第9章 別れの朝
翌日。
ハリーの出発は、日の昇るずっと前だった。
僕の部屋の扉をノックすることもなく、小さく『じゃあな』と独り言のように呟いて、荷物をまとめていた。
けれど僕は、その気配で目が覚めていた。
カメラもサングラスも持たず、パジャマ姿のまま静かに階段を降りる。
まだ宵の余韻を残す玄関先で、ハリーに声をかける。
「……どこまで?」
「とりあえずはミラノ。その先は、例のヤボ用だ」
例の……ロッセーリ翁からの依頼ということか。
何をするのかは聞けなかった。
彼は仕事については話したがらない様子だったから。
「そうなんだ……長くなるのかい?」
「どうだろうな。依頼次第だ。あんまり細かいことは聞くな」
いつもの調子。
けれど声の奥に、どこか言い足りない『何か』が滲んでいた。
「……」
僕はためらいながら、封筒を差し出した。
3枚の写真をプリントしたもの。一言の説明も添えず、ただ差し出す。
彼は眉を上げて受け取り、中身の確認もせずそのまま革ジャンの内ポケットにしまい込む。
シャッターを押すしぐさをしてみせながら、聞いてきた。
「……最後に撮らねぇのか?」
「どこかで会えたら、また撮らせてもらうよ」
一瞬、笑いかけたような気がした。
けれど彼は何も言わず、小さく手を挙げた。
「ありがとな、エミール。元気で。 いつか――『もう少し良いカメラ』を構えてるお前に会えるの、悪くねぇかもな」
そして彼は、ゆるやかな朝靄のなかへ足早に消えていった。
あまりにあっさりとした別れだった。
僕は静かに部屋に戻り、机に2つ並べてあるサングラスに目を遣った。
再会なんて、するかどうか。
ここで会えたのですら偶然なのに。
まあ…ここに来ればもしかしたらまた会えたりするかもしれないけれど。
それは彼も望んでいない、そんな気がした。
ここは危険かもしれない『依頼』を受けに来る場所だから。
僕に話したがらないことからも、そのことは感じ取れた。
『どこかで会えたら』
自然に口から出てきた言葉。
『いつかお前に会えるの、悪くねえかもな』
だけど、彼も自然にそう言った。
手渡した3枚の写真……
彼は列車か、飛行機の中ででも見てくれるだろうか?
『気が向いたら、俺を撮れ』
そうだね……どこかでまた会えたなら。
最初に貰ったほうの、少し無骨なイメージのサングラスを手に取った。
「ありがとう、も言えなかったな…」
苦笑がこぼれた。
彼はちゃんと言ってくれたのに。
「………」
僕は唇を噛みしめ、2つのサングラスをまた並べて置いた。
ハリーがいなくなって数日後、僕はロッセーリ翁に別れを告げて、パリの実家へ戻ることにした。
ロッセーリ翁もソフィーさんも、細かいことは何も訊いてはこなかった。
ただ、別れ際に翁がロッキングチェアに座ったまま、こう言った。
「エミール、お前さん…来たときよりも表情がぐっと柔らかくなったのう」
そして続けてこうも言った。
「あいつに…ハリーに振り回されて本来の素直さを取り戻したように見えるぞ」
ホッホッと変な笑い方をして、翁は琥珀色の目を細めた。
僕の持つカメラを指さして、
「そのカメラも、そうだ。お前さんが過去と向き合って、人にレンズを向けられるようになった証じゃ。過去との『闘い』に打ち勝ち、変わるきっかけになったシロモノ……戦利品として、一緒にパリへ持ち帰ってやれ」
「えっ……」
「『闘い』に勝ったかどうかなんて、わしには分からんが……勝てるかもしれないと思ってシャッターを切った、その心は確かじゃろう」
僕はそれを聞いて、しばらく何も言えずにいた。
『エミール』という名前に込められた苦しみ。
このオッドアイを向けた先に拒絶ばかりがあった気がしていた。
それでも、シャッターを切った。
それでも、名前を捨てなかった。
僕はそっと、カメラのストラップを握りしめる。
これは、僕が自分で選び取った『武器』。
逃げずに、自分の目で人を写した。
それをパリへ持ち帰ることで、僕は前に進むという選択ができる。
『闘い』
ここに来た日、翁は確かにそう言った。
過去との闘いに勝ちたければ『エミール』を克服しろと。
本当に勝てたかどうかなんて、翁同様、僕にもわからない。
もしかすると、初めから答えなんてどこにもなかったのかもしれない。
そんなふうに思ったら、ふっ…と体が軽くなる気がした。
『エミール』
以前ほど、その名で呼ばれることが嫌ではなくなっている。
何故だかわからないけれど……
ハリーならきっと「それでいいんだ」と笑うんじゃないかな。




