第8章 境界線から接点へ
それは僕にとって、初めて真剣に向き合った『ポートレート』だった。
自然物…風景や花などには拒まれることはないから、いくらでも向き合えた。
だけど……人の顔に真正面から向き合うことがずっと怖かった。
ハリーを撮った瞬間、その恐怖がかすかな音を立てて崩れて消えていく気がした。
もしかしたら。
ずっと感じていた恐怖と真摯に向かい合ったことで、カメラという『世界との境界線』だった道具が『世界との接点』に変わったのか……?
焼き上がった写真は、とても淡かった。
陽射しの加減か、僕の躊躇いか。
それとも、ハリーの本質があの曖昧さだったのかはわからない。
いつものように納屋で工具を広げていた彼の前に、一枚の写真を置く。
それを一瞥したハリーは、手を止めずに言った。
「おっ、やっとできたか」
「……これでよかったのか、わからないけれど」
「何言ってんだ、お前の『眼』で見たんだろ?なら、それでいいさ」
工具を放り投げるようにして、彼はようやく写真を手に取った。
レンズ越しの逆光の中、眇めた表情で笑っている自分を見下ろす。
数秒の沈黙。
それから、声に出すまでもないような口調でぽつりと漏らした。
「──いい顔してんじゃねえか、俺もお前も」
驚いて顔を上げると、彼はもう別の道具に手を伸ばしていた。
写真は机の片隅に無造作に置かれたまま。
それでも僕には、それが単なる賞賛よりずっと重たく、優しかった。
「……あのさ」
「ん?」
「──そのうち、本当にプロを目指してみようと思うんだ」
ここへ来てからなんとなく考えていたことを告げてみる。
ハリーは、他人の夢を笑い飛ばしたりはしないと確信できたから。
「いいじゃん。なら次は…そんな中古じゃなく、俺が弾丸でぶっ壊しても生きてるようなカメラ、見つけとけよ?」
彼の笑い声と工具の音が重なって、夕方の光が机に滲んでいた。
この写真を撮った瞬間、カメラは僕の『盾』ではなく、僕が世界に差し出した『証』になった。
ハリーと過ごした時間は、たぶん半月ほどだった。
その中で僕は3枚の写真を撮った。すべて本人の要望によるものだったが、それぞれ微妙に表情が違っていて面白かった。
1枚目は、逆光の中で笑っていた横顔。
2枚目は、工具箱の横で指先を拭っている無防備な姿。
3枚目は、僕が何も言わずに構えたときに、やや顔を背けながらも、真っ直ぐこちらを睨み返したときのもの。
「お前、なんで俺ばっか撮るんだよ」
と言われて、僕は正直に
「他に撮りたいものがなかったから」
と答えた。
真実だった。
ある日、ロッセーリからようやく依頼を受けたと聞かされた。
それは彼がここから出て行くことを意味する。
一時的な関係だと最初からわかっていたし、この騒がしい男がいなくなればこの家もふたたび静けさを取り戻すはずだ。
なのに……
別れの前日。ハリーは唐突に言った。
「市場行くぞ。ついでに……そうだな、そのサングラス、気に入ってんなら似たようなの選ばせてやる」
「返せってことかい?」
「いや。借り物なんかじゃらしくねえだろ。そろそろ『お前の物』を見つけろ」
その日は穏やかな晴れで、運河沿いの石畳を歩くハリーの足音がやたら耳に残った。
眼鏡屋に入ると彼は一言、
「これと似たようなやつで、あんまり洒落すぎてないやつ」
とだけ言い残し、さっさと店の外へタバコを吸いに出て行った。
僕はショーケースの中から、今までの物よりも少し小ぶりで、だけどレンズが柔らかく光を含むものを選んだ。
フレームと縁が金色で、色は借りていた物にかなり近い。
すっかりこの深緑色が好きになっていた。
「……」
鏡の前で、かけてみる。
ガラス越しに映る顔は、少しだけ年をとったように見えた。
僕はまだ17歳で、未熟な未成年だ。
小柄な僕の顔には、借りたサングラスは少しだけ大きくて、でも、とても勇気をくれた。
新しいサングラスをかけた時……
『もうすこし遠くまで、この眼で見られる気がする』
──そんな予感がした。
「ハリー、どうかな」
外で待っていた彼を呼んで見せると、ハリーは煙を吐きながら笑って言った。
「いいじゃん、似合うぜ。最初のより、ずっと『お前っぽい』」
その言葉を聞いた瞬間、僕はなんだかとても安心した。
『借りた』はずのサングラスと、僕が『自分で選んだ』サングラス。
似ているだけなのに、この2本のサングラスはとても大切な物に思える。
まるで……僕の体の一部のように。
その後、夕食前の腹ごしらえとしてハリーがまたサンドイッチを作ってくれた。
市場に来たかった理由はそれだったようだ。
自室でパンを頬張り、銃の手入れに励む彼を見ていると、心が少しだけざわついた。
その銃で、誰かを撃つのだと思うと……
「何?」
視線が気になったのか、ハリーが聞いてきた。
僕は曖昧に笑ってみせる。
プロだという彼には、周りの言葉など耳に入らないだろうし、それこそ僕みたいな子供の言うことなんて聞くわけがないから。
「そうやって手入れをしている姿、いいね。静かに、熱心に…さ」
するとハリーは『静かに』の部分にやたらと反応した。
「悪かったな、どうせ俺はいつもうるせえよ」
「あっ、ごめん。そんなつもりじゃ…」
「ははっ。嫌味のひとつも言えるようになったんならいいってことさ」
謝る僕の髪を手でくしゃくしゃにして、ハリーは楽しそうに笑って言った。
「これなら俺も安心して旅立てる」
あの日泣いた僕に、彼は深い理由を聞いてこなかった。
泣き腫らした目で揺らぐ僕は、あまりに奇妙だったろうに。
あれからずっと、心配…してくれていたのかもしれないな。
ハッキリとそう言わないのがこの男なのだろう。




