プロローグ 悪女令嬢は、レシートを捨てない
クラリス・アルベルは、レシートを捨てない。
コンビニで買った百三十八円の天然水でも、駅前のパン屋で買った焼きそばパンでも、私立白鳳学園の購買で買ったミルクティーでも、彼女は必ずレシートを二つ折りにして、財布の奥へしまった。
同じクラスの女子が、それを見て笑ったことがある。
「クラリスさんって、意外と庶民派なんだね」
クラリスは少しだけ考えてから、答えた。
「いいえ。証拠派です」
女子はまた笑った。
冗談だと思ったのだ。
この国の人々は、証拠というものを少し軽く見ている。
約束は空気でなされ、責任は雰囲気で薄まり、謝罪は絵文字で済まされる。
そのくせ、誰かひとりが静かに損をしている。
王宮と、あまり変わらない。
六月の東京は湿っていた。
窓の外では、校庭の隅に文化祭の立て看板が立ち始めている。廊下には色画用紙の切れ端が落ち、教室のあちこちからガムテープを引き出す音が鳴っていた。
クラリスがこの世界へ来て、三か月が経っていた。
最初は、信号機という小さな塔に人々が従うことに驚いた。
次に、自動販売機という箱が、夜中でも冷えた飲み物を吐き出すことに感動した。
そして三日目には、電車の中で誰も剣を持っていないのに、全員がひどく疲れた顔をしていることに気づいた。
この世界には、魔獣がいない。
少なくとも、校内ではまだ見ていない。
けれど、人を削るものはある。
空気。
同調。
既読無視。
みんなそうしてるから、という薄い刃。
それらは目に見えない分、たちが悪かった。
「ねえ、これ、会計ちょっと合わなくない?」
教室の後ろで、日下部真央が小さな声を出した。
真央は文化祭の会計係だった。
眼鏡の奥の目は真面目で、ノートの文字は小さい。いつも人より少し早く教室に来て、誰かが散らかしたプリントを黙って揃えている。
そういう子は、どの世界にもいる。
王宮にもいた。
舞踏会のあと、誰にも礼を言われず銀食器の数を確認していた侍女。
貴族の失言を、翌朝までに招待状の文面で薄めていた文官。
そして、婚約者の愚かさを「若さ」と呼び変えて、十年分の後始末をしていた公爵令嬢。
クラリスは、かつての自分を思い出しそうになり、やめた。
もう終わったことだ。
王宮も。
婚約者も。
悪女という名も。
「え、どれ?」
クラスの男子が、真央の机を覗き込んだ。
文化祭の模擬店会計。
紙袋に詰められたレシート。
手書きの収支表。
誰が立て替えたのか曖昧な材料費。
買った覚えのない装飾品。
そして、なぜか丸い数字ばかりの出金記録。
真央は小さな声で言った。
「二千円くらい、足りない気がする」
「二千円でしょ?」
男子は笑った。
「まあ、細かくない? 文化祭なんだし」
教室の空気が、そちらについた。
細かい。
面倒くさい。
ノリが悪い。
空気を読めない。
その無言の札が、真央の背中にぺたぺたと貼られていく。
真央は黙った。
黙ってしまう子は、黙りたいから黙るのではない。
その場で声を出したら、自分だけが悪者になると知っているから黙るのだ。
クラリスは、ゆっくり立ち上がった。
「二千円は、細かくありません」
教室が静かになった。
クラリスは真央の机へ歩いた。黒板には、模擬店の名前が大きく書かれている。
青春クレープ。
ずいぶん甘い名だと思った。
その下に置かれた収支表は、甘くなかった。
「日下部さん。レシートを日付順に並べてください。購入者、金額、用途。三列で十分です。スクリーンショットがあれば、それも添えてください」
「え、でも……」
「大丈夫です」
クラリスは、少しだけ微笑んだ。
「悪女は、この程度では怒りません」
その言葉の意味を、教室の誰も知らなかった。
ただ、クラリスの左手の薬指には、うっすらと白い跡があった。
長く指輪をはめていた者にだけ残る、細い記憶のような跡。
男子が眉をひそめた。
「いや、だからさ。そこまでしなくてもよくない? みんなで楽しくやろうよ」
「楽しく、ですか」
クラリスは収支表から目を上げた。
「楽しさとは、誰かひとりに後始末を押しつけることではありません」
言い方は静かだった。
けれど、教室の温度が一度下がった。
真央が息をのむ。
誰かがスマホを伏せる。
男子が視線をそらす。
クラリスは、紙袋からレシートを一枚取り出した。
嘘には癖がある。
金額を丸める者。
日付を曖昧にする者。
善意という言葉で責任を薄める者。
そして、自分より弱い者に確認作業を押しつける者。
懐かしい癖だった。
王太子の晩餐会費もそうだった。
聖女候補への寄付金台帳もそうだった。
王妃主催の慈善事業も、最初はたった一枚の領収書から綻びた。
真実の愛。
国のため。
民のため。
みんなのため。
美しい言葉ほど、時々、人の財布から小銭を抜いていく。
帳簿は泣かない。
だから、嘘をつかない。
「まず、この二千円の行方を確認しましょう」
クラリスは言った。
「責めるためではありません。精算するためです」
真央が、震える指でレシートを並べ始めた。
その横で、クラリスは自分の財布から折りたたんだレシートを取り出す。購買で買ったミルクティーのものだった。
百二十円。
小さな紙だ。
けれど小さな紙は、時に人を守る。
かつて彼女は、断罪式の場で一枚の請求書を差し出した。
王太子は、真実の愛を掲げた。
聖女候補は、涙を流した。
貴族たちは、都合のいい沈黙を選んだ。
その日、クラリス・フォン・アルベルティーナは悪女と呼ばれた。
だから彼女は、悪女として微笑んだ。
そして、十年分の記録を王宮の床に置いた。
あの日から、ずいぶん遠くへ来た。
王宮の大理石の床は、今は教室のリノリウムになった。
銀の燭台は、蛍光灯になった。
羽根ペンは、ボールペンになった。
証言者は、スクリーンショットになった。
それでも、やることは変わらない。
黙って損をする人の前に、記録を置く。
空気で消されそうな声に、数字を添える。
この世界に王はいない。
けれど、王のように振る舞う人間はいる。
この世界に魔法はない。
けれど、誰かの人生を都合よく書き換える言葉はある。
ならば。
クラリスは、レシートを日付順に並べながら、静かに息を吐いた。
どの世界でも、人を救うのは奇跡とは限らない。
時々それは、一枚の紙である。
そして彼女は、紙の扱いにだけは少し自信があった。




