第26話 帝国皇女は、正面から来る
国境には、線が引かれている。
地図の上では一本。
だが、実際に越えてみると、国境は書類の束でできていた。
身分証明書。
滞在目的申告書。
持込品一覧。
武器申告書。
魔術具登録書。
同行獣検疫票。
クラリスは最後の一枚を前にして、羽根ペンを止めた。
帝国西門の入国審査所。
石造りの窓口の向こうで、帝国役人が緊張した顔をしている。
「同行獣のお名前を」
「ヨルです」
「種別をお願いいたします」
「未確定です」
役人の手が止まった。
「未確定?」
「黒曜餓狼の幼体である可能性があります」
役人は、窓口の下に座るヨルを見た。
黒い子犬。
首元には紫の石がついた簡素な首飾り。
ヨルは役人を見上げ、小さく首を傾げた。
「こちらが……黒曜餓狼?」
「可能性です」
「危険性は」
「現在、確認中です」
「瘴気を喰らうという伝承上の神獣では?」
「その可能性があります」
「危険性は」
「ですから、確認中です」
役人は困り果てた。
セバスが横から穏やかに言う。
「噛み癖はございません。焼き菓子を無断で一枚食した記録はございますが」
「その情報は必要ありません」
「検疫官のご安心になるかと」
役人は、もう一度ヨルを見た。
ヨルはおとなしく座っている。
少なくとも、今は。
「暫定的に、希少魔獣として登録いたします」
「神獣ではなく?」
「神獣と登録するには、帝国神獣庁の確認が必要です」
「神獣庁」
クラリスは、その名称を書き留めた。
帝国には、神獣を担当する役所があるらしい。
王国にはない。
「お嬢様」
セバスが言う。
「視察先が一つ増えましたな」
「観光に来たのではありません」
「視察も公務でございます」
ヨルの検疫票には、こう記された。
名前、ヨル。
種別、暫定希少魔獣。
性質、温厚。
特記事項、瘴気反応あり。
クラリスは、その下へ追記した。
ただし、安静指示違反歴あり。
「そこまで書くのですか」
ルシアンが横から覗き込む。
「事実です」
「ヨルが嫌そうな顔をしています」
「記録は、本人の好みで変えません」
ヨルは小さく鼻を鳴らした。
続いて、武器申告書。
ヴィクトルは長剣。
ルシアンは銀杖と補助魔石。
セバスは銀の短杖。
クラリスは黒檀の杖。
帝国役人が尋ねた。
「こちらは儀礼用ですか」
「儀礼にも使用します」
「武器としては」
「使用できます」
「どの程度」
クラリスは少し考えた。
「魔物の突進を逸らし、成人男性の足を払い、状況によっては関節を制圧できる程度です」
役人は申告欄へ、大きく印をつけた。
実戦武器。
「正確に申告しただけなのですが」
「正確すぎたな」
ヴィクトルが言った。
「あなたの剣も実戦武器でしょう」
「俺は見れば分かる」
たしかに、クラリスの杖は見ただけでは武器に見えない。
それが長所でもあり、少し怖いところでもある。
審査を終えると、帝国側の案内官が一行を迎えた。
親善交流祭。
正式名称は、
『レーヴェン王国・グランツ帝国文化学術魔術競技交流会』
長い。
略称は親善祭。
三日間にわたり、武術競技、騎馬競技、魔術演武、薬草学会、商業研究会、音楽や料理の文化展示が行われる。
表向きは、両国友好の祭典。
だが今回の王国一行には、別の目的がある。
ローゼン商会。
黒陽宮。
帝国資金。
瘴気を蓄積する薬草。
魔物誘導術式。
それらを帝国側の記録と照合する。
とはいえ、帝国に入った初日から「帳簿を見せてください」と言うわけにはいかない。
国同士の交渉には順序がある。
歓迎。
挨拶。
晩餐。
競技。
ようやく会談。
クラリスとしては、帳簿を先に読みたかった。
「顔に出ていますよ、姉様」
馬車の中でルシアンが言った。
「何がでしょう」
「晩餐より帳簿が読みたい、と」
「公務中です」
「クラリス様」
言い直したルシアンは笑っている。
「帳簿は逃げないと思います」
「改ざんされることはあります」
「……たしかに」
「遅れるほど、逃げます」
帝国の街は、王国より石が多かった。
大通りは広く、建物は高い。
黒い鉄柱に、金色の双頭鷲。
街角には皇帝と皇女の紋章旗。
軍人も多い。
だが、張り詰めてはいなかった。
子どもたちが旗を振り、商人が屋台を出し、市民が競技場へ向かっている。
皇女アレクシアの肖像を描いた小旗まで売られていた。
「人気がありますね」
クラリスが言う。
「皇女殿下は帝国民の英雄です」
案内官が少し誇らしげに答えた。
「北方魔獣災害では自ら前線へ。東部洪水では堤防工事を指揮されました。魔術学院の首席で、剣術大会は五年連続優勝」
「政治は?」
「税制改革委員会の副議長です」
クラリスは黙った。
「全部、と言ったでしょう」
ルシアンが小声で言う。
「少し盛っているのかと思いました」
「僕は正確です」
「その言葉は、扱いに注意してください」
親善祭の開会式は、帝国中央競技場で行われた。
王国の円形闘技場よりも大きい。
石造りの観客席を、数万人の観衆が埋めている。
両国の旗。
軍楽隊。
魔術師による光の演出。
祝辞が続いたあと、帝国側代表の名が読み上げられた。
「帝国第一皇女、アレクシア・フォン・グランツ殿下!」
歓声が、地面を揺らした。
アレクシアは黒と金の軍装で競技場へ入ってきた。
長い黒髪。
黄金の瞳。
腰には魔術剣。
手には深紅の長槍。
歩いているだけで、視線が集まる。
美しいからだけではない。
強い者が持つ、迷いのなさがあった。
開会式の余興として、帝国親衛隊長との槍術演武が始まる。
余興。
そう説明された。
だが、槍がぶつかった瞬間、その言葉が嘘だと分かった。
鋼の音が競技場に響く。
親衛隊長が踏み込む。
アレクシアは避けない。
正面から受ける。
槍を滑らせ、軸をずらし、相手の勢いをそのまま地面へ叩き落とした。
親衛隊長の槍が宙を舞う。
アレクシアの穂先が、彼の喉元で止まる。
わずか三合。
観客席が沸いた。
「強いですね」
クラリスが言った。
「怖くなりましたか」
ルシアンが聞く。
「いいえ」
「では」
「杖で正面から受ける相手ではありません」
冷静な分析だった。
ヴィクトルが笑う。
「もう戦う想定なのか」
「交流競技には杖術演武があります」
「相手は皇女だぞ」
「だから確認しています」
演武を終えたアレクシアは、観客席へ槍を掲げた。
歓声がさらに大きくなる。
その顔に驕りはなかった。
国民の歓声を当然のように受けるのではない。
一人ひとりへ応えるように、ゆっくり会場を見渡している。
信頼されている。
そして彼女も、国民を見ている。
クラリスは、そこを見逃さなかった。
開会式が終わると、両国代表は競技場奥の迎賓室へ案内された。
扉が開く。
アレクシアは、もう中にいた。
儀礼の長槍を壁へ立て、テーブルの上の報告書を読んでいる。
挨拶より先に、書類。
少し好感が持てた。
「王国代表、ルシアン・レーヴェン王子殿下」
案内官が告げる。
「ヴィクトル・グランベル辺境伯」
「そして、クラリス・フォン・アルベルティーナ公爵令嬢」
アレクシアが顔を上げた。
黄金の目が、クラリスを捉える。
「お前が」
第一声だった。
「王宮を帳簿で黙らせた悪女か」
クラリスは一礼した。
「黙らせたのではありません」
「ほう」
「読ませました」
一瞬の沈黙。
アレクシアが笑った。
薄い微笑みではない。
楽しそうに。
「報告通りだ」
「どのような報告でしょう」
「言葉を曲げない。相手の肩書を怖がらない。そして、やたらと紙を残す」
「最後は事実です」
「最初の二つも認めろ」
アレクシアはルシアンとヴィクトルにも挨拶をした。
王族としての礼は完璧だった。
だが、形式的な言葉を終えると、すぐテーブルの報告書を叩いた。
「先に言っておく」
声音が変わる。
「グランベル領で起きたことを、帝国政府の正式な作戦として認めるつもりはない」
ヴィクトルの目が鋭くなる。
「帝国は関与していないと?」
「帝国の人間は関与している」
アレクシアは言い切った。
「帝国通貨。帝国式魔術。帝国商務庁の外郭印。否定する方が恥だ」
クラリスは彼女を見る。
隠すつもりはないらしい。
「ですが、皇帝陛下の命令ではない」
「断定できますか」
「皇帝は、国を弱らせてから奪う策を好まん」
「好みの問題ではありません」
「分かっている」
アレクシアの黄金の目が細くなる。
「だから調べる」
「すでに帝国内の商務官二名を拘束した。薬草研究所を三か所封鎖した。黒陽宮に関する古い記録も洗わせている」
「迅速ですね」
「帝国の名を使って卑怯な真似をした」
アレクシアの拳が、テーブルの上で握られる。
「敵国の民を水から遠ざけ、農地を痩せさせ、魔物を呼び寄せる。そんなものは戦ではない」
声には、明確な怒りがあった。
「正面から戦って勝てぬなら、鍛え直せばいい」
「国民を巻き込むのは、外道の所業だ」
ヴィクトルが静かに言う。
「その言葉は信じたい」
「信じろとは言わん」
アレクシアは返した。
「見ろ」
「何を」
「私がどう処理するかをだ」
クラリスは、その言葉を受け止める。
アレクシアは正面から来る。
言葉も。
槍も。
責任も。
「一つ、お願いがあります」
クラリスが言った。
「何だ」
「処理の前に、証拠を保全してください」
アレクシアの眉が動く。
「当然だ」
「先ほど、商務官を拘束したと」
「ああ」
「執務室、私室、研究室、通信記録は封鎖しましたか」
「した」
「帳簿の原本と写しは別々に保管を?」
「命じた」
「担当者以外の出入りの記録は」
「残している」
「押収時刻は」
アレクシアは一瞬、黙った。
側近を見る。
「記録しているな」
側近の男が緊張した顔で答える。
「は、はい。分単位で」
「ならいい」
クラリスが言った。
アレクシアは、まじまじとクラリスを見た。
「お前は、私を疑っているのか」
「疑うことと、確認することは別です」
アレクシアが、また笑った。
「面白い」
「よく言われます」
「では私からも一つ確認する」
皇女は壁の長槍を手に取った。
「お前のその杖」
クラリスの黒檀の杖を見る。
「飾りではないそうだな」
「はい」
「明日の杖術・槍術交流競技」
槍の石突きが、床を軽く叩く。
「私と戦え」
ルシアンが声を上げた。
「皇女殿下!」
「殺し合いではない」
「そういう問題ではありません!」
アレクシアはクラリスから目を逸らさない。
「帝国では、人を知りたければ、正面から刃を交える」
「王国では、まず経歴と契約を確認します」
「ならば確認したあとに戦え」
「競技規則を拝見してから回答します」
アレクシアの顔から、初めて笑みが消えた。
「今、答えないのか」
「規則を読まずに契約はしません」
ヴィクトルが横を向いた。
笑いを隠している。
セバスは平然としているが、口元が少し上がっていた。
アレクシアは数秒、クラリスを見つめた。
やがて、大きく笑った。
「いいだろう!」
迎賓室の外まで響く声だった。
「規則を全部読め!」
「その上で、私の前へ来い!」
「不備がなければ」
「不備を探すな!」
「確認はします」
「本当に面倒な女だな!」
「よく言われます」
アレクシアは長槍を肩へ担いだ。
黄金の目が楽しそうに輝いている。
敵意ではない。
競争心。
自分とは違う強さを見つけた者の顔。
クラリスもまた、皇女を観察していた。
力を持っている。
自信もある。
だが、責任から逃げない。
少なくとも今のところは。
ならば、話はできる。
そして、おそらく戦うこともできる。
「それから」
アレクシアの声音が、再び低くなる。
「今朝、封鎖した帝国商務庁の資料室から、一冊の帳簿が消えた」
室内の空気が変わった。
「いつですか」
クラリスが聞く。
「王国一行が国境を越える、半刻前だ」
「内容は」
「黒陽宮への資金の流れ」
アレクシアは言った。
「帝国内にも、こちらの動きを知る者がいる」
クラリスは、帝国入国時に受け取った書類一式を思い出す。
滞在目的。
同行者。
持込品。
到着時刻。
彼女たちが来ることは、正式な記録に残っている。
「歓迎されていないようですね」
クラリスが言った。
「私は歓迎している」
アレクシアは答えた。
「黒陽宮は違うようだ」
窓の外では、親善祭の音楽が鳴っている。
市民の歓声。
競技者の入場。
色とりどりの旗。
平和の祭典。
その足元で、一冊の帳簿が消えた。
国境を越えた悪女令嬢は、まだ帝国の食事も口にしていない。
それでも、すでに仕事は始まっていた。




