第3章 粗野な男
ロッセーリ翁のもとに来てから、数日が立った。
この薄暗い建物は、ロッセーリ翁に仕事の依頼を受けに来る『請負人』などが週に数人来るだけの場所だという。
あのソフィーという中年女性は家政婦で、別の場所にあるロッセーリ翁の本宅と行き来して掃除や料理などをしているらしい。
僕は翁の建物のゲストルーム扱いの部屋をあてがわれた。
階下の翁の部屋に比べれば…酒やタバコの臭いは薄いけれど…
どう考えても『子供』の来る家ではないなと改めて思った。
ここで『何をするか』は決まっていない。
暇なら観光に出ても良いし、時々ロッセーリ翁からお使いを頼まれて街に出ることもあった。
客というよりは下宿人の扱いだ。
食事も皆で一緒に摂ることもなく、ソフィーさんが作ってくれたものを置いていってくれるので、一人で部屋で食べていた。
ずっと部屋でゴロゴロ寝ているよりは、歩き回っていたほうが気分的に楽だったので、僕は毎日のように出かけていた。
その原動力になったものがひとつ。
納屋の掃除を頼まれた際に見つけた、古いカメラだ。
まだ使えるようなので持っていって翁に訊いてみると、くれると言った。
貸してくれるだけで良かったけれど、せっかくの好意なのでありがたく受け取ることにした。
昔から、撮るものは風景か自然のもの。
人物には興味なく、逆に敬遠した。
ファインダー越しに人物を見ようとすると、不安になった。
人の目がこちらを見ていることに気づくと、途端に恐ろしくなっていた。
普通に友人たちや先生と話すときはそんなふうに思わなかったのに。
ファインダー越しの視線は、射るように僕の目に飛び込んでくる。それが怖くて人をまったく撮らなくなった。
僕にとっては、カメラは盾だった。
オッドアイを隠すように使う盾。
右目でファインダーを見るとき、左目は自然に瞑る。
なので、端から見ても異様には見えない。
ロッセーリ翁に言われて外した眼帯だけど、外に出るときはやっぱり付けていた。
外すのは翁の家でだけ。
まだ街を歩くのも少し不安だし、同じ目立つのなら眼帯の方が数倍マシだ。
その日の朝も、眼帯をつけて出かけていた。翁に頼まれて、市場へ買い物をしに行ったのだ。
もちろん、もらったカメラも一緒だ。
きらめく水路を撮ったり、人の少ないサンマルコ広場などをぶらついて運河を撮ったり…
片手にお使いの品が入った麻袋、そしてもう片手でカメラを構えていた時だった。
「よう、君がエミールか?」
ふいに声をかけられた。
聞いたことのない声に振り向くと、少し離れた所からこちらへ歩いてくる一人の男がいた。
僕は一瞬目を細めて、相手をよく見ようとした。
僕より5歳くらい年上だろうか、若い男だ。砂色の長い髪を風に揺らしながら、ゆっくり歩いてくる。黒のTシャツとデニム、ショートブーツという出で立ち。
背はかなり高く、15センチくらい上を見ないと目線が合わない。
知らない人だ。それなのに…僕のその名前を初対面で呼んだということは……
「あなたが、次の請負人ってことかな」
昨晩、ロッセーリ翁から近々『客』が来ることは聞かされていた。
やけに眩しい朝。
僕が片目を細めたままでいると、軽快な足音と共に目の前に彼が立ち塞がった。
「そうだ、ハリーって呼んでくれ」
「どうして僕を『エミール』と?」
請負人が興味あるのは依頼だけのはず。
居候の僕の名前を知っているということは、ロッセーリ翁が話した以外の理由がない。
仕事だけのドライな関係ではなく、ロッセーリ翁と何らかの付き合いがあるような相手なのか。
「どうしてって…お前の名前なんだろ?」
「……そうだけど」
「じゃあいいじゃねえか。しっかし、ジジイから聞いた通りだ。目つきの悪いヤツだな」
ハリーはニッと笑って、眉を上げて言う。
やっぱり、翁が僕のことを彼に話したのだ。
…にしても、初対面なのにずいぶんと失礼な言われようじゃないか?
目つきが悪いのはあんたを信用してないからだよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
何と返そうかと迷っていると、ハリーは僕の持っているカメラを指さして、
「けど、そのカメラの構えかた、なかなかいいじゃん。気に入った」
冗談とも皮肉とも取れる口ぶり。
カメラの構えかたということは…今さっき僕に気づいたわけではなさそうだ。
少なくとも、広場に来て何枚かの写真を撮っている僕の姿を見ていたわけ…
そう気づいた途端、背筋に冷たいものが走った。
ずっと見ていた……?
見られていた……
カメラに夢中で、視線をまったく感じなかった鈍感な自分に嫌気がさした。
砂漠の戦場では…そんなことはなかったのに。
神経を研ぎ澄まして、周囲の変化に気を配らなければ自分の命はおろか仲間達にも危険が及ぶ。そんな状況の中で過ごしていた僕が、ここではすっかり緊張感を失っていたなんて。
困惑している僕の手から、ハリーはいきなり麻袋を奪い取った。
「えっ、何…」
「重そうだから持ってやるよ。お前さんはどこを撮るかの構図でも考えとけ」
「…はあ?」
僕の戸惑いなどまったく気にしていない様子だった。
一瞬、子供扱いされたかと思ったけれど…どうも違う感じに思えた。
だって、構図を考えろだなんて普通は言わないだろう?
あっけらかんと言ったハリーの顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
もしかして、構図……冗談じゃなかったのか。
ハリーの良く日に焼けた、たくましい筋肉質の腕が重たい麻袋をひょいっと担ぎ上げる。先に歩き出し、ふと思い出したように僕を振り返りながら、
「おい、早くジジイんとこ行くぞ。あいつは時間にうるせえんだ」
僕の目をまっすぐに見つめて言う。そしてまた笑う。
まっすぐに……目を逸らさずに見て、笑う。
それが彼に抱いた最初の印象だった。
ロッセーリ翁の家に2人で戻ると、玄関でまたしてもソフィーさんに睨まれた。
「あんたかい、入んな」
…顔パスですんなり家に入れてもらった。
僕だけじゃない、ハリーもだ。
これまで何度も来ているってことだろう。
ハリーは家中に響くような大きな声で、
「おいジジイ!来てやったぜ!事情が変わったそうじゃねえか!?」
あまりのデカい声に、すぐそばで聞いた僕は鼓膜が破れるかと思ったよ…
「そんなにデカい声でなくとも聞こえるわい、馬鹿もんが」
翁はいつものロッキングチェアに揺られて座っていた。しかめっ面でハリーを嗜める。
「時間がかかるって、どういうことだよ?他の仕事が入れられねえだろうが」
威勢ではハリーの方も負けていない。僕がいてもお構いなしに話を続けようとするので、さすがにまずいだろうと会釈して立ち去ろうとしたのだけど。
「エミール、この男はハリーという見ての通りの荒くれ者じゃよ」
…なんて紹介を始めるものだから、すっかり部屋から出るタイミングを失ってしまった。
「さっき会ったときに聞きました。いきなり目つきの悪いヤツだなんて言う、失礼な荒くれ者さんですね」
僕は思いっきり皮肉をこめて言った。
普段、そんなふうに人に向かって言いたくないけれど、この男には嘗められたくない。ついそんな風に思ってしまったせいだ。
「……」
ハリーは少し面食らったような顔になり、一瞬おいてから
「は、ははっ!礼儀正しいお坊ちゃんかと思ったら、なんだか歯ごたえありそうなおもしれえヤツじゃねえか!」
………なっ!?
今度は僕が面食らうことになった。
皮肉がまったく届いていない…!?
「気に入ったぜ、エミール!そんなに長くはいないだろうが、まあ仲良くしようぜ!」
ハリーは持っていた麻袋を床に置いて、右手を僕に向けて差し出す。
……気に入られたくないし、仲良くしたくもない。
僕が口を固く結んでジロッと睨むと、ハリーは「その目つきはやめとけって」とニカッと笑った。
渋々出した僕の手をグッと握りしめ──
ふと、何かに気づいたような表情になった。
「…お前…」
「え?」
「や、何でもねえよ。よろしく頼むぜ」
「……?」
何が言いたいんだ?
僕が見かけよりもごつめの手をしていたから、とか?
華奢そうに見えるせいで、手まで白魚のような指なのかと昔からよく誤解されたけれど……そうでもないんだ。
怪訝そうに見やった僕をよそに、ハリーはソファにどっかりと腰掛けてロッセーリ翁と何やら話し始めてしまった。
……出るなら、今かな。
僕は酒盛りまで始めだした2人から離れ、自室へと戻った。
……本当に、失礼な荒くれ者だよ。




