第6章 夢から醒めて
『僕の名は、エミール……』
サヴィーヌに2度目に会った時に、ようやく言えた名前。
初めて会った日は衝撃的な出来事の連続で、とても話をゆっくりする余裕は無かった。
フランス軍の捕虜として捕まり、そこで初めて出会った少女・サヴィーヌ。
暗い牢屋で話した時よりも柔らかいトーンに聞こえるのは、眩しい太陽の下だからか。
大勢の人で賑わう市場で再会した彼女は長いローブ姿だった。ジュラバというもので、ヒジャブというスカーフで顔を覆えば全身を隠すにはもってこいの格好だった。
軍服の腕を路地裏へ引っ張られ、少しの時間だけど話をした。
『あんたは、エミールって言うんだね』
くたびれた服から見える金色の瞳を和ませ、笑った。
『あたしはサヴィーヌ。この前は助けてくれてありがとう』
低いけれど、澄んだ声だった。
何を話せばいいか戸惑っていた僕に、サヴィーヌは先日の非礼を詫びた。
『強くなりたいだけで人を殺せるか、なんて言ったこと……悪かったよ』
『あんたは人を殺すためにここへ来たわけじゃないのに』
優しい言葉に、僕は首を横に振るばかりだった。
『でもこれだけは知ってほしい。誰かを殺すことで本当に強くなれるのか、それが正しいことなのか』
僕よりもたった2-3歳上の彼女にそう言われ、心がザラリとした。
僕は……まだ何も知らなかった。
彼女は僕よりもずっと小さな細い体で、僕よりもずっと大きな覚悟を持っていた……
『あんたは、何のために戦うの?』
その問いは、僕の胸をギュッと締め付けて離さない。
まるで、生きる意味を問われたかのようで。
母や妹を守るために、もっと強くなりたい……そう願って行ったはずの砂漠で、サヴィーヌの言葉は僕の生き方そのものを突きつける刃のようだった。
最初はただ、単に強くなりたかっただけ。
家族を守れるように。
でも、サヴィーヌに出会ってから『守る』とは何なのかを考えるようになった。
彼女は、誰かのために、或いは何か大義のようなもののために戦っていた。
自分の辛さや痛みを隠してまでも、誰かの希望になろうとしていた。
おそらくは、国を愛する人々の希望に……。
そんな彼女の戦い抜く姿勢を見て、僕は思った。
「僕も、誰かのために強くなりたい」
……と。
それはただの憧れじゃなくて、次第に『生きる意味』に変わっていった。
その夜、夢を見た。
何度も、何度も見た……恋しいサヴィーヌの夢。
背中からの銃弾が貫通した胸元からおびただしいほどの出血が流れ、止まらなくて恐ろしかった。
「嫌だ…死んじゃだめだ!サヴィーヌ……!」
泣き喚く僕の腕の中で、彼女は次第に荒くなる呼吸とともに吐血した。
苦しいはずなのに、痛くて怖くて泣きたいはずなのに…彼女は微笑んでいた。
『あなたの眼は、空に似ている』
何度も言ってくれた言葉を、また繰り返す。
僕のオッドアイ……青緑はさんさんと陽光が眩しい晴れた空、グレーは泣き出しそうな曇り空の霞んだ空に例えて。
砂埃舞う戦火の中、僕の眼の中に色彩を感じたと言った。
澄んだ空と、哀しそうな空と……
そのどちらも僕の繊細さを表しているのだと。
『あなたは…希望に、なったんだ……』
その言葉を最期に息絶えた彼女。
誰の希望に?
君がいたから、君の希望になろうとしたんだよ?
「サヴィーヌ………!」
(………)
声に出したかもしれない。
気がつくと、僕はベッドで枕を濡らしていた。
涙が次から次へと溢れ、止まらなかった。
何度も見た夢だ。何度も泣いた。
怖かった。今でも信じられない。体の震えがまったく止まらない。
揺らぎが治まらない。
僕は一体、何なんだ?
この眼で、誰かを見つめてもいいのか?
頬を止めどなく流れる涙。震える手。
寝たままで頭を抱え込む。
目を固く瞑ったけれど、その後は一睡もできなかった。
「おい!いつまで寝てやがるエミール」
その声にハッと気づく。
ウトウトしかけていたのか、直前の記憶がハッキリしない。
ドアを叩くハリーの声だった。
何だってこんな朝まで僕の前に……!
「メシだぞ、メシ!早くここ開けろ」
知らんふりをしようかとも思ったけれど、わざわざ持ってきてくれたようなので無視するのも気が引けた。
泣いたせいで、頭も痛い。気分が最悪だ。
ドアを開けると、ハリーが少しだけ驚いた表情に変わる。
僕の顔を見下ろして、至極真面目な様子になった。
「…怖い夢でも見たか?」
ハリーの声はいつものように茶化す感じではなく、低くて柔らかかった。
僕は涙を拭う暇もなく、顔を背ける。
「…別に、夢ぐらい誰だって見るだろ」
「そっか……」
やけに短い相槌。
その後は、いつもの調子をかましてくる。
「ま、お前なら泣きながら朝飯食ってても似合うけどな」
………どういう意味だよ…!
こんな時にまで人を小馬鹿にしてさ。
「出てけよ!」と叫びたかった。
だけど、手にしているトレイに載っている温かそうなカフェオレとサンドイッチを見た瞬間、強い叫びは出せなくなってしまう。
「……うるさいな」
出てきた言葉はきっと、とても冷たく聞こえただろう。
実際は声の奥が震えていたのに……
「……」
テーブルにトレイを置き、ハリーは何も言わずに指をさした。
僕は小さく頷き、椅子に腰を下ろす。
ハリーはベッドに腰掛けて、僕の様子をただ見ていた。
涙を見破られた羞恥が気になってしまい、ぎこちなく食事に手をつけ始める。
「………美味しい…」
呟いたのは飲み込んでからではなく、咀嚼の瞬間だった。
自分でもかなり驚いた。
とても素直に口から言葉が出たからだ。
一口、また一口。カフェオレの温かさと、作りたてのサンドイッチの温かさ。じんわり、胸の奥まで染み渡る気がした。
わけがわからないけれど、また涙が溢れてきて、頬を伝って……僕は泣きながら食事を続けた。
ハリーはそんな僕に笑って言った。
「今朝は俺が作ったんだぜ。泣くほど美味かったか?」
僕は慌てて袖で涙を拭う。
「違うっ…そんなんじゃない…ただ…」
何が『ただ…』なのかも分からず、声が震えた。
そこで初めてハリーが焦ったようになり、
「…は?お前…マジで泣いてんのかよ、おいっ!」
素で出たような言葉。
いつものように茶化したりせず……
ついさっきまでは「泣きながら朝飯食ってても似合う」なんて言ってたくせに。
ムキになるのも、肩肘張るのも、なんだか疲れたよ……
僕はふふっと笑い、同時にまた涙が出てきた。涙腺が壊れちゃったかな。
ああもう、どうなったんだ僕の心は。
ハリーの焦ったような声に、つい安心してしまうなんて。
食後、ハリーが散歩に出ようぜと誘ってくれた。
今までなら、お断りだと一喝だ。
けれど、今は誰かと歩くのも悪くないかな……
泣き腫らした目が恥ずかしく、眼帯を付けようかと思ったのに、こんな時に限って汚れてて使えない。
仕方なくそのまま出かける。
朝の風は涼しくて、水の音は相変わらず柔らかかった。
細い路地をただひたすら歩いていく。
目的地もない散歩。
目がショボショボしてうまく見えない。
黙って歩く僕の隣で、ハリーはしきりとポケットを探っていた。
しばらくして差し出されたのは、見慣れない深緑のサングラスだった。
「ほら、俺のだけど…眩しいなら使えよ」
「……何で…?」
「泣き腫らしてるし、ちょうど良いだろうが」
ちゃんと僕の顔を見て言ってくれる。
勢いで手に取ったけれど、普段つけ慣れていない物をつけるには勇気がいる。
ハリーは口笛を吹きながら一歩前を歩き出した。
「……」
さて、どうしよう。
サングラスなんて、欲しいと思ったこともない。
戦場で、砂漠の太陽の照り返しの眩しさを避けるために使っていたことはあるけれど、何の気なしにこんな普段の生活でかけるなんて……
「…似合わなかったら返す」
ぽつりと呟く僕に、ハリーは振り返らずに言う。
「とりあえず今はかけとけよ。似合わなきゃ、そん時は返せばいいさ」
とりあえず…か。
抵抗感は拭えないけれども、今だけ借りておこうか……
黙ってそっとサングラスをかける。
いつの間にか、サンマルコ広場に続く小径まで歩いてきていた。
先を行くハリーがふいに「お前…さ」と話しかけてきた。
「そんなに嫌な名前だったら、捨てちまえばいいじゃねえか」
息を呑む僕に対し、言葉を続ける。
「俺から見りゃ、お前は自己肯定感が低すぎだ。お前はその眼で見て、その足で歩いてきたんじゃねえか。自信持てよ。嫌なもんにいつまでも縛られてる必要なんてねえんだぜ」
「……」
人の心の中にまでズケズケと踏み入ってくるハリー。
だけど、それは真実だ。
僕は過去にとらわれすぎている。それは自分でもよく分かっている。
「………捨てられない理由があるんだ。捨ててしまったら、思い出が全部消えてしまいそうで…怖いんだ」
サングラスの奥で目を細めて、独り言のように言った。
顔を挙げ、太陽を見上げる。
サングラスのおかげで眩しさは感じないけれど……心に染み入ってくる気がした。
心地良かったサヴィーヌの声。
温かな記憶だって、あるんだ……
ハリーはそれ以上何も言わなかった。
きっと、ますますおかしな子供だと思われただろうな。
目つきは悪いし、自分を責めてばかりで前に進もうとしないし……
断片的にしか僕を知らないハリーなら、「弱えな」なんてすぐに言いそうなものなのに、不思議とそうは言わない。
ズケズケと土足で入り込んでくるわりには、控えるところではちゃんと引くんだろうか。
そんな気遣い……よけいなお世話だよ。
その夜、借りたサングラスを返しにハリーの部屋へ行った。
テーブルに銃を置き、丁寧に磨いているところだった。
「やっぱり驚かねえか、戦場でさんざん見てきたんだろ?」
手入れを続けるハリーは、銃を見ても顔色をまったく変えない僕にそう言った。
「…まあね」
小さく言い、僕は同じテーブルの上に借りたサングラスをそっと置いた。
「返すよ。僕には似合わないから」
「そうでもないぜ?似合いそうだったから貸したんだ」
ハリーはニッと笑う。
「お前、たまに目を逸らすじゃん。悪くないけど、少し損してるぜ。これかけときゃ、そういうのも見られなくて済む」
「……損、ねえ」
「おうよ。あくまで一時的だが、貸しといてやる。シャッター切る時の眩しさも感じないはずだ」
ハリーはいつものように僕をまっすぐに見て笑う。
軽くて、だけどあたたかい笑顔……
「まあ、正直言うと隠すのは勿体ない気もしてるがな。眼だけじゃなくて、心も隠せちまうから……メリットもデメリットもあるってわけだ」
……心も隠せる、か……
その時、初めて『自分の眼をそのまま見た男』がそこにいる気がした。
真正面から…まっすぐに。
サヴィーヌのように。
この男も…ハリーも?
僕は黙って、ふたたびサングラスを手に取った。
返すつもりだったのに。
今日の僕は、本当におかしい。
「あとな」
部屋を出ようとした僕に、ハリーは言った。
「気が向いたらよ、いつでも俺のこと撮れ。お前が将来プロになった時に、箔がつく」
冗談めかした言い方に、僕まで笑いたくなった。




