24 邂逅
一夜明けると、山は深い霧の中に沈んでいた。起きているのか不安になるほどどこもかしこも真っ白で、月明かりですらはっきり見えた木の枝さえも、薄ぼんやりと滲んでいる。日が昇れば晴れるだろうと思ったけれど、朝食を食べ終わっても白い靄は僕らの周りでゆるやかに渦巻いて、山をしっとり濡らしていた。
視界の効かないまま、不案内な場所は歩けない。
それで晴れるまで待つことにしたけれど、トリーはよほど先に行きたいのだろう、制止を振り切り駆け出して、すぐに落ち葉に滑って尻餅をつき、しおしおと戻ってきた。
きゅー……
お尻に落ち葉を貼り付けたまま、トリーはうなだれ僕の胸にしがみつき、腰に尻尾を絡ませて、鼻先を脇の下に突っ込んだ。どうやら転んだ姿を見られたことより、出発できないことのほうが辛いらしい。
霧が深くて動けないのはトリーのせいじゃないっていうのに、顔を隠して落ち込む姿があまりにも可愛くて。そしてこれが最後かもって思ったら、甘やかさずにはいられなかった。
「しょうがないよ。少しだけ我慢しようね」
くー……
「トリー、昨日は夕焼けが綺麗だったろう? それに月も星もよく見えていたから、すぐに晴れるって。もう少しの辛抱だからな?」
「そうさね。ごらん、空が明るくなってきた」
アキとおじいさんが懸命にトリーを励ましてくれている。僕も「大丈夫だよ」って囁きながら青い翼を優しく撫でて、耳の後ろを掻いてやる。すると少しずつ、トリーのこわばりが解けてきた。
きゅー
ぴすぴす鼻を鳴らしながら、トリーが目だけ動かし僕をちらりとうかがった。気づいて「ん?」とそちらを見ると、さっと視線が逸らされる。けれど耳の穴は僕の言葉を聞き漏らすまいとしっかりこちらを向いてるし、前足にはぎゅっと力が込められて、小さな胸がどきどきしてる。僕ががっかりしてないか、トリーはそれを気にしてるんだ。
「もう。トリーはホント可愛いなあ!」
こんなの、反則だ。たとえどんなに怒ってたって、この愛しさに勝てるはずないじゃないか。
だから僕はトリーの体をぎゅっと抱きしめ小さな頭を頰でぐりぐり撫でてやる。トリーはきゅっと首をすくめて僕の体にしがみつき、やがて脇の下から顔を出すと鼻を鳴らして僕の顎をなめだした。
きゅんきゅんきゅーう
「うん、うん。大丈夫だよ。ゆっくり行こうね」
「はいはいはーい。お前ら、いい加減にしとけよ。そろそろ出られるぞ」
呆れた声が降ってきて、それでやっと気がついた。
いつの間にか霧は晴れ、山全体が瑞々しい光に満ちて、眩しいぐらいに輝いていた。
「ふむ。明け方になって冷えたから、それで霧が出たのだろ。夕べは暖かかったからの」
「不思議ですよね。時期が時期だし野宿だし、俺もっとすっげえ寒いと思ったのに、そうでもなかったからさ」
「風がなかったからかな?」
秋の終わり、初冬と言ってもいいこの時期は、日を追うごとに朝晩ぐんと寒くなる。だから僕らはトリーに付き合うって決めたとき、数日野宿になるのを覚悟して、しっかり防寒準備を整えた。それに昨夜も凍えたりしないように枯葉を集めて布団にしたりと四苦八苦したっていうのに、拍子抜けするほど暖かかった。
「雲のない夜は冷えるのだがのお」
「トリーは寒くなかった?」
きゃるる、きゅるっ
「そっか、良かった。でも寒いと思ったら、すぐ暖かいところに入るんだよ?」
きゃう
「風邪、引いたら大変だからね」
「──んっとにお前らはさあ!」
がりがりと頭をかき回し、アキはなにやら叫びだした。するとトリーは手本を示すように軽やかに歌い出し、辺りは笑いに包まれる。そうやって賑やかに、僕らは灰色の山の中を進んでいった。
きゅー、きゃ
今日もこのまま進むだろう、そう思っていると、トリーが振り返って合図した。見ればトリーは枯れた沢に足を踏み入れ、こっちに行くよと落ち葉を蹴り上げ小さな崖をちょこちょこと登って行く。
きゃ
とんと上に降り立つと、トリーは振り向き「ここまで来れる?」と心配そうに首をわずかに傾けた。確かにそこは僕の背丈と同じぐらいの高さがあるけど、太い根と赤茶の岩が交互に重なり階段状になっているから、そう難しい場所ではなさそうだ。
「おっしゃ。こっからが本番だな?」
ぱんと両手で膝を叩き、アキが真っ先に崖に向かって踏み出した。
積もった落ち葉の表面は乾いているけど、朝方の霧のせいで裏側は湿っている。だから不意に滑ったりしないよう、アキは登りやすい場所を一歩一歩確かめてくれている。僕はその間、枝の先に明るい布を目立つように巻きつけて、帰るときの目印にした。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
「なんの。この程度なら問題ない。皆のおかげで苦労知らずだ」
きゅるる、きゅるきゅる
「おお、トリーも心配してくれるのか? ありがとう、私は元気だよ」
きゃ、きゅるるっ
おじいさんが微笑むと、トリーは嬉しそうに声をあげてまた先に進んで行く。
崖を登ると足元が茶色の土から徐々に砂利に変わっていき、両側の斜面は少しずつ険しくなった。青い空は遠く見上げた樹々の先、弱々しい日差しも届かない、ここは深い谷の底。でも、僕に不安は全くなかった。
だってトリーが一緒にいるから。
昨日歩いた細い細い獣道、トリーは自由に空を飛べるのに、どうしてあんな道を知っていた? さっきの崖だってそうだ。トリーなら軽くひと蹴りで登るだろうに、あえて歩数を踏んでいた。
わかることはただひとつ。
僕らでも歩ける道を、トリーは教えてくれている。
帰らなかったあの数日は、小さなトリーが広大な山の中、たったひとりで頑張って、どうすれば空を飛ばずに「そこ」に行けるか調べていたに違いない。
気づいたら、トリーがますます愛しくなった。そして同時にトリーの気持ちに応えたい、その思いも強くなる。だから僕は「そこ」でなにが起こっても、しっかり受け止めようって決めていた。
きゃるるっ、きゃう
「トリー?」
不意にトリーが駆け出して、少し先で右に折れた。慌てて追いかけ踏み込むと、そこは深い影になって薄暗く、まさに山の裂け目といった場所だった。幅は僕が両手を広げたよりも少し広く、左右は切り立った赤茶の岩が壁のように迫っていて、上の方では岩の裂け目にぽつりぽつりと木が生えている。仰け反るほどに見上げた先の青空は、まるで川のように切り取られ、両側から手を伸ばした黒い枝がいまにも閉じようとしているようだ。
「おお……なんと、これは」
「すっげ…… 飲み込まれそうだな、こりゃ」
唾を飲み込み恐る恐る歩いて行くと、少し先に庇のように上部が手前にせり出した、大きな岩が現れた。高さが僕の背丈の倍はある、縞模様のある赤茶の大岩。それが僕らの行く手を阻んでいて、その平らになったてっぺんで、トリーが僕らを待っていた。
きゃう
「おおい、トリー。まさか、これを登れってんじゃないだろうな?」
きゃう!
大岩の上から身を乗り出して、トリーがこちらを見下ろしている。そしてアキの問いに目を輝かせて返事をすると、早く早くと飛び跳ねた。
「いやいや、どーやっても無理だろ」
「うーん。これはちょっと……」
なにしろ大岩の下半分は深く大きくえぐれてしまって、飛び上がっても指先すら天井には届かない。両側の崖にしたってこの周辺は急すぎるうえ、手がかりがほとんどないから登るのは無理だろう。あとは大岩の向こうに見える、木の根元にロープをくくりつけて登るかだけど、僕らの手持ちは長さが足りないようだった。
「どうする? 少し戻って登れる場所、探すか」
「ううむ。よしんば登れても、この斜面は岩が多い。無事にここまで来れるかどうか……」
「上まで行っても、あの崖は降りられないよ」
きゃーう!
「あっ、トリー!」
なかなか来ない僕らの様子に焦れたのか、トリーは身をひるがえして岩の向こうに消えてしまった。どこに行ったと僕らが背伸びしながら二歩三歩と後退ると、不意に足元から声がする。
きゃう
「わっ。トリー、どこから来たの?」
きゃう!
後足で立って僕の膝に前足を置き、ひとこえ鳴くとトリーは大岩に向かって歩き出した。そして岩の下で立ち止まって振り返るのに、僕らも急いで後を追うと、そのままトリーはとことこ奥のほうに入っていった。
「まずは俺が行くから、ここで待ってて」
僕らのことを手で制し、荷物を降ろして最初にアキが入っていった。えぐれた岩だと思っていたけど、薄暗い穴の奥からトリーの声が響いてくるから、中は思ったより深そうだ。覗き込むと、そこは苔が紐状になって幾筋にも垂れ下がり、まるで細切れのカーテンのようになっていた。それを手で払いながら腰をかがめ、アキは臆することなく入って行った。
「……くっそ。なんだよ、これ!」
「なに。アキ、どうしたの!?」
問いかけても返答はなく、アキはただ待ってろと怒鳴ったきり、辺りはしんと静まり返った。山の裂け目の深い底、そのさらに岩の下では目を凝らしても奥の様子はわからない。さすがに不安になってきて、おじいさんと顔を見合わせ、追いかけようと腰をかがめたそのときだ。
「おーい、ミカ! こっちー」
アキが岩の上に腹ばいになり、僕らを見下ろし晴れやかな顔で手を振っていた。そしてその横ではトリーも一緒になって「伏せ」をして、誇らしげに尻尾を大きく揺らしている。
「縦穴! 奥に縦穴がある!」
一瞬、なんのことだかわからなかった。けれどアキに促されるまま岩の奥へ入ってみれば、そこには確かに人ひとり通れるぐらいの縦穴があり、僕らは実にあっけなく、大岩の上まで登ることができたのだった。
「しっかしなあ、あんなところから登れるなんてなあ」
「トリーはよく見つけたのお」
きゃる、きゃる、きゃるるっるーう
「頑張ったね。大変だったろう?」
きゅるる、きゅるきゅる
トリーは嬉しそうに喉を鳴らして皆の足元にまとわりついて、そしてまた歩き出した。
大岩を登った先は両側からさらに崖が迫ってきて、まるで僕らを押しつぶそうとするかのようだ。足元も砂利から拳大の石に変わり、ときおり乗り越えなくてはならないような岩まであった。周りはすべて縞の入ったごつごつとした赤茶の岩、ときおり色が変わった筋があるのは、わずかに水が流れているから。
「ここ……沢っていうか、川だよな」
「ふむ。いまは枯れているが、の」
「突然水が押し寄せるとか、ないだろうな……」
「大丈夫だよ。最近雨は降ってないし、それにトリーがいるから」
「そうだけどさ。おいトリー、水が来たから飛べとか言っても無理だからな。わかってるよな?」
きゃう
「もう! アキはトリーのこと、信じてないの?」
「信じるとか信じないとか、そういう問題じゃないだろ」
「そうじゃなくて」
「ほれほれ、そのぐらいにしなさい」
大きく息を吐き出して、僕とアキは口を噤むと黙々と足を動かした。
さっき休憩したばかりなのに、みんなどこかぴりぴりしている。それはきっと、こんな場所にいるからだ。
まだ昼前で、空には雲ひとつないだろうに、ここは谷底、どこか薄暗くて肌寒い。それに、さっきまでは皆で並んで歩けたのが、いまは縦にならないとまともに先にも進めない。周りはすべて岩ばかり、ここは僕らの世界じゃないって、拒絶されてる気さえする。
そんな僕らの不安が伝わったのか、トリーの様子もどこかおかしかった。
ピンと立っていた長い尻尾が地面と平行になっている。耳はせわしなくあたりをうかがい、なにかを気にしているようだ。ついにトリーの頭が下がり、腰を落としてそろりそろりと進み出すものだから、僕らも息を潜めて立ち止まった。
(ミカ、トリーはどうしたんだ?)
(なにか……警戒してるみたい)
(周りには……なにも見えんが……)
三人で崖を背にして身を寄せて、僕らも様子をうかがった。けれど怪しいものは見あたらず、ときおり風が抜けるだけ。
(蛇でもいるのかな?)
(とっくに冬眠してるだろ)
(でもトリーが警戒するのって──うん?)
(どうか、したかね)
(……音、が)
しー、とささやくような音がする。風の音かと思ったけれど、そこかしこから響いてくるから風ではない。それどころか音はだんだん大きくなって、はっきり聞こえるようになってきた。
じーーー……
なんの音だときょろきょろ辺りを見渡すと、頭の上を黒いなにかが横切った。
──ぎゃ!
「それ」の着地と同時、トリーがぱっと飛びすさる。そして僕らと「それ」の間で四肢を広げて踏ん張って、頭を下げて威嚇した。
僕らは声を失った。
だって「それ」は鳥ではなかった。深い青にきらめくウロコ。ゆっくりと折り畳まれた、羽先が黒い青い翼。どっしりと踏み出された前足の後ろには、筋肉の盛り上がった後足。太い尻尾をピンと立て、扇状に頭の羽を広げたさまは、まさに王。貫禄があって、頬と喉の皮がたるんでいるからきっと壮年の王様だ。
それが、のっしのっしとこちらに向かって歩いてくる。トリーは気の毒に、すっかり圧倒されてしまったようで、腰が引けて尻尾の先が震えていた。身体だって向こうのほうがふた周りは大きいから、勝負になるはずがない。まさに大人と子供。なのにトリーは、逃げずに僕らの前で必死になって立っていた。
きゃ!
──きゃ……
王様は、声も深く大きかった。挨拶だろう、トリーに鼻をくっつけたけど、トリーはよろめいてしまったから、力も相当強そうだ。
きゃー、るるるるーう
──きゅー、きゅるる……
うるるるーう、きゃ!
王様の一喝に、トリーがびくりと身体を揺らし、怯えたのか小さくなって後退った。でも尻尾の先が僕の足に触れたとき、トリーははっと僕を見て、また四肢に力を込めると一歩踏み出し王様と向かい合う。
王様は、探るようにじっと僕らを見つめていた。そしてトリーに視線を移すと、険しい声でひとこえ鳴いた。
きゃう!
間違いない。僕らがここにいることで、トリーが責められている。きっと、人間は悪いやつだって言ってるんだ。
それは誤解だ。仲良くしたいとは思っても、僕らにドラゴンを傷つけるつもりは更々ない。それに来ちゃいけないところだったなら、すぐにでも出て行こう。だからトリーを責めないで。仲間だって認めて欲しいって伝えたかった。
ああ、でもどうすれば。このあいだはどうしたろう。まず互いの尻の臭いを嗅ぎあって、鼻をくっつける挨拶をして、それから──
「ひゃっ!」
ぎゃっ!
不意に尻をつつかれて、叫び声を上げてしまった。同時に足元から泡を食って逃げる影。それはするすると崖を登ると、岩影に隠れて見えなくなった。
「ミカ!」
「噛まれたのか!?」
「ち、ちがっ。びっくりしただけ──ごめんね、トリー。心配かけたね。僕は大丈夫だよ」
トリーが駆け寄り、心配そうに見つめていた。だから僕は安心するよう、腰をかがめてトリーの頭を両手で優しく撫でてやる。
きっとあれは、このあいだ会った子だ。腰の袋に入っている、ばあちゃんの傷薬を狙ってきたに違いない。
「……ミカ。上、見てみろ──ゆっくり」
低く、アキが険しい声で囁いた。どうしたのと言いかけて、視線を動かしはっとした。
崖に、たくさんの小さなドラゴンが張りついている。鋭い爪を岩に引っ掛け逆しまになり、あるいは岩陰に身を寄せて、黒い瞳をきらりと光らせ僕らをじっと見つめている。
「いつの間に……」
「もしや、さっきの音は……?」
ああ、そうか。きっとここはドラゴンたちの国なんだ。だから余所者を警戒するし、まして僕らは人間だ。やすやすと中には入れられないってことだろう。
きっと、ここがトリーの目的地。トリーは自分の国を、紹介しようとしてたんだ。でも、僕らが一緒でトリーは受け入れてもらえるのか。もし妨げになるのなら、僕はここでトリーとお別れしなければ。
きゃるるるーう、きゃう!
王様がひとこえ鳴いて、皆になにか指示したようだ。ドラゴン達が一斉に崖から降りてきて、僕らを前後から取り囲んだ。
「なあ……俺たち、ヤバくね?」
左右は高く険しい崖、そして前後をドラゴン達に囲まれて、あっという間に僕らの逃げ場はなくなった。アキもおじいさんも拳をぐっと握りしめ、腰を落としてすぐ動けるように身構える。
空気がぴりりと張り詰めた。だけどドラゴンの王様は、首を少し傾けて、良く通る声で合図すると踵を返して奥に向かって歩き出した。
きゅるっ、きゃーう!
……きゃ
トリーも振り向き僕らに「行こう」と合図して、王様の後を追う。僕たちは少し迷ったけれど、トリーについていくことにした。この山の中ではどうやってもドラゴンからは逃げ切れないし、逃げたら却って彼らを刺激すると思ったからだ。
「俺たちさ、まさか非常食ってわけじゃないよな?」
「それはちょっと……違う気がする。だってさ──」
「ほれ、また来おった!」
じゃっ!
ぎゃう、ぎゃぎゃっ
──じゃーっ!
さっきちょっかいかけてきた子がまた僕の足に登ろうとして、他の子と小競り合いになってしまった。それを王様が一喝すると、二頭はぴたりと静かになって、うなだれ後についてくる。
王様は一瞥すると、ふんっと大きく鼻を鳴らしてまた先に進み出す。それを黙って見ていたアキは、ほうと感嘆の声を上げた。
「すげえな、流石だ」
「うん。僕たち、嫌われてないのかも」
「そうさの。ほれ、見てごらん。みな興味津々で私らを見つめておる」
おじいさんの言うとおり、周りの小さなドラゴン達は黒い瞳をきらきらさせて、僕らの様子を伺っていた。あれはトリーが構って欲しいときの目と同じ。それに気づいたら、少し気が楽になった。
どうやらトリーは仲間はずれでないらしい。ならもう少し、僕はトリーのそばにいられるんだ。猶予はあまりないかもしれない。それでも僕は、たまらなく嬉しかった。




