第7章 借り物の視界
次の日、1人で外出してハリーのサングラスを改めてかけてみた。
昨日の泣き腫らして涙が邪魔した目と違って、すべての物がくっきりとクリアーに見えた。
深い緑のレンズ越しに見る街は、どこか静かで、よそよそしさがやわらいで感じられた。
いつも見ている風景のはずなのに……
まったく視線を逸らさず歩けた。
いつもは気づかないほど足元に咲く花も、陰った路地の壁の色も、運河の水の色も、妙に輪郭がはっきりして見えた。
そしてすれ違う人の誰も、僕の眼を気にするそぶりは見せない。
『目立たないこと』が、こんなにも安心できるなんて。
ただのサングラスのおかげで……?
だけど、それをかけることで僕は少しだけ『見られること』を受け入れられる気がした。
驚きというより他なかった。
街からの帰りがけに見たハリーは、納屋でスパナ片手に何かの機械を覗き込んでいた。
僕が視界の端で立ち止まると、彼は言った。
「ほらな。似合うって言ったろ?」
「似合うかどうかはともかく……借りたままでいいのかい?」
これ、自分で使うために持ってたはずだろう?と聞くと、ハリーは肩をすくめてフッと笑った。
「気に入ったら、もうちょいマシなの買ってやる。今はとりあえず、それで我慢しとけ」
声は相変わらず軽くて雑だった。
けれど、胸の奥に落ちたその言葉は、不思議と重たかった。
『今の自分を見ている人がいる』
その実感が、なんだか息苦しいくらいに感じられ、そしてあたたかかった。
それからというもの、外出時は必ずサングラスをかけて歩いた。
目立たないことへの安心感。
世界から一歩引けるような気がして、気楽になれた。
これなら知らない人と目が合っても、怖がられずに済む。
そのことがとても僕を救ったのだと思った。
でも、これはあくまで『眼を隠すための道具』に過ぎない。
一時的につける『便利な仮面』だ。
それだけのものだった、はずなのに。
次第にサングラスを通した光が心地良いと思えるようになった。
ガラス越しの色彩が落ち着いて、風景が優しく見える。
そしてそれは、撮った写真にも現れ始めた。
好きな構図や角度がなんとなくわかるようになり、以前と同じ場所で撮ったものもどこか違う風に見えた。
眼も、心も隠せる………
僕の嫌いなオッドアイも。
揺れてばかりで、なかなか前に進めない心も。
ハリーはそのつもりで言ったのかもしれないけれど、僕は違うと感じた。
逆に何も隠さず、素直になれるように思えた。
安心感が、気楽さが、風景や撮った写真に対してもとてもまっすぐに現れた。
いつしかそんな風に思うようになった。
「そろそろいけるんじゃねえか?」
いつものように、昼食を一緒に摂った後でハリーが訊いてきた。
「何が?」
「先日のリベンジ、モデル第1号」
自分のことを指さして、ニカッと歯を見せる。
シャッターを切れなかったあの日のことをいつ蒸し返されるか気になっていたけれど、結局ハリーは何も言ってはこなかった。
「……」
僕は少し考える。
確かに、サングラスをかける前と今では、物の見方も変わってきている。
目を逸らさずに見られるおかげで、本来の色や質感、輝き、陰影などをしっかりと観察できるようになってきていた。
それは人物に対しても同じで、ロッセーリ翁やハリー、ソフィーさんや隣に住む画家のお爺さんたち……
深緑色のレンズ越しに見るものすべてが柔らかく、まるで僕を希望へと誘うかのように思えてきていた。
「そうだね」
僕が頷くと、ハリーは「おっ」と嬉しそうな声を出して笑った。
「んじゃ今、ここで撮ってくれ」
「え?今すぐ?」
「躊躇うなよ。こうやって……窓の所に立つ俺を撮りゃ、ほら、お前の好きな自然光もいい感じだろ? 午後の逆光ってやつ?」
言いながら、ハリーは椅子から立って窓際へ近づく。
軽くふざけた調子だった。けれど、それすらもありがたかった。
もし真剣に言われていたら、僕はまた逃げ出していたかもしれない。
「……」
僕は息を整えて、ファインダー越しに彼を見た。
サングラスの向こうで、まるで色温度が変わったように見えたハリーの横顔。
窓の桟に寄りかかって無造作に肩をすくめ、陽炎のように曖昧な笑みを浮かべていた。
僕は、シャッターを切った。
カシャッ。
その一瞬が、僕の中で『景色』が『人』になった瞬間だった。




