第1章 白い朝
ガタン…ガタガタ…ガタン…
眠れないまま、夜が明けていた。
何度目かの乗り換えの末、ようやく目指す街が見えてきたことに気づいた。
パリで夜行列車に飛び乗り、イタリアに入国してからも長かった。鉄路でなく空路を選べば良かったのにとも思ったけれど、今の僕には長い時間の孤独が必要だと思ったのだ。
「少し、家を離れてみたいんだ」
そう伝えたときの執事リナンの少し驚いた表情が今でも忘れられない。
僕がモロッコの砂漠から無事で戻ってきたことで安心したのもつかの間。
これからは母と妹のシモーヌと3人でまた幸せに暮らせると喜んでくれたはずなのに…
僕はとてもそんな心境にはなれずにいた。それだけ砂漠で受けた心の傷は深かったのだ。
疲弊しきったために、以前のように母や妹の前にも出られず自室にこもりきっていた僕をずっと気遣ってくれていたリナン。
心の傷を癒しに行くのだろうと、すぐに察してくれたようだ。
「ルイ様…」
いつものようにルイ(僕の本名だ)と呼んでくれ、リナンは続ける。
「そうですか。当てはあるのですか?」
「…無い。どこに行けば良いのかもわからない。ただ、このまま家にいてはいけない気がするんだ。母とシモーヌに心配かけたくない」
「……」
理解してくれたのか、リナンは新しく紅茶を入れ直しながら言った。
「ルイ様のお気に召すかはわかりかねますが、私の古い知り合いがヴェネツィアにおりまして」
「ヴェネツィア?」
意外そうに聞き返すと、リナンは続けた。
「さようでございます。私が軍医を務めていた頃の知り合いでして…あまり大々的には口にできない仕事をしております」
「えっ…それはどういう?」
「諜報機関の長をしている者です。元は彼も軍医の一人で、除隊後に高利貸しから始めたようです」
リナンが軍医だったことは知っていたし、軍人の端くれで武器の扱いにもそこそこ慣れているのも知っていた。
だからこそ僕に短剣の使い方をレクチャーしてくれたのだし…それは戦場でも非常に役に立った。
「ずいぶんときな臭い人物のようだね。でも、どうして僕をそんな人の所へ行かせたがるのかい?」
そう訊くと、リナンは苦笑を浮かべる。
「今のあなた様をお一人にするのは心配ですし、かといって信用ならない人間の元へ送るほど非情ではありませんので」
「……なるほどね」
全部理解できたわけではないけれど、確かに一理あるなと思う。
僕を一人にするのは色々な面で危険だとし、それならばクセのある旧友にでも預けたほうが安心なのだろう。
「その人の名前は?」
「ロッセーリと申します。名前の方は忘れてしまいました」
「何も訊かずに僕を受け入れてくれるような人?」
「多少は訊くかもしれませんね。お辛ければ、先に私の方から話をしておきます」
その提案に、僕はうなずいて見せた。
自分の身に起こったこととはいえ、口にすれば否が応にもシーンが頭に浮かんでしまう。
母と妹を連れて逃げた夜のこと。
砂漠で出会った少女のこと。
忘れたことは一度もない。
……そして、彼女はもういない。
よく生きているよ、と我ながら思う。
さんざんな目に遭ったのに、僕はまたパリに戻って暮らしている。
よりいっそう、人の目を気にしながら……
人が怖い。
人の目が怖い。
人の視線が僕を拒絶している、いつしかそんなふうにしか考えられなくなった。
死を選べば簡単だけど。
優しい母と妹を置いてあっさり死ぬのは辛かった。きっと後悔する。
それならば自分を変えなければ。
胡散臭い経歴の持ち主の元へ行くのも、何かの縁、あるいはきっかけだと言えそうだ。
「……」
列車は長い橋を渡ってどんどんヴェネツィアに近づく。
ようやく白々と夜が明ける時間帯で、寝ている乗客も多いだろう。
コンパートメントの一部屋で、僕は窓の外に広がるアドリア海を眺めていた。
ガラスには片目を眼帯で隠した僕が映る。
左のグレーの瞳は砂漠から戻っても隠されたままだ。
不便と言えばそうだけど、慣れるしかない。
無かったことにできないのであれば、人目から遠ざける以外にないのだから。
でも、このオッドアイが無かったとしても、僕の運命は変わらなかったと思う。
すべては他者からの影響ばかりだ。
僕はそこから逃げるしかできない。
片目を隠し、不便を強いながら生にしがみついて藻掻く。
そんな生き方を本当に変えられるんだろうか……このヴェネツィアで。
不安しかなかった。けれど、今はこうするしかないのだと諦めにも似た感情が頭を支配していた。




