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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第三章 悪女令嬢は、帝国の帳簿を読む
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第27話 悪女令嬢は、競技規則を全部読む

 規則は、戦う前に読む。


 当たり前のことである。


 だが世の中には、勝てばよいと思っている人間が少なくない。


 特に、強い人間ほど。


「まだ読んでいるのか」


 翌朝。


 帝国中央競技場の控室で、アレクシア皇女は呆れたように言った。


 クラリスの前には、親善競技規則書が広げられている。


 全六十八頁。


 武器の長さ。


 使用可能な防具。


 有効打の判定。


 場外規定。


 魔力補助の制限。


 競技続行不能の定義。


 医療班の介入条件。


 異議申立ての期限。


 審判の利益相反に関する規定。


 すべて確認した。


「あと二頁です」


「私を待たせている自覚はあるか」


「皇女殿下も規則を確認なされば、待ち時間ではなく準備時間になります」


 アレクシアのこめかみが、わずかに動いた。


 ルシアンは控室の隅で口元を押さえている。


 ヴィクトルは腕を組み、もはや止める気はないらしい。


 セバスは紅茶を用意しながら、規則書の付箋を眺めていた。


「お嬢様」


「何かしら」


「第五十四条に三枚、第六十一条に二枚、付箋がございます」


「ええ」


「不備が?」


「解釈に幅があります」


 アレクシアが机へ片手をついた。


「どこだ」


「第五十四条。『過度な身体強化魔術を禁ずる』」


「当然だろう」


「過度、の基準がありません」


「常識で判断する」


「常識は証拠になりません」


「競技だぞ!」


「だからです」


 クラリスは規則書を指した。


「勝敗がつく場では、曖昧な規則ほど後で揉めます」


「お前は戦う前から異議申立てを考えているのか」


「必要にならないよう、先に確認しています」


 アレクシアは、しばらくクラリスを睨んでいた。


 やがて、控室の扉へ向かって叫ぶ。


「競技委員長を呼べ!」


「今からですか、殿下」


「今だからだ! 過度の基準を数値で決めろ!」


 廊下が慌ただしくなる。


 ヴィクトルが低く笑った。


「帝国の規則が一つ良くなったな」


「まだ改定ではありません」


「提案中か」


「はい」


 アレクシアは長槍を手にした。


 深紅の穂先。


 帝国皇族に伝わる儀礼槍だが、刃には競技用の封印布が巻かれている。


 クラリスも黒檀の杖を取り上げた。


 こちらも先端を革で覆い、殺傷力を抑えてある。


「では」


 アレクシアが言う。


「規則に問題がなければ、戦うのだな」


「第五十四条の解釈が明文化されれば」


「面倒だな!」


「よく言われます」


 ルシアンがクラリスのそばへ来た。


「本当に出るのですか」


「登録済みです」


「皇女殿下は、剣術大会五年連続優勝ですよ」


「今回は槍術です」


「槍でも四年です」


「そうですか」


「怖くないのですか」


 クラリスは競技場へ続く扉を見た。


 向こうから、観衆の声が聞こえる。


「怖いです」


 ルシアンは少し驚いた顔をした。


「ですが、怖いことと、確認することは別です」


 昔と同じ言葉だった。


 ルシアンの表情が、わずかに柔らかくなる。


「なら、記録します」


「お願いします」


「姉様の勝利を」


「公務中です」


「クラリス様の勝利を」


「まだ勝敗は決まっていません」


「そこは否定するんですね」


 競技場へ出ると、歓声が大きくなった。


 帝国最強の皇女。


 王国から来た悪女令嬢。


 その組み合わせだけで、観客は十分に盛り上がっている。


 帝国側の観衆は、ほとんどがアレクシアを応援していた。


 当然である。


 王国側の席では、ルシアンが銀杖を掲げている。


 ヴィクトルは静かに立ち、ヨルはその足元に座っていた。


 セバスは観客席ではなく、競技場の出入口を見ている。


 クラリスは、それに気づいた。


 セバスの視線は、人の流れを追っている。


 消えた帳簿。


 競技場に集まる商務官、研究者、貴族、軍人。


 親善祭は、競技の場であると同時に、関係者が一か所へ集まる機会でもある。


 監査は、すでに始まっていた。


「両者、中央へ!」


 審判の声。


 アレクシアとクラリスが向かい合う。


「競技形式、三本勝負。先に二本を得た者の勝利」


 審判が説明する。


「有効打は、胴、肩、手首、脚部。頭部への打撃は禁止。魔術使用は身体強化および武器強化の第一階梯まで」


 アレクシアがクラリスを見る。


「明文化されたぞ」


「確認しました」


「ならば、もう逃げるな」


「逃げておりません」


 開始の鐘が鳴った。


 アレクシアが正面から来た。


 速い。


 深紅の槍が一直線に伸びる。


 クラリスは受けなかった。


 杖を斜めに当て、穂先の進行方向を少しだけずらす。


 槍が肩の横を抜ける。


 観客席がどよめく。


 アレクシアはそのまま槍を返した。


 横薙ぎ。


 クラリスは身を低くする。


 髪の上を風が走る。


 もう一度、突き。


 今度は脚。


 クラリスは杖先を地面へ置き、軸にして半歩だけ位置を変えた。


 槍が空を切る。


「避けてばかりか!」


「まだ見ています」


「何を!」


「あなたの間合いを」


 アレクシアの口元が上がる。


「ならば、見終わる前に終わらせる!」


 踏み込みが深くなる。


 槍の速度が上がった。


 正面。


 右。


 左。


 上段。


 連続する攻撃。


 クラリスは受け流す。


 杖術《流水》。


 相手の力を止めない。


 流す。


 槍の先が、何度もクラリスの衣服をかすめる。


 あと半歩。


 あと指一本。


 それでも当たらない。


 アレクシアの表情から、笑みが消えた。


 戦士の顔になる。


 槍を短く持ち替え、クラリスの杖を絡め取ろうとする。


 クラリスは、その瞬間を待っていた。


 槍が杖へ触れた。


 力がかかる。


 クラリスは逆らわない。


 むしろ引く。


 アレクシアの体が、ほんの少し前へ流れる。


 その手首へ、クラリスの杖先が触れた。


「有効!」


 審判の旗が上がる。


 観客席が静まった。


 第一本。


 クラリス。


 アレクシアは、自分の手首を見た。


 信じられないという顔ではない。


 嬉しそうだった。


「今のは」


「規則上、有効打です」


「分かっている」


 アレクシアは槍を構え直す。


「もう一度だ」


 第二本。


 今度のアレクシアは、最初から全力だった。


 身体強化、第一階梯。


 足元に金色の魔力が走る。


 踏み込みで土が鳴る。


 クラリスは杖で流そうとした。


 だが、重い。


 技術だけでは流し切れない力。


 杖が弾かれ、穂先がクラリスの胴へ触れた。


「有効!」


 アレクシア。


 一本ずつ。


 観衆が爆発したように沸く。


「正面から来ると言っただろう」


 アレクシアが笑う。


「確認しました」


「感想は」


「非常に重いです」


「それだけか!」


「速くもあります」


「褒め方まで帳簿のようだな!」


 三本目。


 両者が構える。


 クラリスは呼吸を整えた。


 正面から力で勝つのは無理。


 アレクシアは速く、重く、経験もある。


 ならば、勝つ場所を変える。


 競技場の土。


 太陽の角度。


 槍の長さ。


 アレクシアの利き手。


 第一本、第二本で見た動き。


 すべてを一つの流れとして読む。


 開始の鐘。


 アレクシアが踏み込む。


 クラリスは、今度は前へ出た。


 観客が息を呑む。


 槍の間合いの内側へ。


 最も危険な場所。


 そして、長槍が最も扱いにくい場所。


「何っ!」


 アレクシアが槍を引こうとする。


 クラリスは杖で石突きを押さえた。


 足を払う。


 だが、アレクシアは倒れない。


 片脚で耐え、そのまま肘を返す。


 槍の柄がクラリスの肩へ向かう。


 クラリスは杖を立てる。


 柄と杖がぶつかる。


 二人の動きが止まった。


 杖先はアレクシアの胴。


 槍の柄はクラリスの肩。


 ほぼ同時。


 審判が迷う。


 会場が静まり返る。


 その時だった。


 ヨルが、観客席の外側へ向かって低く唸った。


 クラリスは目だけを動かす。


 黒い外套の男が、競技場の通路を急いでいる。


 手には、細長い革包み。


 本を隠すには、ちょうどよい大きさ。


 セバスも見ていた。


 銀盆を持っていないセバスは、静かに観客席を離れる。


「判定は」


 審判が言いかける。


「引き分けで構いません」


 クラリスが答えた。


 会場がざわめく。


 アレクシアの眉が上がる。


「勝敗を捨てるのか」


「別の案件が動きました」


 クラリスは黒い外套の男を見た。


 アレクシアも視線を追う。


 理解が早い。


「帳簿か」


「可能性があります」


「競技は」


「後日、再試合を」


 アレクシアは一瞬、呆れた顔をした。


 そして、槍を地面へ突き立てる。


「帝国親衛隊!」


 声が競技場に響いた。


「西通路を閉鎖! 黒い外套、革包みを持った男を止めろ!」


 観客席が騒然となる。


 男が走り出す。


 だが、その先にはすでにセバスがいた。


 いつ移動したのか。


 誰も気づかなかった。


「お急ぎのところ、恐れ入ります」


 セバスは穏やかに一礼した。


「お荷物を確認させていただけますか」


 男は懐へ手を入れた。


 刃が光る。


 次の瞬間。


 刃は床へ落ちていた。


 セバスは男の手首を取り、音もなく背後へ回っている。


「武器申告がございませんな」


 男が膝をつく。


 親衛隊が駆けつけた。


 革包みが開かれる。


 中から出てきたのは、一冊の帳簿。


 黒い革表紙。


 帝国商務庁の保管印。


 そして、《黒陽宮》の小さな紋章。


 競技場の歓声が、別のざわめきへ変わった。


 アレクシアはクラリスを見る。


「お前は、競技中まで人を見ているのか」


「ヨルが見つけました」


 ヨルは誇らしげに尻尾を振った。


「では、神獣の勝利か」


「現在は暫定希少魔獣です」


「まだそこにこだわるのか!」


 審判が、おそるおそる二人へ近づく。


「あの……勝敗の判定は」


 アレクシアはクラリスを見た。


 クラリスも彼女を見る。


「引き分けだ」


 アレクシアが言った。


「よろしいのですか」


「今日はな」


 皇女は深紅の槍を肩へ担ぐ。


「だが、次は最後まで戦う」


「規則改定後に」


「まだ読むのか!」


「改定されたなら、読み直します」


 アレクシアは空を仰いだ。


 それから、大きく笑った。


「いいだろう、悪女!」


「次は帳簿も盗人も先に片づけておけ!」


「可能な限り」


「断言しろ!」


「不測の事態はございます」


「本当に面倒だな!」


 帝国皇女と悪女令嬢の初勝負は、引き分けに終わった。


 だが、誰も不満そうではなかった。


 観衆は二人の名を叫び、兵士は盗まれた帳簿を守り、ヨルは褒められるのを待っている。


 そしてセバスは、拘束した男の襟元を見ていた。


 そこには、黒い太陽を半分だけ描いた刺青があった。


「お嬢様」


「何かしら」


「帳簿は戻りましたが」


 セバスの声から、わずかに温度が消えた。


「黒陽宮は、すでに我々の顔を知っております」


 クラリスは、黒い帳簿を見た。


「こちらも、相手の帳簿を知りました」


 戦う前に、規則を読む。


 敵を追う前に、記録を読む。


 帝国での最初の一日は、まだ昼にもなっていなかった。


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