第2章 出会った人々
ヴェネツィアの街は車が通らない。
水路と運河、そして迷路のように入り組んだ小径で形成されていて、初めて来た者にはかなり手強い街だった。
シーズンオフでも観光客が多く、列車から降りたのはほとんどがそうだった。
皆、駅を出ると途端にガイドブックで行き先までの道を確認していた。
「…道迷いも悪くないけど、人を待たせてるわけだから急ぐかな」
僕は独り言を呟き、観光客たちの波から逃れて細い路地にさっさと歩いていった。
有名なリアルト橋を渡る。まだ朝の早い時刻だというのに、すでに人だかりができている。皆、スマホやデジカメで写真を撮るのに忙しそうだった。
リナンが書いてくれた地図はかなり大雑把で、僕の予想以上に手こずってしまった。
マルコポーロの生家付近を過ぎようとすると、そこにも観光客が集まって写真を撮っていた。
もうここはプレートしか残っていない建物なのに、皆、屈託のない笑顔で写真に映り、シャッターを切っている。
「すみません、シャッター押してもらえますか?」
僕が通りかかった時、三人組の観光客から声をかけられた。
一瞬戸惑ったけれど、快く引き受けることにした。
カメラなんて手にしたのは本当に久しぶりだったから、手が震えたかもしれない。
でも写真を確認してもらったところ、むしろ構図や出来栄えを褒められた。
「ありがとう!君、撮るのが上手だね」
デジタルカメラの進化にも驚くけれど、僕の手ぶれも感じさせないような仕上がりになっていたのは本当に驚いた。
最後にカメラを触ったのはイギリスにいた頃、友人から借りたものを使って自然の風景を撮ったりしていた頃だ。
趣味…とまでも言えず、暇つぶし、遊びの方法のひとつでしかなかったカメラ。
人間は撮ったことがなかった。
人の目が怖いから。
ただそれだけの理由。
こうして、たった1枚撮るだけで喜ばれるというのに。
「…眼帯、していて良かったよ」
大きく息をつく。
僕の目を怖がることなく接してくれた観光客たちは、僕の戸惑いをよそに楽しそうに別の所へ向かっていった。
ようやくたどり着いたロッセーリ家は、予想よりもかなり古い作りだった。
水路に面した2-3階建てのアパート形式なのは他の家も同じだけれども、そういうことではなくて…
なんというか、リナンに聞かされたイメージとは明らかに違っていたからだ。
諜報機関の長を務める人物が、こんな貧相な建物に住むなんて……
にわかには信じがたく、何度も番地のプレートと地図に書かれた番号を見比べたほどだ。
ノックをすると、中年の小太りの女性が胡散臭そうに顔を出した。
「なんだい、ここはあんたみたいな子供が来る所じゃないよ」
「えっと…ロッセーリさんに会いに来たんです。パリのリナンという人物の紹介です」
僕の声が聞こえたのか、奥からしわがれた翁の声が飛んできた。
「リナンの話のボウズか、ソフィー、入れてやれ」
「そうかい、じゃあ入りな。爺さんは一番奥の部屋だよ」
素っ気ない言い方をして、ソフィーと呼ばれた中年女性が中へ通してくれた。
ミシミシ鳴る板張りの床、ヤニか何かで薄汚れた染みだらけの壁、そして奥に行くにつれ漂ってくる強い酒の臭い……
確かに、子供の来る所じゃない。
一番奥の扉をノックすると、すぐに入れと言われて僕はそっと開けた。
「うわ…これは…」
酷い、としか言えない臭い。
頭が痛くなりそうだった。
それもそのはず、テーブルには栓の開いたボトルとオレンジ色の液体が入ったグラスが置いてある。床には酒をこぼした染みが何カ所もあった。
壁に備え付けの埃をかぶった棚にもボトルが何種類か並んでいるし、相当の酒飲みだとわかる。
「お前さんがリナンが言っとった、ルイ・カーン・ダンヴェールか」
フルネームで呼ばれ、僕は小さく頷く。
その名は本名だけれど、人生の半分くらいは別の名前で呼ばれていたから、正直なところ、なんとなく奇妙に聞こえる。
木製のロッキングチェアに揺られているロッセーリ翁は確かに年老いて見える。けれど、その皺だらけの顔に光る琥珀色の瞳はギラリとこちらを見据えていて、ただの老人ではないなと感じた。
「大体はリナンから聞いとるがの、お前さんをしばらく預かることは何も問題じゃない。ただし…」
更に厳しい目つきに変わった。
「その眼帯は何じゃ?病気や怪我でないなら外してみせい。目を見せない人間は信用ならんからのう」
そう言われて息をのむ僕に、続ける。
「オッドアイだろうが何だろうが、お前さんはお前さんじゃからの。それを否定するような相手はここにはおらんよ」
ニカッと笑ってロッセーリ翁は言った。
つい先程の列車の中で、左目を隠して生きていこうと決意したばかりの僕には、軽い抵抗があった。
だけど信用されないわけにもいかない。ここを追い出されたら行く当てもない。
そう思って、僕は小さく息をついた後に眼帯を外した。
一瞬ロッセーリ翁を見たけれど、すぐに視線をそらせてしまう。
「ほう、猫には多いと聞くが…オッドアイの人間は初めて見た。長生きはするもんじゃな」
喉元に引っかかるような奇妙な笑い方をされる。
でも怖がることもなく、普通に接してくれることにホッとした。リナンがしっかり話を通してくれているのがわかった。
それは次の質問でもわかったことだ。
「して、お前さんはルイと呼ばれる方が良いのか?それとも『エミール』が良いか?」
息が詰まりそうになる。
その名前は……僕が砂漠で置いてきたはずのものだったからだ。
パリに戻った僕は、もうこれからはルイとして生きるつもりでいた。元々の本名だし、イギリスで憎い義父に付けられたエミールという名前など早々に捨てるべきだと思ったからだ。
半生をエミールの名で過ごしてきた僕にとって、聞き慣れた名前でもあるけれど、辛い過去を思い出させる名前だった。
「……」
何も言えず口をつぐんだ僕に、ロッセーリ翁はグラスを空けた後で言った。
「どちらもこれまでのお前さんを作ってきた名じゃろうて。馴染みのある方を使えば良い」
「……」
「ただ、こちらとしては呼び方に困るのでな、お前さんが決めとくれ」
そう言われても……
どうすれば良いのだろう?
ロッセーリ翁をちらっと見やると、琥珀色の瞳と視線があった。
「過去と『闘う』のであればエミールで通すがいい。ルイと名乗るのはパリに戻ってからでもよいじゃろう」
「過去と…『闘う』……?」
呆然と繰り返す。
闘うだなんて…そんな気力も、勇気も無い今の僕。
エミールと名乗れば、その噂をどこからか聞きつけた義父が追っ手を仕掛けてくるかもしれない。
そうしたら、ここの人達にも迷惑がかかってしまう……
そんな不安を解っているように、ロッセーリ翁はにやりと笑う。
「安心せい。子供の一人ぐらいは庇ってやれる。何かあればリナンにも顔向けできんからのう」
……つまりこの人は、初めから『ルイ』と呼ぶつもりはなかったということか。
エミールという名前で生きてきて、色々な局面を見てきた僕は、そろそろその名前と対峙しなければならないのだと言いたいのだ。
砂漠に置いて来れなかった名前。
ふいに脳裏に浮かび上がる、少女の声。
──『エミール』。
僕をそう呼ぶのは、あの砂漠に咲く薔薇のように美しかった、サヴィーヌ。
彼女は最期の瞬間まで戦士として戦い抜いた。
僕の腕の中で血だらけの体を小さく捩りながら、荒い呼吸とともに名前を呼んでくれた。
乾いた風の音がする、砂塵の舞う夕焼けの中で……静かに微笑んで息を引き取った。
彼女の声。
凜とした、でも後悔のない澄んだ声。
今でも忘れやしない。
だけど──彼女のためにも、ここで決別しなければいけない。
悲しみを引き摺って生きることなど、彼女は望んでいなかった。
運命に抗いつづけ、自分の手で勝ち取ることを強く望んでいた……
『エミール』に勝てたときに、ようやくその名の呪縛から解放される。
『過去と闘う』とはつまり、その『自分との闘い』をここでしていけと翁は言ってるんだ。
「『エミール』と呼んでください。お世話になります」
僕は覚悟を決め、翁の前に立って深々と頭を下げた。




