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悪女令嬢は、断罪式のあとで領収書を切る  作者: 海空
第一章 断罪式のあとで、王宮を精算する
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2/20

第1話 悪女ですので、請求書をお持ちしました

 その日、王宮の大広間には、花が多すぎた。


 白百合、薔薇、季節外れの薄桃色の花。

 王太子レオンハルト殿下と、公爵令嬢クラリス・フォン・アルベルティーナの婚約十周年を祝う夜会のために、王国中から集められた花々だった。


 花は美しい。


 だが、多すぎる花は時々、何かを隠すために置かれる。


 クラリスはそう思いながら、銀の杯を持っていた。


 会場の奥には、王族席。

 その周囲には、公爵、侯爵、伯爵、司教、商会長、各国の大使たち。

 楽団は軽やかな曲を奏でているが、会場の空気は少し硬い。


 誰もが何かを待っていた。


 そして、待っている人間ほど、目線が多い。


 クラリスはその視線を、ひとつずつ受け流した。


 黒に近い深紅のドレス。

 首元には公爵家の紋章をかたどった小さな宝石。

 髪は高く結い上げ、耳元には母の形見の真珠。


 笑うには少し冷たく、怒るには少し静かすぎる顔。


 社交界の者たちは、彼女をこう呼ぶ。


 氷の悪女。


 たしかに、クラリスはよく笑う令嬢ではなかった。

 悲鳴を上げる令嬢でも、涙を見せる令嬢でもなかった。


 王太子が他国の使節の名を間違えた夜も。

 侯爵令息が賭博の借金を王宮警備費に紛れ込ませようとした朝も。

 聖女候補のための慈善基金から、なぜか高級菓子の領収書が見つかった午後も。


 クラリスは、泣かなかった。


 ただ、確認した。


 日付。

 金額。

 署名。

 責任者。


 人はそれを冷たいと言う。


 クラリスに言わせれば、冷たいのではない。

 数字は熱を持たないだけだ。


「クラリス」


 背後から声がした。


 王太子レオンハルト殿下だった。


 金の髪。青い瞳。絵画から抜け出したような端正な顔立ち。

 彼が広間に立つだけで、若い令嬢たちは息をのむ。


 見た目だけなら、物語の王子として申し分なかった。


 見た目だけなら。


「殿下」


 クラリスは礼をした。


 深すぎず、浅すぎず。

 王太子の婚約者として、完璧な角度だった。


 レオンハルトはその礼を見て、わずかに眉をひそめた。


 彼は昔から、クラリスの礼儀正しさを嫌った。


 礼儀とは、本来、相手を立てるためのものだ。

 しかし正確すぎる礼儀は、時に相手の粗さを浮かび上がらせる。


 クラリスはそれを知っている。


 だからこそ、崩さなかった。


「今宵、皆の前で話したいことがある」


「承知しております」


 レオンハルトの表情が止まった。


「……知っていたのか」


「存じ上げていることと、存じ上げないことがございます」


「どういう意味だ」


「殿下がお話しになりたいことの大枠は、存じ上げております。ただし、どの程度の言葉をお選びになるかは、まだ存じ上げません」


 クラリスは穏やかに答えた。


 レオンハルトの頬が、少し赤くなる。


 怒りか。

 恥か。

 それとも、図星を刺された者特有の熱か。


 どれでもよかった。


 クラリスは杯を近くの侍女に預けた。


 広間の中央では、楽団の音が止まりかけている。

 王太子が一歩前へ進んだことで、貴族たちも自然と口を閉じた。


 静寂が、床の上に広がっていく。


 断罪式には、音が少ない。


 人を辱める時、人々はなぜか静かになる。

 まるで自分は何もしていないという顔をしながら、耳だけをこちらに向ける。


 レオンハルトは胸を張った。


「皆、聞いてほしい」


 大広間に、彼の声が響いた。


「今宵、私は大切な決断を告げる」


 令嬢たちがざわめく。

 老貴族たちが、互いに目線を交わす。

 王族席の奥で、王妃エレノアが扇を静かに閉じた。


 クラリスは、王妃を見た。


 王妃は、こちらを見ていなかった。


 それで十分だった。


「クラリス・フォン・アルベルティーナ」


 レオンハルトが、名を呼んだ。


「はい」


「私は、君との婚約を破棄する」


 言葉が落ちた。


 広間の空気が、待っていましたとばかりに震えた。


 誰かが小さく息を吸う。

 誰かが扇で口元を隠す。

 誰かが目だけで笑う。


 クラリスは、瞬きひとつしなかった。


 王太子は続けた。


「君は長年、王宮で多くの者を威圧し、私の周囲に近づく者を排除してきた。特に、ここにいるリリア・メルクール嬢に対しては、数々の冷酷な仕打ちを行った」


 その名が出た瞬間、広間の端から一人の少女が進み出た。


 白いドレス。

 淡い金髪。

 潤んだ瞳。


 リリア・メルクール。


 聖女候補として王宮に招かれた、男爵家の令嬢だった。


 彼女はレオンハルトの少し後ろに立ち、怯えたようにクラリスを見る。


 その姿は、よくできていた。


 震える指。

 伏せられたまつ毛。

 声に出さない被害者の形。


 王宮では、涙を流す者よりも、涙を流しそうな者のほうが強い時がある。


 泣いてしまえば、涙は終わる。

 泣きそうで留める者は、周囲に続きを想像させる。


 リリアは、それが上手かった。


「クラリス様……私は、ただ、殿下のお力になりたかっただけなのです」


 広間の空気がリリアへ傾いた。


 可哀想に。

 健気だ。

 あの悪女にいじめられていたのだろう。


 声にはならない同情が、花の香りに混ざる。


 クラリスは、少しだけ首を傾けた。


「そうでしたか」


 リリアの瞳が揺れた。


 クラリスが取り乱すと思っていたのだろう。

 あるいは、反論すると思っていたのかもしれない。


 だが、クラリスは反論しなかった。


 まだ、その段階ではない。


「私は真実の愛を見つけた」


 レオンハルトは、リリアの手を取った。


 広間のどこかで、小さなため息が漏れる。


「身分でも、契約でも、家同士の都合でもない。人が人を想う、純粋な愛だ。クラリス、君のように冷たい女には分からないだろう」


「はい」


 クラリスは頷いた。


 レオンハルトは一瞬、言葉に詰まった。


「……はい?」


「殿下のおっしゃる真実の愛について、私には分かりかねます」


「そ、そうだ。だから私は――」


「ただし」


 クラリスは静かに続けた。


「分かりかねることと、確認しないことは別でございます」


 広間の空気が、ほんの少し変わった。


 レオンハルトは眉を寄せる。


「確認?」


「はい」


 クラリスは、背筋を伸ばした。


「婚約破棄、承りました」


 その声は、広間の隅まで届いた。


「つきましては、婚約破棄に伴う違約金、慰謝料、外交調整費、王宮行事の事前準備費、ならびにこの十年間、私が殿下の婚約者として処理してまいりました各種案件の業務清算について、こちらにご署名をお願いいたします」


 クラリスは、懐から一枚の書類を取り出した。


 美しい羊皮紙だった。


 王国公証人の印。

 アルベルティーナ公爵家の封蝋。

 そして、細かく記された項目。


 広間が、凍った。


 レオンハルトは書類を見たまま、動かなかった。


「……なんだ、これは」


「請求書でございます」


「請求書?」


「はい。殿下が真実の愛を選ばれる自由は尊重いたします。ただし、自由には精算が伴います」


 クラリスは微笑んだ。


「悪女ですので、そのあたりは細かいのです」


 誰かが咳き込んだ。


 リリアの顔から、少し血の気が引いた。


 王太子は書類を受け取らなかった。

 その手が、わずかに震えている。


「ふざけるな。愛を金で量るつもりか」


「いいえ」


 クラリスは即答した。


「愛は量れません。ですので、契約違反分だけを量っております」


 広間の奥で、老貴族の一人が扇を落とした。


 乾いた音が響く。


 レオンハルトは顔を赤くした。


「私は王太子だぞ」


「存じております」


「王太子に請求書を出すつもりか」


「はい」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


「王太子殿下でいらっしゃるからこそ、でございます。国の次代を担う方が契約を軽んじれば、商人は取引を恐れ、貴族は誓約を疑い、民は税を納める意味を失います」


「大げさだ!」


「大げさで済ませてよいかどうかは、会計院が判断いたします」


 その言葉に、王族席の近くにいた若い官僚が肩を震わせた。


 王国会計院のユリウス監査官だった。


 彼はすぐに視線を伏せたが、クラリスは見逃さなかった。


 見ている者は、必ずいる。


 声を上げられないだけで。


「クラリス!」


 レオンハルトが叫んだ。


「君は最後までそうやって、私を縛るのか!」


「いいえ、殿下」


 クラリスは首を横に振った。


「私は、殿下をお縛りしたことなど一度もございません」


「嘘をつけ!」


「縛っていたのではなく、お支えしておりました」


 広間が沈黙した。


「殿下が隣国の王女殿下のお名前を三度お間違えになった時、謝罪文を整えたのは私です。殿下が狩猟会で侯爵家の馬を取り違えた時、損害賠償の話を収めたのも私です。殿下が慈善晩餐会の席で貧民街を『視察に適した情緒ある場所』とおっしゃった時、その翌朝に救貧院への寄付計画を組み直したのも、私です」


「やめろ」


「十年間」


 クラリスは続けた。


「私は、殿下の婚約者でございました」


「やめろと言っている!」


「婚約者とは、飾りではございません」


 クラリスの声は、最後まで荒れなかった。


 それが、かえって広間を黙らせた。


「王太子妃となる予定の者として、殿下のお言葉を補い、殿下の失敗を整え、殿下が次の日も次代の王として立てるよう、陰で処理してまいりました」


 レオンハルトの唇が震えた。


「それを今さら、恩に着せるのか」


「いいえ」


 クラリスは言った。


「精算するだけです」


 リリアが小さく泣き声を漏らした。


「クラリス様、ひどいです……殿下はただ、お心に正直になられただけなのに」


 クラリスは初めて、リリアを正面から見た。


 リリアの涙は美しかった。


 だが、涙は領収書にならない。


「リリア様」


「はい……」


「あなたが殿下のお心を大切になさるのは、ご自由です」


 クラリスは穏やかに言った。


「ですが、心を大切にすることと、他人に後始末を押しつけることは別でございます」


 リリアの肩が震えた。


「私、そんなつもりでは……」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「つもりがない方ほど、後始末を他人に任せます」


 広間の空気が、さらに冷えた。


 レオンハルトがリリアを庇うように前へ出る。


「君は本当に冷酷だな。リリアは傷ついているんだぞ」


「傷ついている方の手には、なぜか他人の予定表が握られていることがございます」


「何を言っている」


「リリア様が殿下のお慰め役として王宮に滞在されるようになってから、私の公務予定は三十二件変更されました。そのうち、当日変更は十一件。先方への謝罪文作成は十四件。代替行事の手配は七件。夜会欠席に伴う外交上の補填は二件」


 クラリスは淡々と続けた。


「もちろん、恋に落ちること自体は罪ではございません」


 そして、少しだけ微笑んだ。


「ただ、恋のために発生した費用は、恋をなさった方々でお支払いください」


 今度こそ、広間の誰かが吹き出しかけた。


 すぐに咳払いでごまかされたが、遅かった。


 空気の向きが、わずかに変わった。


 同情だけで傾いていた場に、別のものが混ざる。


 疑い。


 王太子はそれを感じ取ったのか、声を荒げた。


「黙れ! この場は君の言い訳を聞くためのものではない。君の罪を明らかにする場だ!」


「罪」


 クラリスはその言葉を、舌の上で一度転がすように繰り返した。


「では、殿下。私の罪状を文書でご提示ください」


「なに?」


「口頭ではなく、文書でお願いいたします。日付、場所、被害者、証人、損害内容。可能であれば、王国法の該当条文も」


「そんなもの――」


「ございませんか」


 レオンハルトが黙った。


 リリアも黙った。


 広間も黙った。


 クラリスは、ゆっくりと息を吸った。


 花の香りが濃い。

 多すぎる花は、やはり何かを隠すために置かれる。


「殿下」


 クラリスは言った。


「断罪とは、舞台演出ではございません」


 レオンハルトの顔が歪む。


「罪を問うなら、証拠を。契約を破るなら、精算を。愛を語るなら、責任を」


 クラリスは一歩も動かず、王太子を見た。


「そのどれもお持ちでないなら、これは断罪式ではなく、ただの公開わがままでございます」


 誰かが息をのんだ。


 大広間の端で、老執事セバスが静かに動いた。


 銀のワゴンを押している。


 車輪の音は、驚くほど小さかった。

 だが今の広間では、その小さな音さえよく響いた。


 ワゴンの上には、分厚い書類の束が載っている。


 一束ではない。


 三束。

 いや、五束。


 きちんと紐でまとめられ、表紙には年度と項目が記されている。


 クラリスは横目で確認した。


「セバス」


「はい、お嬢様」


 老執事は、完璧な角度で礼をした。


「第一資料を」


「かしこまりました」


 セバスは一番上の書類束を取り、クラリスの隣に置いた。


 王太子が、唖然とした顔でそれを見る。


「なんだ、それは」


 クラリスは表紙に手を置いた。


「殿下が十六歳から二十二歳までに起こされた、王宮内外の調整案件記録でございます」


「なぜ、そんなものが……」


「婚約者でしたので」


 クラリスは、静かに答えた。


 広間の空気が、完全に変わった。


 花はもう、何も隠せない。


 クラリスは、王太子へ請求書を差し出した。


「殿下。ご署名欄はこちらです」


 王太子は、動けなかった。


 リリアは、泣くことも忘れていた。


 王妃エレノアだけが、遠くからクラリスを見ていた。


 その目に、初めてわずかな感情が浮かぶ。


 驚きではない。

 怒りでもない。


 見誤った、という顔だった。


 クラリスは微笑んだ。


 悪女らしく。


 美しく。


 そして、どこまでも事務的に。


「さあ、殿下」


 大広間の中央で、彼女は言った。


「断罪式の第二部を始めましょう」

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