクシアが大きく笑った。


 その声が、暗い地下室へ響いた。


 罠は失敗した。


 足りない頁は回収した。


 偽造印章も押収した。


 黒陽宮の構成員を一人、生きたまま確保した。


 だが。


 最後に残した言葉がある。


 皇女府にも。


 王宮にも。


 すでに根がある。


 クラリスは、押収品の一覧を作りながら考える。


 根は、見えない場所で伸びる。


 だから、地上だけを見ても分からない。


 水路も。


 薬草も。


 帳簿も。


 人の欲も。


 帝国の地下で見つかった根は、国境の向こうへ続いている。


 次に開くべき帳簿は。


 帝国皇女のものだけではない。


 王国の王宮にも、まだ閉じたままの帳簿がある。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ